並走しない過去 第4話:人生で最悪の日
俺は一ノ瀬を自宅に残し、海外出張へ赴くことになった。
期間は2ヵ月、出来れば断りたかったのだが、仕事ではそうも言えない。
この出張は初日から苦難の連続であった。
初めての国際便への搭乗、そもそも俺は国内線すらひとりで乗ったことがない。
チェックインどころか、空港に着くまでの間も不安しかなかった。
空港駅を降りたら、パスポートを見せて国際線ターミナルへ入る。
航空券は会社が手配してくれているが、eチケットという良くわからない物だ。
まずは予約してある航空会社の受付カウンターを探す。
信じられないほど多数のカウンターが並ぶ中、やっと目当ての受付を見つけた。
印刷した電子メールを見せて、荷物を預けてチケットを受け取る。
その後も慣れないことの連続だった。
保安検査を受けて税関を通り、出国審査を受ける。
慣れてしまえば大した事ではないのだろうけど、緊張感で死ぬほど疲れた。
やっと自分の乗る飛行機の前に辿り着いて人心地を着く。
しかし、到着したら今度は現地で同じ事をしなければいけない。
言語も違うから上手くやれるだろうか、不安ばかりが募る。
……普通なら初めての海外出張をひとりで行かせることはない。
我が社も真っ当な会社なので今回は例外である。
上司を含めた多くのメンバーは先に現地入りしていた。
俺はパスポートの申請が間に合わなかったのだ。
だけど……実態はただの嫌がらせだと思う。この予定は変更出来た。
俺に合わせて、メンバー誰かひとりの入国を遅らせれば良いだけだ。
上司とはそりが合わなかった。彼は他人の事を常に見下す。
自分が絶対の正義であるように振る舞うのが許せなかった。
だからといって何かと反抗した俺も悪いのだろう。
言うならば、これは身から出た錆である。
現地に到着し、無事に入国審査が完了した。
今度は会社が手配したタクシーを探す。
ピックアップに来ている運転手は非常に多いので注意深く自分の会社を探した。
しばらく見つからなくて焦ったが、数が減っていくにつれて探しやすくなる。
時間はかかったが何とか捕まえて無事にホテルへ到着し束の間ほっとした。
……が、すぐに失敗に気が付く。現金を現地通貨に両替するのを忘れていた。
ホテルでも両替出来たのは幸いだったが、これ、会社に申請出来るのかな?
ああ、もう、こういうのも新人研修でやって欲しい。
――翌日。
朝は7時に業者の車がピックアップに来る。
それに合わせて外に出ると盛大に笑われた。
「お前、何でスーツなの?」
作業服は手持ちの鞄に入れてある。
現場で着替えるものだと思っていた。
「現地では作業服で移動するんだよ、普通」
その普通はアンタの中だけの常識だろ!
そう言いたくなったけど、確認しなかった俺も悪い。
「すいません、着替えて来ます」
「あー、いいよ。間に合わなかったら困る」
そう言われたので少しムキになってその場で着替えた。
「おいおい、頼むよ、初日からさ」
そう言って嫌らしく笑う。
いいよな、アンタはそうやって人を馬鹿にして気分良くなるんだから。
虫唾が走る。でも……、こんな風に考えてしまう自分は嫌いだ。
本当は苛々したくない。一ノ瀬もこんな俺は嫌がるだろう。
移動も辛かったが、仕事も激務だ。
工場のセキュリティは厳しく、入り口でパスポートと免許証を取られた。
さらに客先担当者に社員証と交換で館内を移動するカードキーを貰う。
身分を証明出来るものが1つもなくなってしまった。
作業現場には許可された情報端末であるPC以外は持込出来ない。
当然、携帯電話も持って入ることが出来なかった。
ホテルの部屋に置いてくるか、指定のロッカーに預ける必要がある。
外部と連絡する手段さえなくなってしまった。
パスポートや免許証なんかはどうでも良いけど深刻なのが携帯電話だ。
一ノ瀬から連絡が来ても、返信できない。
アイツはすぐに返さないと不機嫌になる。
でも……これではどうしようもない。
その日の業務が終わったのは22時。作業開始が8時だから……14時間か。
まさか、これが毎日続くのか?
「現地はこんなもんだ。いい勉強になるだろ?」
何で嬉しそうに言うのかが分からない。
やっと携帯を受け取るといくつかのメールが入っていた。
慌てて全部に返事をする。まだ起きてくれているかな?
時差があるから向こうはもう日付が変わっている。
これじゃあ電話も出来ないかもしれない……。
「彼女か?」
上司に聞かれて一瞬、返答に困る。
「そうです」
付け込まれたくないので、毅然とした態度でそう言った。
本当は違う……俺は、アイツにとって何なのだろう。
「まあ、しばらくは我慢しろよ。
ちょっと連絡出来ないぐらいで駄目になるならそれまで。
その程度の間柄だったってことだ。この機会に清算した方が良い」
その言い分は恐らく正しい。
でも、俺と一ノ瀬はそんな単純な間柄じゃないんだ。
だからと言って、人に説明出来るかと言われたら否だろう。
何も言い返せない自分が嫌になった。
でも、仕方ないことなんだ。
宿泊先のホテルに着く前に、一ノ瀬から返事があった。
電話は出来るようだ。ほっと胸を撫で下ろす。
彼女の声が聴けるなら、少しは溜飲も下がるだろう。
「高木くん、遅いよ!」
「ごめん!」
開口一番に怒られた。こうなる事は分かっていた。
それでも……話せるのは嬉しかった。
「前のお話の続きをして!」
「あー、アレか」
クソ王子に惚れて国中を滅茶苦茶にしてしまうお姫様のお話。
この話のどこが面白いのか、考えた俺にも良くわからない。
一応、最後はハッピーエンドになる。
確か……お姫様のことをずっと好きだった兵士がその凡庸さゆえに身に着けた魔法剣で王子を打倒したけど、最後にお姫様がクソ王子を庇って怪我をした辺りまで話したはずだった。
「お姫様どうなったの?」
……お姫様より、お姫様を傷つけてしまった兵士の心境を心配して欲しい。
「兵士と一緒にいた女神官の回復魔法で傷も残らないぐらい治ったよ」
「ああ! 良かったねえ」
「その後はクソ王子が兵士に復讐を画策してね……」
くだらない話しかしていないのに、あっという間に時間が過ぎていく。
気がつくと睡眠時間は3時間程度しか残っていなかった。
それでも、俺は構わない。
俺にはこれ以上に優先すべきことなんてないのだから――。
しかし、こんな生活を続けている内に体の方がもたなくなっていった。
ほとんど毎日のように電話をしているせいで、睡眠時間が足りていない。
仕事中もセキュリティの関係から外に出れないため、息抜きも出来なかった。
明らかに疲労が溜まっている。
PCのモニタに向かっている間に何度、意識を飛ばしたかわからない。
その度に上司から叱責を受けた。
「お前、そのうち怪我するぞ。頼むからそれだけはやめてくれ。
出来ないなら、明日から来なくていいから!
俺の責任問題になるんだぞ、少しは迷惑を考えろ」
そう言われると余計に腹がたった。無理をしてでもやり遂げて見せる。
そして、一ノ瀬との時間も絶対に削らない。
……そのつもりだったが、やはり不可能なことはある。
一ノ瀬との電話中にも、何度か寝てしまった。
せっかく話せているのに、大切な時間なのに……。
今まではそんな事無かった、でもどうしても駄目だったのだ。
ある時、一ノ瀬から提案があった。
「高木くん、無理ならしばらく電話しなくても良いよ?」
その言葉を言わせたのが悔しかった。仕事なんか辞めてしまえばいい。
何度かそう思ったけど、さすがにそれをしたら一ノ瀬も怒るだろう。
アイツは自分が原因で俺が困るのをとにかく嫌う。
――私が高木くんの事を傷つけるのは、とても駄目なことだと思う。
いつだったか、そう言っていた。
だから、俺は何とかして仕事と彼女との時間を両立させなければいけない。
――1か月後。
肉体的な疲労は限界を超えていたように思う。
身体は重たく、眠気が常に付きまとっていた。
いまや睡眠時間を確保するために、朝食を食べる時間も削っている。
そんな状況なのに、作業の終わりは見えてこない。
決められた出張期間は折り返しを迎えたが、このままでは延長の可能性もある。
精神的にはもっと酷かった。
一ノ瀬との電話は明らかに短くなっている。
出張期間が延長したら、会うのが先延ばしになってしまうだろう。
それが何よりも絶望的だった。もう耐えられそうにない。
休みはこの1か月の間に2日しか取れなかった。
その日は、ほぼ1日中寝て過ごしていたけど疲れは重く残ったままだ。
すでに時間や曜日の間隔も無かった。
「ねえ、高木くん、もういいよ。電話しないで寝て」
それでも、俺は電話をかけた。一ノ瀬と話せない方が辛い。
海外出張の仕事がこんなに大変だと思っていなかった。
悔しいけど、あの上司の言う通りだ。俺は働くということを甘く見ていた。
学生気分がどこかにあったのかもしれない。
そして、事件が起きる。
いつものように作業をしていたが、ソフトのバグで装置がダンマリ停止した。
普段なら状況確認を行う前に非常停止のスイッチを押す。
だが、俺はあまりにも疲れていた。
おもむろにカバーを開けて装置内に入る。
安全装置を解除して、原因となりそうなセンサを探した。
PCのモニタ映し出されている信号表を確認しながら、センサの挙動を確かめる。
その瞬間、装置が突然動き出した――。
頭の中が真っ白になった。
近くに居た人が一斉の俺の周りを取り囲む。
「おい、お前! ふざけるなよ!」
第一声が、それですか。
工場で負傷などの事故が起こると大きな問題となる。
しかも今回は客先の工場だ。上司の責任は大きい。
幸いにして俺の怪我は左手中指の骨折という軽いものだった。
だが、念のためその日のうちに病院へ搬送され、入院となる。
一ノ瀬には連絡出来なかった。
指の骨折は少し厄介で、手術が必要とのこと。
俺は結局、その後一週間ほどで日本に戻ることになった。
上司からは「戦力外」という言葉を頂いている。
失意の中、帰国して家路についた。
入院中、一ノ瀬とはほとんど連絡出来ていない。絶望的な心境だ。
でも……、やっと会える。
一ノ瀬に会えれば少しはこの気持ちも軽くなるはずだ。
「ただいま」
「おかえり」
自宅の扉を開けると一ノ瀬から返事があった。
……おかしい、1ヵ月ぶりだと言うのに玄関まで来てくれない。
「大丈夫だった?」
俺の姿を一目見て、そう言ってくれたの嬉しかった。
けど、何か違う。いつもの一ノ瀬じゃない。
「何かあった?」
だから俺はそう聞いた。
「別に? 何もないよ」
明らかにおかしい。瞳を合わせてくれない。
嘘だろ……。
この上でまだ、何か酷いことが起こるのか?
俺は覚悟して、一ノ瀬の隣に座る。
「止めて!」
抱き寄せようとしたら、拒絶された。
どうしてだ……。
「今日は疲れてるでしょ? もう寝た方が良いよ」
何だろう、この取りつく島もない反応。
過去に経験がある、それはすぐに確信に変わった。
「好きな人でも出来たのか?」
「何で!?」
一ノ瀬は嘘が下手だ。というより、隠すのが苦手なのだろう。
本質的に他人を騙せない性格だ。
それに……、俺はずっと一ノ瀬を見てきている。
表情や声、仕草でそれぐらい、分かってしまう。
「そっか……」
俺はもう、それ以上言えなかった。
「違う、私は……、そうじゃなくて」
ごめんな、一ノ瀬。
俺はお前を問い詰めたいわけじゃないんだ。
ただ、絶望感が酷くて……。どうして今なんだよ。
そう思ってしまう。けど、一ノ瀬は俺の苦労は知らない。
そして、俺は彼女の寂しさを知らないんだ。
だから一ノ瀬は何も悪くない。
「いいよ、しょうがない」
涙が溢れている。けれど、胸の奥の痛みがない。
大きな怪我をした時と一緒だ。喪失感しか感じない。
胸の奥に大きな穴が空いたような……比喩表現ではなく実際にそう感じた。
痛みが無いことが怖い。圧倒的な絶望は悲しみよりも恐怖に変わるのか。
「何で怒らないの! 何で……何も聞かないの?」
本当の事を言うと、もう聞きたくなかった。
辛い事ばかりで嫌になる。
「私……彼としてたんだよ。ここで」
一ノ瀬は辛そうな顔でそう告白した。
そっか、もう、本当に駄目なんだな。
この瞬間に心が絶対に曲がってはいけない方向に折れた。
妙に冷静に分析出来る。
そっか、俺が居ない間を上手く狙ったんだな、ソイツ。
一ノ瀬も応じてしまった手前、もう後に引けないんだろう。
的確な一手だ、前から狙ってたんだろうな。……恋愛上手いなあ、ソイツ。
俺は駄目だ、そもそも他の男の家になんて上がれないよ。
「嫌いになって良いよ」
一ノ瀬は突き放すように言った。その表情は見ていたくないな。
「嫌いになって欲しいのか?」
考えろ。頭の中で冷静な自分がそう言っている。
俺のことは、もうどうにもならない。
だから、どうしたら一ノ瀬が傷つかないかを考える。
「私は高木君が思っているような良い娘じゃない。だから、嫌いになって!」
――お前には失望した。
そう言って一ノ瀬を追い出せば、それで終わりだ。
後腐れも無く一ノ瀬は次の男の元へと行ける。
それが、きっと彼女にとっては1番良い。
頭の中ではそう結論した。でも心がそれを必死で阻止する。
その言葉だけは言いたくない。思っていることと違いすぎる。
「無理だよ。ごめん、それだけは……無理だ」
次から次へと涙が出てくる。
なのに、まるで感情を感じない。俺は今、なんで泣いているんだっけ。
悲しいとか寂しいとか切ないとか、何も感じない。
痛いわけでも苦しいわけでも辛いわけでもない。
頭の中も胸の奥も、真っ白だ。ただ、怖かった……。
耐えきれないぐらいの恐怖が心を押しつぶしていく。
それでも、俺は言葉を紡いだ。
「一ノ瀬はいつも優しくて、困っている人を放っておけない。
可愛くて、笑顔が眩しくて、見ていると幸せになる。
いつも目を見て話してくれる。
つまらない俺の話でも笑って聞いてくれる。
夢に向かっていつも必死で頑張っている」
思いつく限り、一ノ瀬の好きなところを話す。
「もういい、もういいよ……!」
言えば言う程、一ノ瀬を傷つけてしまう。
俺はどうしたらいい?
「俺は、お前よりもお前の良いところをいっぱい知っているよ」
どうして、俺じゃ駄目だった?
俺はどうしたら、一ノ瀬と一緒に居られたんだろう。
「高木君、もう止めて」
「ごめんな、俺は、お前の事が好きだ。それだけは……変えられない」
どうしたって、この気持ちだけは消せなかった。
「何で高木君が謝るの!」
「一ノ瀬……」
彼女がこんな感情を表に出すことはあまりない。
表情は豊かだけど、大抵はニコニコ笑っている。
でも、それは逆に、泣いたり怒ったりすることが少ないということだ。
だから、一ノ瀬がそういう感情を表に出す時は、とても強かった。
まるで爆発させるように昂った感情をあらわにする。
「高木君は何も悪くない!
いつだって、私の事を1番に考えてくれてる。
高校生の時は色々と嫌なこともあったけど……。
今の高木君には何の不満もないよ。
ただ、私が悪かっただけなのに……!」
俺は一ノ瀬を追い詰めたいわけじゃない。
それなのに、ただ好きなだけで傷つけてしまう。
「わかったよ、俺は悪くない」
一ノ瀬の頭を撫でて、出来るだけ優しい声で言った。
「高木くん……?」
その声で、少し落ち着いてくれたようだ。
反応がいつもの彼女に戻っていた。
「だから、一ノ瀬も悪くない、それでいい?」
彼女を好きでいる俺が悪くないのなら。
俺を好きになれない彼女も悪くないはずだ。
「……馬鹿だなあ、高木くんは。
それじゃ、結局、高木くんだけ救われないじゃない」
隣に居て欲しかった。
ずっと、傍に居てあげたかった。
「一ノ瀬はどうしたい?」
「えっ……?」
そう聞かれることを考えていない顔だ。馬鹿だな、一ノ瀬。
俺はお前が思っている以上に、お前のことが大切なんだよ。
「しばらくは今のまま家にいるか? 出たいならいつでも良いよ」
「何で……高木くんは嫌じゃないの?」
俺は、たとえどんなことがあっても一ノ瀬と一緒に居たい。
そんな時間が少しでも貰えるのなら、たとえ誰かの物になっていても構わない。
「俺はお前と一緒に居たいよ。だから、考えてみて。答えはいつでもいいから」
そう言って、リビングルームのテーブルの上に買ってきたケーキを置いた。
本当はふたりでささやかなパーティーをしたかったんだ。
そのまま必要な物を集めて玄関へ向かう。
幸いにして出張帰りだから荷物はまとまっている。
「どこ行くの……?」
「ごめん、今日は一緒に居ない方が良い。俺は多分、酷いことになるから。
明日からはリビングで寝るから布団も買ってくるよ」
みっともなく泣き叫ぶ姿を一ノ瀬に見られたくなかった。
きっと、アイツはそれを見て俺を傷つけたと思ってしまう。
そうやって、罪悪感を重ねることで、アイツが傷つくんだ。
それが、嫌だった。見なければ、きっと知らないで済む。
「え、いいよ! 私が帰るから……」
「お前は、俺がそのベッドで寝れると思うのか?」
一ノ瀬を責めるつもりはなかった。ただ、それは無理なんだ。
「……ごめんね」
こうなるのはわかっている。酷い言い方をしてしまった。
でも、俺だってまともでは居られない。今も気が狂いそうなんだ。
「どうせ今日はここでは眠れないからさ。お前が自由に使ってくれ」
俺は小さい人間だ。だから、たとえ部屋中を消毒しても無理だよ。
一ノ瀬が出ていったら、ここから引っ越そうと思う。
――バタン。
玄関から外に出ると雨が降り始めていた。
ああ、ちょうど良い。
これなら隠したり涙をぬぐう手間もかからないだろう。
今日はもう、涙が止まりそうにないからな。
近くのビジネスホテルを予約して、傘もささずにトボトボと歩く。
仕事は戦力外、大事な人は知らない人に取られて、帰る家もない。
迷子の子供のように泣き叫びながら道を歩いた。
……なんでだろう。
なんで、俺はこんなに駄目なんだ。




