第72話:考えた気持ちと心の声(前編)
その日は、ひたすらに寒い日だった。
教室にはストーブという暖房器具がある。
しかし、生徒会室には無い。
出来るのは部屋を閉め切って、しっかりとコートを着るぐらいだ。
「寒い……」
奈津季さんは静かにそう言った。
「大丈夫? 今日は人が少ないから余計にそう感じるよね」
結露した窓を拭って外を見ると雪が降っている。
午前中はただの曇り空だったが、昼過ぎから一気に降り出した。
このペースだと積もってしまうだろう。
俺は後輩達の身を案じて、今日は早く帰るように言っていた。
都合、ここには俺と奈津季さん、大場の3人しかいない。
なお、一ノ瀬は進路指導の先生に呼ばれて面談を受けている。
何もこんな日にやらなくても良いのにな。
もう少し柔軟な対応をして欲しいものである。
まあ一流企業ですら台風の日に出社する始末だ。
公務員である先生にそれを求めるの酷な話か。
「お茶入れようか?」
「あ、うん、お願い」
言われて奈津季さんのマグカップを取り出す。
緑茶のティーパックを入れて熱湯を注いだ。
立ち昇る湯気がこの部屋の寒さを物語っている。
「はい、どうぞ」
「ありがとー」
奈津希さんは生徒会広報誌の清書をしてくれていた。
「ごめん、僕もちょっと早く帰るよ」
窓の外を不安そうに見ていた大場がそう言った。
「うん、そうした方が良いよ。
奈津季さん、お茶を入れたばかりで悪いけど、大場と一緒に帰ったら?」
流石にこの天気だ。自転車で帰るのは危ない。
歩いて帰るならひとりよりふたりの方が安全だろう。
「高木君はどうするの?」
「一ノ瀬を置いて帰れないだろ」
そんなことをしたら心配で夜も眠れなくなりそうだ。
「うーん、じゃあ私も付き合うよ。ひとりで待っているのも寂しいでしょ?」
「それはそうだけど……」
帰れるときに帰っておいた方が良いと思う。
電車が止まってしまったら洒落にならない。
「じゃあ、お先に失礼します」
そう言って、大場は帰っていった。
窓の外を見るとすでに一面、銀世界だ。
ここまで降るのは滅多にない。
「綺麗だねー」
「あー、うん、そう思っちゃうよね」
雪国の人からすると、雪なんてうっとおしいだけなのだろうけど。
生まれも育ちも関東圏な俺は、雪を見るだけでテンションが上がってしまう。
「はい、コレ。しばらく使ってて」
そう言ってコートを渡した。
正直、学ランだけだとかなり寒いけど奈津季さんの方が心配だ。
「えー、いいよ。高木君も寒いでしょ?」
「寒いけど、我慢できない程じゃないから気にしないで」
最悪の場合は校舎内を少し走ってくれば済む話だ。
悪天候時は多くの運動部が階段を使ってトレーニングをしている。
「じゃあ、遠慮なく」
そう言って自分のコートを膝にかけて、俺のコートを羽織った。
……なんか、ちょっとドキドキするな、このシチュエーション。
「そういえば……、生徒会室にふたりっきりってちょっとドキドキするね」
考えていたことを言われてビックリした。テレパシーでも使ったのかな?
「あー、うん、そうだね」
照れ隠しに思わず目を反らしてしまった。
「そういえばさ、梨香ちゃんとは結局どうなったの?
最近、上手くいっているみたいだけど」
「特に何も変わってないよ」
確かに、最近の一ノ瀬は良く懐いてくれているように思う。
けど、それだけなんだよな。
「えー!? そうなの? てっきり付き合ったのかと思ってた」
「それが、そんなことないんだよ……。我儘が増えただけだ」
でもまあ、決して悪い状況じゃない。俺はこのままでも良いと思っている。
「そっか、噂ではふたりはすでに一線を越えている、って話だったのに」
「それは誰が流している噂なんだ?」
俺たちは校内で有名なふたり、というわけではない。
明らかに知人が流した悪質な噂だ。
「主に、美沙ちゃん」
「よーし、あの子には後でたっぷりと説教が必要だな!」
それはそれで楽しそうだ。
その後はしばらく、静かな時間が流れた。
奈津季さんは黙々と生徒会広報誌の清書を続けている。
基本的にあまり話さない人だ。
俺は奈津季さんが字を書いている姿を見るのが好きだった。
美しい姿勢で綺麗な文字を書く。横で見ていると心が落ち着いた。
こんな人が彼女だったら、本当に幸せだろうな。
「あー、ごめんね、しゃべらなくて」
唐突に奈津季さんがそう言った。
「いや、いいよ。俺は静かな時間も嫌いじゃない」
昔はそうじゃなかったんだよな。
沈黙が怖くて、静かになると自分から次々と余計なことを話していたっけ。
「寒くない? 大丈夫?」
「うん、おかげさまで。ありがとう、高木君」
そう言った後、再び広報誌に目を落とした。
真剣な表情が美しい。この人は本当に綺麗な人だ。
俺は奈津季さんが清書を仕上げるまで黙って見惚れていた。
「ん、出来た」
「お疲れ様ー」
出来上がった広報誌の原稿を受け取って中身を確認する。
うん、本当に綺麗な文字だ。誤字脱字もない、見事な出来だ。
……文章を書いたのは俺だから内容はアレだけど。
「ねえ、高木君……」
「んー、何?」
奈津季さんは妙に緊張した面持ちでこっちを見た。
どうしたんだろう?
「私と付き合ってみない?」
……幻聴が聞こえた。俺は夢でも見ているのか。
「その……、梨香ちゃんに高木君と付き合う気が無いんだったらさ。
私と付き合ってみてもいいんじゃないかな?」
ああ、なるほど、そういう事に興味があるってことか。
「私のこと、好きじゃなくても良いから。まずはお試しってことで……」
信じられないぐらい、都合の良い話だ。
これ、真面目に答えて後で笑われるとか無いよな……?
――嘘でした! 本気にしちゃった?
そんな感じで言われたら立ち直れないぞ。
「駄目かな?」
ああ、これは本気の眼だ。逆に茶化したら失礼だろう。
「ありがとう、奈津季さん。その申し出は凄く嬉しいよ。
でも、流石にそれは勿体ないと思う。
奈津季さんはちゃんと好きな人と付き合った方がいいよ」
今の俺にはこれしか言えない。
興味本位で付き合うとか、俺には考えられないのだ。
奈津季さんは大事な友達だ。変なことをして傷つけたくない。
「高木君、私ね。高木君のことが好きだよ。
だから、梨香ちゃんがしてくれないこと、いっぱいしてあげられると思う」
……奈津季さんの言った言葉が理解できなくて、頭が真っ白になった。
今、俺のことを好きって言ったのか?
「そりゃ、梨香ちゃんには勝てないと思うけど……」
そう言えば、一ノ瀬も奈津季さんに対して同じように思っていたっけ。
「そんなことないよ、奈津季さんは十分すぎるほど魅力的だ」
「またそれ。まあ、いいけど……」
何だか、寂しそうな表情をする。これは嫌だった。
まるで……卑屈な頃の自分を見ているようだ。彼女には似合わない。
「何か、あるの? その、一ノ瀬のことで……」
「あー、うん……」
奈津季さんは普段、それほど多くを語らない。
だから、きっと色んな事を我慢しているのだと思う。
昔の……特に中学の頃の俺もそうだったから何となくわかる。
「私ね、昔から見た目は褒められるんだ。
だから何となく、そこには自信があるんだけど……」
そうだったのか。少し意外だった。
でも当たり前のように自信をもって良い容姿なのは間違いない。
「だけど、男子からは逆に話しかけてもらえなくて。
私が人見知りなのもいけないんだけどね。
女子からもなんか遠ざけられちゃうし、嫌だったんだ。
もっと普通で良かったのに、って思ってた」
そんな風に悩むこともあるのか……。美人は美人で辛いんだな。
もしかしたらイケメンも意外と悩んでいるのかもしれない。
……にわかには信じられないけど。
「でも、梨香ちゃんは昔から良くしてくれたんだ。
男友達とかも紹介してくれるし……、まあそれは迷惑だったんだけど」
衝撃の告白だな、それは。そして奈津季さんらしくない言葉だ。
一ノ瀬のことを迷惑だなんて……。
「そういえば、一ノ瀬から聞いた。アイツもそれなりに困っていたよ。
奈津季さん目当てで友達になろうとする男子が多かったんだってさ」
結局、悪いのは全部、勇気の無い男である。
「ふふ、流石、高木君。梨香ちゃんの味方だね」
「違うよ。そういうつもりで言ったんじゃないんだ」
寂しそうな顔をする奈津季さんを見て、ついフォローしてしまった。
「いや、いいよ。それは事実だと思うし。でもねー、知ってる?
その紹介された男子はね、その頃すでに私に興味が無かったの。
大抵はね、梨香ちゃんのことが好きになっているんだよ」
……ちょっと待て。それはひど過ぎるぞ。
奈津季さんに一目ぼれした男子が一ノ瀬に声をかける。
だが、一ノ瀬と仲良くなった男子は一ノ瀬に惚れてしまう。
その男子に興味がない一ノ瀬は奈津季さんを紹介して終わりにするのだろう。
結局、奈津季さんの元には一ノ瀬のことを好きになった男子が運ばれてくる。
なんという罪作りな女だ……。男子もしっかり振られているし。
「アイツ、結局、厄災を振りまいているだけじゃないか!」
「だから、私は梨香ちゃんには絶対に勝てないの」
そっか、こうやってお互いに闇を抱えてしまっていたのか。
お節介なのは分かっているけど、この誤解は解いておきたい。
俺は、奈津季さんが自分に魅力が無いだなんて思って欲しくない。
「奈津季さん、俺がさっき何考えていたか教えてあげる」
「えっ?」
本当は胸の内に留めておくべきだと思っていた。
「思わずさ、見惚れちゃってたんだ。
字を書いている時の表情とか、姿勢とか、凄く綺麗だなって思って。
静かな時間が心地よくて、落ち着いた。
こんな人が彼女だったら、本当に幸せだろうなって考えてたんだ」
「それ、本気で言っているの?」
この気持ちを言葉にするのは残酷なことなのかもしれない。
でも、どうしても嫌だった。彼女が一ノ瀬に敵わないわけない。
「本気だよ。奈津季さんは奈津季さんで本当に魅力的だ。一ノ瀬とは違う。
比べても意味がないよ。違うだけで、劣ってなんかいない」
「……ありがとう」
奈津季さんはやっと嬉しそうな表情をした。
でも、罪悪感を感じる。俺はこの人の気持ちに応えられないからだ。
「でも、ごめん。俺は一ノ瀬が好きだ。
その理由は奈津季さんより可愛いからじゃない。
アイツが、一ノ瀬梨香だから、それだけなんだ」
「ふふふ、なんかもう滅茶苦茶だねえ。でも、それはわかってたよ。
だって……高木君は最初から梨香ちゃん一筋だったもんね」
それは過去の世界でもそうだった。
「最初、高木君は私のこと好きなのかなって思ってたんだけど」
「えっ!?」
言われてみると、そう取れるかもしれない。
なにせ、奈津季さんに対しては明確な好意があったからだ。
もしかして、俺は凄く思わせぶりな態度を取ってしまったのか……?
奈津季さんが俺のことを好きになるなんて、想像できなかった。
思い起こすと自分の行為、全てが嫌なものに思えてくる。
「ごめん、俺、ずっと勘違いさせるような事を言って……」
「いや、私、そこまで馬鹿じゃないよ」
奈津季さんは自嘲めいた苦笑いを浮かべて、俺の言葉を遮った。
「見ていればわかるよ、高木君が私のことを何とも思ってないってことぐらい。
梨香ちゃんのことを見る目を見たら、勘違いだってすぐ解っちゃった」
「そっか、でもそれはちょっと言い過ぎだよ。
ずっと綺麗だなとか、可愛いなとか。その……好意みたいなのはあったんだ」
何とも思っていない、というわけではなかった。
「で、どうするの? その好意がある女の子から誘われているわけだけど」
面と向かって、真剣な表情をされるとたじろいでしまう。
こういう時、女の子の方が強いんだろうな。
「その……、か、考えさせてくれないかな?」
思わず、噛んでしまった。我ながらみっともない。
「えっ!?」
「何で驚くのさ」
お互いに、お互いの反応が予想外だったようだ。
「いや、高木君のことだから、即答で『ごめんなさい』って言われるかと」
「あー、うん、他の人だったらそうだけど……。
奈津季さんだから、ちゃんと考えてみたい。
その……、期待させちゃうみたいで悪いんだけどさ。
俺も、ずっと叶わない恋をしているのは辛いから。
未来がある恋愛が出来るなら、そうしてみたいって思うんだ。
でも、ごめん、やっぱり期待はしないで欲しいかな」
思ったことをそのまま全部言った。頭の中がぐちゃぐちゃだ。
本当に即答出来なかった。
中学時代の告白にはあっさりと答えられたのに……。
でも仕方ないと思う。奈津季さんは他の誰かと違って俺の中で大きすぎる。
「それは無理。期待しちゃうよ。でも、分かった。考えてみて」
「ありがとう、奈津季さん」
この「ありがとう」に込めた気持ちはふたつあった。
回答を待ってくれること、そして好きになってくれたこと。
こんなに嬉しい好意は初めてだ。
「じゃあ、私、先に帰るね」
「えっ! それは駄目だよ! 危ないから、一ノ瀬と3人で帰ろう」
外は雪が降っているし、もうすぐ暗くなる。
「高木君、私は子供じゃないの。心配してくれるのは嬉しいけどさ。
その……、私もけっこう、いっぱいいっぱいだから。ひとりにさせて」
こう言われた引き下がるしかないか。
これ以上は親切の押し売りになってしまう。
「そっか、わかった。本当に気をつけてね」
「うん、何だか、暑いなー」
今の生徒会室は屋内でありながら吐く息が白くなるレベルの寒さだ。
でも確かに、緊張感と興奮で暑く感じる。
「外は極寒だと思うよ?」
「ふふっ、そうだね、ちょうどいいかも」
笑ってくれたのが、嬉しかった。少しだけほっとする。
――チリンチリン。
生徒会室の扉についた鈴が鳴って、奈津季さんは出て行った。
ひとりになった生徒会室はさっきまでと違って、酷く冷たく感じた。
特に足元が冷える。感覚が無くなってしまいそうだ。
奈津季さんの温もりが残ったコートを着込む。
彼女の言葉を思い出すと、あらためて嬉しいと感じた。
胸の奥が暖かくなる。こんな気持ちになれるなんて思わなかった。
と、同時に一ノ瀬もこんな感じなのだろうと考える。
俺が奈津季さんから好きだと言われるのと同じぐらい。
一ノ瀬も俺に好きと言われて嬉しいのかな。
だったら……なんだか色んな事の辻褄が合う気がした。
ふたりで出かけるのも、腕を組んで歩くのも、少しも嫌じゃない。
むしろ嬉しいぐらいだ。手を繋いでほしいとさえ思える。
そして、明確な好意が心から嬉しかった。
自分の存在を認めてもらえたような気持ちなる。
出来れば、このままずっと俺の事を好きでいて欲しい。
そんな身勝手な事をつい思ってしまう。
でも……、確かに俺は奈津季さんを好きじゃない。
俺は、今でも一ノ瀬が好きだ。
だから、アイツは俺と一緒に居ながら、別の人を好きになるのだろう。
その現実を思い知らされたような気がした。
やっぱり俺は、一ノ瀬に好きになってもらえそうにない。
だから、俺が奈津季さんと付き合うのは凄く良いことだと思った。
そうすれば未来の不幸はあらかた回避されるだろう。
もちろん、奈津季さんに愛想を尽かされるという未来もあるかもしれない。
でも……人生最悪の日、あんな事にはならないと思う。
それに奈津季さんなら好きになれそうな気がするんだ。
もしも、一ノ瀬と出会わなかったら、彼女を好きになっていたかもしれない。
そんな風に思える人だ。
付き合っている内に、俺の気持ちが変わることだってあるだろう。
一ノ瀬のこと、本当はずっと忘れたかった。
好きにならなければ良かったと思いながら生きてきた。
俺はずっと、この気持ちを憎んでいた。
それなのに、どんなに拒絶しても、無くなってくれない。
彼女を好きになったこと。それが俺の人生、最大の過ちだ。
奈津季さんの事を考える。
彼女も俺が一ノ瀬を想うように、俺の事を想ってくれるのだとしたら。
是が非でも応えたいと思う。こんな悲しい気持ちにさせたくない。
彼女と付き合えば、憧れていた両想いになれるかもしれないんだ。
俺が奈津季さんの頭を撫でたら、喜んでくれるのかな?
それは凄く嬉しい事だ。奈津季さんには幸せになって欲しい。
やっぱり、俺が一ノ瀬の事を好きでいるのは悪い事だ。
誰も得をしない、むしろ、色んな人を傷つけてしまう。
一ノ瀬を傷つけて、奈津季さんを傷つけて、俺自身も傷つける。
こんな感情に意味など無い。無くなってしまえば皆が得をする。
なのに俺は、どうして……、一ノ瀬の事が好きなのだろう。
頭ではどうすれば良いのか分かっている。答えも出ているんだ。
だけど、心の声は変わらない。さっきからずっと同じことばかり言っている。
一ノ瀬に逢いたい……。
 




