並走しない過去 最終話:酒と孤独と交通事故
宿泊先に到着して、仕事用のPCをワイヤーでロックする。
無線LANに接続してメールのチェックと今日の報告を済ませておいた。
軽くシャワーを浴びたら外に出る。
明日が休みなら少し飲みに行ってもいいよね。
というわけで宿の近くの居酒屋を探してカウンターに座る。
スマホで簡単に調べられるというのは便利で良い世の中になったものだ。
俺は元来、ひとりで店に入るのは苦手だった。
だが、むしろ最近は楽しいと言っても良いぐらいだ。
特に出張などで地方に出た時は、その土地の物が食べられて嬉しい。
……とはいえ、出来れば気心の知れた人と訪れたいものだけど。
時刻はすでに日付が変わる手前。
でも翌日が休みになった俺にとっては特に問題はない。
カウンターに座ってメニューに目を通す。
目を引かれる料理は多いものの、ひとりだと2,3品が良いところだ。
それ以上頼むと、残すか無理して食べるかの2択になる。
実をいうと俺は本来、あまりアルコールを飲んではいけない。
……酒は俺にとって天敵のようなものだ。
一時期、溺れてしまったことがあり、アルコール依存症との診断を受けた。
アルコール依存症の対策は基本的に「お酒を飲まないこと」に尽きる。
そのためのHALTの法則というものがあった。
・H…… ハングリー(hungry、お腹を減らさない)
・A…… アングリー(angry、怒らない)
・L…… ロンリー(lonely、独りにならない)
・T…… タイアード(tired、疲れない)
ということらしい。
……独身サラリーマンにはHぐらいしかまともに対処出来ないじゃないか。
幸いにして俺の場合は重度ではなかったので、自力で対処出来た。
基本的な対策はHALTの法則に従って「夕飯をしっかり食べること」だ。
今ではそれなりに上手く付き合えるようになったが、本来は飲むべきではない。
……そう言いながら、割と頻繁に晩酌しているのは内緒である。
――それに。
こんな夜ぐらいは良いだろう。今日は久しぶりに頑張ったと思う。
もちろん、仕事なのだから当たり前のことだ。
誰にも褒めて貰えないだろう。だから、俺は自分で自分を褒める。
適当な料理を頼んで、麦酒を片手に食べた。うん、美味しい。
これはこれで、幸せだ。遅い時間なので他の客も少ない。
独りに慣れたおかげで、こうやって静かに飲むのも好きになった。
こういう時は大抵、カウンター越しに店員さんが話しかけてくる。
旅先の居酒屋でのこういう出会いも楽しみの一つだ。
話すのが嫌ならカウンター席ではなくテーブル席に座れば良い。
「お客さん、独身ですか?」
おー、ピンポイントにえぐって来るなあ。
「独身ですよー、貴族です」
そう答えると嬉しそうに返答が返ってきた。
「いいですねえ、結婚したら墓場入りみたいなもんですから」
店員さんの左手薬指にも指輪。いいなあ……。
「俺は結婚願望はあるんですけどね」
「止めておいた方がいいですよ、いいもんじゃありません」
俺の切ない言葉に、店員さんは笑って応えた。
みんな、そういうけれどさ。
俺はそれを知らないから、やっぱり羨ましいなって思うよ。
30代後半になって「このままではマズイ」と本格的に婚活を始めた。
マッチングされた相手から決まって言われるのは「魅力がない」だ。
「良い人だけど」とか「不満はないけど」とかの枕詞がつくことが多い。
1人や2人ならそういう事もあると、受け流すことも出来る。
だが、流石に10人以上に同じことを言われたら受け止めるしかない。
俺には人より優れたところが無い。
見た目も普通、収入も普通、面白いわけでも優しいわけでもない。
そのくせに大抵のことは自分で出来てしまう。
おそらく、ここが一番の問題だ。
婚活で知り合った女性たちから見たら、さぞや異質なものであっただろう。
俺は寂しいだけで、誰かを必要としていない。
だからと言って今の俺が不幸かと問われたら、それは否と言わざるを得ない。
俺には何にもないけど自由はある。収入もあるから食うに困ることはない。
これを不幸だと言うのはいささか贅沢が過ぎるだろう。
のめり込んでいる趣味もあった。それは、ひとり旅だ。
ふらっと出かけて自分が知らない土地を訪れる。
そこには自由しかないし、見る景色に感動することも多い。
独身であるがゆえに、よほど高い旅館に泊まらない限り旅費に困ることもない。
それこそ、毎週末どこかへ出かけている始末だ。
次はどこにいこうかと考えるだけで翌週の休みが楽しみになる。
何を幸福だと思うかは人によって違う。独身で出世の道もない。
ネガティブな要素はあるけれど、俺はそんなに気にしていない。
今の俺は十分幸せだ。少ないけど友人はいるし、理解してくれる仲間もいる。
苦手なものを食べられるようになるにはどうすればよいか。
それは毎回、我慢することじゃない。
美味しいと思えるところを探して見つければいい。
何を幸せか、それを決めるの自分自身だ。他人がどう思おうが関係ない。
自分が幸せだと思えればそれは間違いなく幸せなのだ。
ジョッキを傾ける。そうすると、お酒が回ってきて思考回路が白濁する。
感情が理性を越えて漏れだす。
この状況を不快だとは思うのに、気持ちよいとも思う。
なまじ飲めるからこそ、この境界をさまようことの愉悦を知ってしまうのだ。
本当に酒は毒だ――。
結局、店員さんと無駄に結婚について熱く語った。
酔っぱらいは時として、必要以上に熱くなる。
そして、そんな自分を翌日にものすごく後悔するものだ。
なんて恥ずかしい話をしてしまったのだろう、と。
長々とお話に付き合ってくれた店員さんに礼を言ってお会計をした。
気がつくと時間は午前2時。
翌日は休みとはいえ、少し飲みすぎたかな。
でも、明日はこの周辺を観光してまわろうと思う。
寂しさは明日のことを考えれば紛れる。
どこに行こうかなあ……。
酔いが回って火照った身体に真夜中の空気が心地よかった。
流石に千鳥足になるほどは飲んでいない。
でも、こういう時は転ばないためにゆっくりと歩くようにしている。
俺はもう良い歳のオッサンだ、怪我には気をつけないといけない。
これも社会人としての務めである。
「おい! あぶねえぞ!」
静寂の中で、突如聞こえてきた叫び声。
俺は別に交差点を歩いているわけではない。
すぐ近くの宿泊先に向かって歩道をゆっくりと歩いていただけだ。
誰に向かって言っているのか、すぐにはわからなかった。
振り返ると乗用車が猛スピードで突っ込んできている。
周囲に人はいない。
ああ、なんだよ。危ないのは俺か。
でも少しほっとした。犠牲になるのが、未来のある人でなくて良かった。
通りの向こうをに千鳥足のカップルが見えたのだ。
いいなあ、ああいう時間。一番幸せだよね。
お互いに酔っぱらって、喧嘩したり笑いあったり。
そういう時間が、俺にもあったなって思った。
さて、俺の真正面には暴走車。
避けられそうにはないな、すごく冷静にそう思った。
お酒飲んでいたおかげかもしれない。恐怖はあまりなかった。
身体が車体に当たって派手に空を飛んだ。
痛みはない、けどこれは駄目だろうなって思う衝撃だった。
せめて誰かを庇って死ぬとかだったら格好良かったんだけど。
空中で身体が回転しているのがわかる。世界がゆっくりと動いていく。
受け身とかはとれそうにない、体のほとんどが自由に動かないのだ。
この瞬間に死を覚悟した。
上司は責任かかっちゃうかな。
しらばっくれてくれればいいんだけど。
先輩は大丈夫かな。
上手いこと上司と口裏合わせてくれれば良いのだけど。
気に病んだりしないで欲しい……でも無理だろうな。
あの人、いい人だから。こればっかりは申し訳ない。
会社の残務は結構あるけど、さすがに企業だからどうにかなるだろう。
俺一人が居なくなったぐらいで事業が回らないなんてことは絶対にない。
……なんで俺は真っ先に仕事の心配してんだ。
もう少し自分のことを考えないと。
友人や家族には会社から連絡してくれるだろう。
親父、ごめんな。
でも妹がいるから大丈夫だよな。
孫がいるんだから元気に生きてくれよ。
友人は……みんな俺より優秀だから大丈夫。
心配することもないだろう。
よし、何の問題もない。
さっきまで空が見えていたけど、地面のアスファルトが近づいてきた。
これは駄目だな。それにしても感情が出てこないよ。
思い残すことが無さすぎる。
やはり独りで生きてきた人間はこういう時にひたすら弱いな。
現世にすがる理由が見つからない。
でもこれはある意味、幸せなことなのだろう。
いいよ。甘んじて受け入れようじゃないか、この現実を。
 




