第70話:ずっと、その手を繋ぎたかった
誰かが俺の頭を撫でてくれている。
こんな夢、見たことなかったな。
そもそも頭を撫でてもらった記憶すらないぞ。
本当に子どもの頃、母がそうしてくれていたのかもしれない。
なんだか、すごく心地が良い。
一体誰だろう?
真っ先に思いついたのは一ノ瀬だ。
もしそうだったらどんなに幸せだろう。
考えただけで涙が溢れて頬を伝った。
そんなことあるわけない、そう思ってしまったからだ。
「ごめんね、起こしちゃった?」
意識が虚ろから戻ってくると、目の前に一ノ瀬の顔があった。
ああ、そうか……、生徒会室にいたんだっけ。
頭を撫でてくれたのは一ノ瀬だった。
普通に考えれば、むしろそれ以外の可能性はほぼ皆無だ。
なぜ、そんなことあるわけないと思ってしまったのだろう……。
少しずつ、停止した思考回路が蘇ってくる。
「あ、いや……、その。もう少しだけ、このままで……」
願っていいのか、わからなかった。
だけど、一ノ瀬はそっと頭を撫でてくれる。
「高木ー、あんまり梨香さんに甘えるなよー。羨ましいぞ」
中森の声が一気に現実に引き戻す。
周りに人がいることに気がついて顔が真っ赤になった。
「今度、拓斗にもしてあげようか?」
一ノ瀬、それは止めてくれ!
「いや、いいよ。普通に怖いよ、高木に殺されるかもしれないだろ」
「えー、そんなことしないと思うよ」
いや、します。少なくとも絶対に嫌がらせはすると思う。
周囲の人と普通に会話をしながらも俺の頭を撫で続ける一ノ瀬。
正直、ずっとこのままでいたかった。
もう一度目をつぶってしまうことも考えたが、ここには後輩もいるのだ。
仕方なく、身を起こす。
「もういいの?」
良いわけ無いじゃないか。
「あー、うん。ありがとう、一ノ瀬」
だけど、こう言うしかないよな。
「ごめん、皆、片付け終わっちゃった?」
「はい、大丈夫です!」
久志君が元気よく答えてくれた。
「そっか、今日は皆、ありがとう。今度、打ち上げ行こうね!」
「おおー!」
このメンバーで出かけるのは本当に楽しいだろうな。
時間も遅いのでこの日は中森の号令で解散となった。
最近は振らなくてもちゃんと仕切ってくれる。
当時は中森のこういった変化も気がつかなかった。
無関心というより、自分のことしか考えられなかったんだろうな。
「お疲れ様でしたー!」
そう言って、自転車組が元気に帰っていく。
すでに暗くなっているので少しだけ心配だ。
全員を見送ったら、俺と一ノ瀬はいつものようにふたりで帰ることになった。
生徒会室の電気を消して、施錠したら下駄箱へ向かう。
「ん! ありがと」
左手を差し出すと鞄がかけられる。
最近は俺が持って歩くのが普通になっていた。
変に遠慮されるより、俺はこっちの方が居心地が良い。
靴を履き替えたら外に出る。
冬の夜空は空気が澄んでいて、星が綺麗に見えた。
……といっても俺はオリオン座ぐらいしかわからない。
いつも通り、俺の右ひじの袖を掴む一ノ瀬。
彼女にとってそれは何の意味もない行為なのはわかっている。
けれど、先ほど感じた温もりが愛しくて思わずその手を取ってしまった。
「んー?」
一瞬だけ、驚いた顔をした一ノ瀬だったが、その表情はすぐに変わった。
……意地の悪そうな笑顔を見せる。頼むから、そこは少し照れて下さい。
「あれー、高木君? 今日はどうしたのかな?」
ニヤニヤしながら俺の顔を覗き込む。
やめろ、こっちを見るな。
救いだったのは、一ノ瀬が俺の手を振り払わなかったことだ。
「その……、手を繋ぎたくて……」
言わなくてもわかるはずだ。
でも、一ノ瀬はわざわざ言わせたかったのだろう。
「ふふふ、仕方ないなー」
そう言って、握り返してくれた。
少し冷たい手が、心地良い。
ずっと、こうしたいと思っていた。
伝わってくる温もりが、胸の奥を暖める。
良くわからない感情が溢れ出して心が痛くなった。
「ごめんな……」
「何で謝るの?」
きょとんとした顔で少し首を傾げる一ノ瀬。
自分の欲望に対する罪悪感が強かった。
一ノ瀬は手を繋ぐのは好きじゃないと知っていたのに、望んでしまったのだ。
これまではずっと我慢してきたのに……。
ちょっと疲れたぐらいで制御できなくなるとは、情けない。
せめて、涙が出そうになるのを必死でこらえた。
「高木ー!」
ふいにかかったその声で思わず手を離す。
「渡辺?」
近寄ってくるのはテニス部員の渡辺だ。
「お前、コート整備サボったろ!」
「いや……、さすがに球技大会後に部活に顔を出すのは無理だよ」
その話はすでにしてあったはずだ。
「一ノ瀬さんとイチャイチャしてる暇はあるのに?」
「いや、してないから! 誤解されるようなこと言わないでくれ」
と、言いつつ、今日に限ってはそれほど強く反論できないかもしれない。
そもそも、ついさっきまでは手を繋いでいたのだ。
「まあ、いいや、明日は朝練、来るだろ?」
「……俺、昨日から2日間、まともに寝てないんだけど」
球技大会の運営が大変なことは一般生徒には全く知られていない。
「それぐらい、根性出せよ!」
……確かにこの時代、大抵の事は根性とか気合で片付けてたな。
「ああ、わかったよ。行きますよ」
肉体は若いから何とかなるだろう。それに朝練は嫌いじゃない。
「よし、じゃあ明日は俺の新サーブを受けてくれ!」
新サーブか、なんかいいなあ、その響き。どんな回転だろう?
それにしても熱いヤツだ。こういうところ、本当に好きだったな。
「渡辺はこの後どうするの?」
とりあえず、聞いてみた。
「帰るに決まってんじゃん」
愚問だったようだ。
「あ、じゃあ一緒に……」
実は人見知りの一ノ瀬だ。出来れば3人で、とはいきたくなかったのだが……。
「いや、何言ってんの?
邪魔しちゃ悪いからひとりで帰るよ。じゃあね、一ノ瀬さん!」
そう言って渡辺は走っていった。
声をかけられた一ノ瀬は一言も話さなかったが、小さく手を振ってる。
その仕草も可愛いな。
「一緒に帰らなくて良かったの? 別に私は構わないけど」
「ああ、うん……」
いつもの俺だったら、追いかけて3人で帰っただろう。
その場合、一ノ瀬はきっと最後まで静かにしている。
「友達は大事にしないとダメだよ?」
「そうだけどさ……、今日はその……」
思わず一ノ瀬の手を見た。今日はもう、繋げそうにない。
それでも、せめて、ふたりで居られる時間が欲しかった。
まだ、あの絶望的な記憶が心を支配していた。
今の一ノ瀬には全く関係ない話なのはわかっている。
それは分かっているのに、少しぐらい甘えさせて欲しいと思ってしまう。
俺にはまだ弱い部分がたくさん残っている。
「もう! しょうがないなー!」
そう言って、一ノ瀬は俺の目の前に手を差し出した。
細くて華奢な手。指も細いし、手のひらも小さい。
透き通るような白い肌が綺麗だった。俺とはまるで違う。
「えっ……?」
意図が分からずに、しばらく呆然とする。
「どうぞ、ご自由に」
そう言って、意地悪そうに笑った。
俺はおそるおそる差し出された手に、自分の右手を乗せる。
一ノ瀬はその手を思い切り握りこんだ。
「んー!」
「……痛くない。握力不足だ」
そう言って、軽く握り返す。
「そこは嘘でも痛がってよ!」
笑いながら、俺たちはもう一度手を繋ぐ。
俺は一ノ瀬のこういうところが好きだ。
さりげなく、気持ちを汲んでくれる。
彼女はいつも、こうやって優しかったのを思い出した。
ふたりで手を繋いで歩く。過去の高校時代にこれをやった思い出は無い。
いつものようにする会話が、胸の奥に染みる。
一ノ瀬の声が心地よくて、ただ、幸せだった。
右手の温もりが過去の絶望を優しさで塗りつぶしていく。
「なあ、一ノ瀬」
「なあに?」
だから、言いたくなった。一ノ瀬のためじゃない。
それはまるで感謝の気持ちを伝えるような、そんな想いだった。
「俺、お前のことが好きだ」
「うん、知ってるよ」
一ノ瀬は表情ひとつ変えない。
普通なら告白に聞こえるかもしれないが、もはや日常のことだった。
「ありがとうね、高木くん」
それでも、一ノ瀬はこの一言を、いつも付け加えてくれるのだ。
受け入れてはもらえない、けれど受け止めてくれる。
それだけで、俺には十分に嬉しかった。
駅に着いて、定期券を取り出す。
流石にここまで来たら手を離さなければいけない。
だが、最悪なことに別の嫌な記憶が蘇る。
最後に一ノ瀬と手を繋いだのは、決別の時だ。
手を離した時の気持ちが俺を支配する。
この手を離したら、もう二度と会えない……。
そんなわけないのに。
「どうしたの?」
心配そうにこっちを見る一ノ瀬。ごめんな。
大丈夫、これが最後じゃない。だって明日も会えるんだ。
だから、大丈夫。そう言い聞かせて、手を離した。
「高木くん?」
駄目だった。感情の奔流に負けて、涙がこぼれる。
いい加減にしてほしい。何なのだ、俺は。
いくらなんでも軟弱過ぎるだろ……。
どうしても、この手を繋いでいたかった。
でも諦めなきゃいけない。
今日はもう、十分すぎるほど優しくしてもらったんだ。
「大丈夫、何でもないよ」
そう言って、涙を見せないように一ノ瀬から瞳をそらした。
そのまま改札口へと進み、定期券を通してコンコースへ入る。
俺と一ノ瀬は最寄り駅が逆方向だ。だから、普段通りにここで別れる。
別れの挨拶をしなきゃいけない、まずは涙を止めないと。
「高木くん!」
半ば立ち尽くしていた俺を、一ノ瀬は傍に来て反対側のホームへ誘導した。
不自然な彼女の行動に、俺は何も言わずについていく。
「駅まで送ってくれる?」
これも、一ノ瀬の優しさだ。
高校生時代、少しでも一緒に居たくて何度か自宅とは逆方向の電車に乗った。
別れ際に見せる俺の顔が心配だったのだろう。
一ノ瀬はそう言って、一緒に居る時間を増やしてくれた。
「一ノ瀬……」
彼女の名前を呼ぶと電車が来た。そのままふたりで乗り込む。
「今日の高木君はダメダメだねー!」
そう言った一ノ瀬の手は俺の右手の上にあった。
電車は空いていたので、並んで座っている。
「ごめんな、お前、手を繋ぐの好きじゃないだろ?」
「高木くんがさ、手を繋ぎたいなら。そう言ってくれていいんだよ?」
一ノ瀬は優しく、そう言った。
「ねえ、嬉しい?」
「ああ、凄く嬉しいよ」
繋いだ手が、そのまま心を繋いでいるような気がした。
だから、俺は離したくなかったんだ。
「高木くんが嬉しいと、私も嬉しい。だからね、そんなに嫌じゃないよ」
そう言って、笑ってくれた。
「でも、頼んだ回数分、高木君の株価は下がるけど」
そう付け加えて、意地悪く笑う。
「なんだよ、株価って」
やっといつものペースに戻れた気がする。
「それでもいいなら、いつでも手を繋いであげる」
一ノ瀬はいつだって、優しかった。
「ありがとう」
笑ってくれたから、笑顔を返す。
俺たちはいつも、そうやって笑っていた気がする。
「出来るだけ、株価が下がらないように頑張るよ」
「うん、そうして!」
涙は止まった。胸の奥が暖かい。
一ノ瀬が近く居る時はいつも、こんな気持ちなる。
悲しいでもない、切ないでもない。
嬉しいだけでもないし、楽しいだけでもない。
痛みがあるけれど、辛くはない。
安らぎを感じるけれど、寂しくもある。
深い感謝と、愛しい気持ち。
どんなに頭の中を探しても、しっくりとくる言葉は見つからなかった。
一ノ瀬の最寄り駅に着いたら、ふたりで電車を降りる。
改札口まで見送って、手を離した。
もう本当に、大丈夫だ。
一ノ瀬はいつも、俺の世界を簡単に救ってくれる。
耐えられない悲しみも、抱えきれない不安も、彼女にかかれば一瞬だ。
「またね!」
一ノ瀬はそう言って手を振る。
「また明日な!」
彼女と同じように笑顔を浮かべて、俺も手を振った。
一ノ瀬が見えなくなったところで、反対側のホームへと移動する。
右手には僅かだけど、温もりが残っていた。
やっぱり、俺は手を繋いでいたい。
そうすれば、すり抜けていくことはないはずだから。
だけど……それは身勝手な想いだ。彼女が望まないことはしたくない。
だから、甘えるのは本当に辛いときだけにしようと思う。
右手を広げてみた。
ここに、あの小さくて白い手が寄り添ってくれていたんだ。
そのことを思い出すだけで、胸の奥が暖かくなる。
……しばらくの間は、この手に残った温もりで十分だ。




