第68話:尻バット、再び
文化祭が終わると次は生徒総会である。
各部活動からの申請書が上がってくると、忌まわしき記憶が蘇った。
そう……去年の尻バット事件である。
「えっ、お尻をバットで!?」
「そうだ、アイツはああ見えて恐ろしい女なんだ」
同じ会計監査である美沙ちゃんに一ノ瀬の悪行を告げ口した。
「ぶふっ!」
おい大場、何故そこで笑う。
「いやー、去年は大変だったね」
今の完全に思い出し笑いだろ。
「そうなんですかー! 見たかった!」
おい、美沙ちゃん、それはどういうことだ。
アレは見せ物じゃないぞ。残虐で非道な行為だ。
決して許してはいけない。
「先輩、申請書、揃いました。どうすれば良いですか?」
「あー、じゃあこっちで検算するよ」
久志君から申請書を受け取って、棚から電卓をふたつ取り出す。
「はい、じゃあコレ使って」
そう言って美沙ちゃんに電卓を渡して、申請書の束を置いた。
「せんぱーい、折角だから勝負しませんか?」
まるで一ノ瀬のようなことを言ってくる美沙ちゃん。
悪い影響を受けてなければ良いのだけど……。
「いいのか? 俺が勝ったら何でも言う事を聞いてもらうぞ?」
「いいですよー」
マジか、美沙ちゃんに何かしてもらうとか興奮する。
「高木君、美沙ちゃんに変な事しないでよ?」
奈津季さんに釘を刺されてしまった。
……俺は一体、どんな印象なんだろう。
今までセクハラ行為なんて一切したことないと言うのに。
――チリンチリン。
「おはようございまーす」
微妙なタイミングで一ノ瀬が入ってきた。
「あー! 懐かしい、申請書の検算?」
「ああ、そうだ。だが、今は大事なところなので静かにしていてくれ」
今は美沙ちゃんとの勝負に集中したい。
……出来れば美沙ちゃんよりもお前に言う事を聞いてもらいたいけどな!
「先輩、準備はいいですか?」
「ああ、勝負だ。大場、号令を頼む」
俺には勝つ自身があった。
悪いが、こう見えてアラフォーのシステムエンジニアだ。
電卓打ちもそれなりに手馴れている。
「いくよー、3、2、1、スタート!」
美沙ちゃんは左手に電卓を構えていた。
ふっ、利き手を使わないとは余裕だな。
「じゃあ、行きます!」
そう言って、電卓を打ち始める。
……早っ!
何、この娘、電卓をブラインドタッチしてるんですけど。
慌てて自分の書類の数字を電卓に打ち込む。
しかし、美沙ちゃんの打ち込み速度が尋常じゃない。
数字の表示とか見てないだろ、アレ。
しかも利き手が空いているので鉛筆でのチェックも申請書を取るのも早い。
ヤバいな、もはや見惚れるほど恰好良いぞ。
必死で追撃するも、追いつくどころかじりじりと離されていく一方だった。
……結局、3枚差で大敗。
まあ、一ノ瀬のそろばん程ではないけども。
「くっ、美沙ちゃんにこんな才能があるとは……」
「私、こういうの得意なんですよー」
嬉しそうな美沙ちゃん。まあ、この表情が見れたのならいいか。
「じゃあ、罰ゲームですね!」
しまった……! 負けた時の条件を決めていなかったぞ。
「先輩のお尻をバットで叩けるなんて、楽しみですー!」
何、この娘、恐ろしい。
先輩の尻をバットで叩きたいなんて、どんな心理?
っていうか、いつの間にそんなルールになってたの!?
「おおー、凄いねえ、美沙ちゃん! はい、コレ」
そう言って、バットを渡す一ノ瀬。
おい、ちょっと待て、どういうことだ。
なんでそんなに自然に渡すの?
というわけで、美沙ちゃんとふたりで生徒会室の外に出る。
仕方なく、彼女に背を向けて立った。
おかしいな、さっきまで予算申請の書類を検算していたはずなんだけど。
そして、何で去年と同じことになっているの?
「じゃあ、先輩、行きますよお!」
大丈夫だ、美沙ちゃんは普通の女の子、一ノ瀬とは違う。
きっと優しく撫でるように叩くはずだ。
――パアアアアン!
それは恐ろしい衝撃だった。
馬鹿な!?
去年と同じく、大地に手を突いて振り返る。
「……一ノ瀬、お前!」
「あははははは!」
どうやら、途中で美沙ちゃんと入れ替わったようだ。
例の、後ろにぴったりくっついて扉をくぐる、というヤツだろう。
「…………!」
美沙ちゃんは声こそ出さないもの、こっちを見て震えていた。
顔を両手で隠しているので表情は見えない。
が……、絶対笑ってるだろ!
「はー、はー、はー、おっかしい!」
いや、おかしいのはお前の頭だ。
「だから、手加減しろよ!」
一ノ瀬は前回同様、俺の肩に掴まって必死に呼吸を整えようとしていた。
「ねえ、もう一回やっていい?」
「何でだよ、嫌だよ!」
「ひぐっ!」
一ノ瀬のアンコールを聞いて美沙ちゃんから苦しそうな声が漏れる。
やばい、あの子、ちゃんと息できているかな?
「こんなので笑っていいのは年末の特番ぐらいだからな!」
未来のネタを何故、こんなところで披露するのか。
全くもって意味が分からない。
俺は笑いが止まらないふたりの手を引いて生徒会室に戻った。
「先輩、大丈夫ですか!?」
うんうん、そうだよ、その反応だよ。
ありがとう、久志君。さすが35期生徒会執行部の良心。
「ふ……、ふふふ……」
大場、お前も駄目だったか。
席に戻ると奈津季さんは目も合わせてくれなかった。
どうも彼女も笑いをこらえているようだ。
「えいっ!」
そう言って、奈津季さんのわき腹を人差し指でつつく。
「な、何するの!?」
振り返った表情はやはり崩れていた。
「皆、笑いすぎ!」
「もう! でも良い事じゃない」
まあ、そうなんだけど。
一ノ瀬を中心に皆が笑っていた。
生徒会執行部では良くあることだけど……とても良い絵だ。
「やっぱり、アイツがうちの代の中心だよな。
人を惹きつけて、笑顔にしてくれる。素直に尊敬するよ」
こうやって常に楽しいムードを作ってくれていた。
もちろん、仕事面でも飛びぬけている。文化祭が良い例だ。
……ただ、尻バットは止めて欲しいけどな。
普段のボディーブローといい、本当に凶暴なヤツだ。
唯一の救いとして、俺以外の相手にはそんな事しない。
安心してくれていると思うのは少し好意的に解釈し過ぎかな?
「……それ、高木君が言うの?」
奈津季さんのジト目がちょっと怖い。
「どういう意味?」
「私は、高木君が中心だと思っているんだけどなあ」
ため息交じりに言った言葉の意味がすぐに入ってこない。
「へっ!?」
予想外の言葉だった。
「皆を笑わせるって言うのは確かに梨香ちゃんかもしれないけどさ。
皆の事を一番考えてくれてるのは高木君でしょ」
それは、どうなんだろう。考えいるだけで何か出来ているわけでもない。
それに俺は単純に、皆の事が好きなだけだ。
一ノ瀬が居なくなった後、俺はずっと独りだった。
自分の仕事は自分がやって当たり前。そうやってずっと生きて来た。
でも耐えられなくなった時、数少ない友人が救ってくれた。
ある意味で一ノ瀬が居なくなったことは良かったのだ。
俺はその時になってやっと、友人や仲間の大切さを知った。
それまでずっと、気が付かずにいたのだ。
だから、今は皆のことをとても大切だと思っている。
ただそれだけだ。特別な事など何もしていない。
「俺は大したことをしてないよ」
「高木君は、自分のやったことは大したことないって思うところあるよねー」
そうなのかな、自覚は無い……。
だって、器用貧乏な俺に出来ることは誰にでも出来ることだと思うから。
「そのくせに、他人はいくらでも褒めるんだから」
それは、そうかもしれないな。
俺は思っていても、言葉にしないと伝わらないということを知っている。
感謝の気持ち、尊敬する気持ち、大切に想う気持ち。
それは胸の中にあるだけで良いのかもしれない。
でも、俺は出来るだけ伝えたいと思う。
そのために言葉は必要なのだ。
もちろん、他の方法でも伝えることは出来るだろう。
でも、こんなに簡単に方法はない。
だから、俺は思ったことをそのまま口に出す。
「高木君はもっと自信を持ってもいいと思うけど?」
そう言ってくれるのはとても嬉しいことだった。
「ありがとう、奈津季さん。でもねー、俺はこのままがいいな」
「えっ? どういうこと?」
自信なんて無くても良い。
俺には今、頼れる人がいっぱいいる。
そして、臆病な今のままの方が自分らしいと思えるからだ。
変に自信満々な自分なんて、ちょっと居心地が悪い。
俺はこうやって皆の事を見上げているぐらいがちょうど良いと思う。
もしかしたら、一ノ瀬も同じように思っているのかな?
修学旅行中に話したことを思い出した。
「俺ね、今、幸せなんだ」
一ノ瀬の方を見る。楽しそうに笑っていた。
この表情が見れるのなら、俺はなんだっていい。
そして、周りには愛すべき後輩と大切な仲間がいる。
欲しいものが全部、近くにあるんだ。
こんなに幸せなことは無いと思う。
「居心地良いよね、生徒会室」
「……そうだね」
呆れた顔で相槌を打つ奈津季さん。
皆が楽しそうに笑っている。この時間にも当然、終わりはくるのだろう。
それはとても寂しい事だ。幸いにして、俺はそのことを知っている。
今日は、きっとありふれた平凡な1日だ。
誰の記憶にも残らないかもしれない。
でも多くを失った今だからこそ思う。
この日常は俺にとって、たまらなく愛しい、大切な時間だ。




