第57話:花火大会を甘くみてはいけない(後編)
花火大会が終わる10分ぐらい前から会場では人の動きが活発になってきた。
混雑する前に帰路に着く人も多いのだろう。
だけど、俺達は結局フィナーレまでしっかり見届けた。
やっぱり最後のスターマインは見逃せないよね。
「みんな! この流れの中で帰ると多分死ぬ。
悪いんだけど、ここで1時間ぐらい待機できないかな?」
花火大会後の満員電車は通学の比ではない。
おそらく、乗換駅までは乗車制限がかかるレベルの混雑だろう。
無理して帰ろうとするより、ゆっくり帰った方が安全だ。
折角だから、花火大会の余韻に浸りながら話すのも悪くない。
それでも終電には十分間に合うはずだ。
「今すぐ帰らないとまずい人、いますか?」
「あー、すまん、高木。私は先に帰るよ」
まさかの彩音先輩だった。
「ちょっと待ってください、ひとりじゃアレなんで付き添います」
「いや、悪いからいいよ。お前はこっちの面倒を見てくれ」
そう言って人混みへ向かおうとする彩音先輩。
思わず右手でガシッと手を取った。
「駄目です、甘く見ないでください。こっちは正樹君に頼むよ」
「えっ!? 俺ですか?」
今のメンバーで指揮を取ってもらうなら正樹君が1番だ。
「混雑状況見て、駅まで皆を誘導するだけの簡単なお仕事です」
「……わかりましたよ」
こういえば、彼の性格なら引き受けてくれることが間違いない。
「吉村先輩、フォローをお願いしても良いですか?」
「おう、任せとけ!」
ゲストである3年生に頼むは少し気が引けるけど、これで大丈夫だろう。
「ブルーシートとかの荷物は大場と中森で片付け宜しく」
「えー? 何で俺が」
中森、お前は相変わらず文句言うのだな。わかってたけど。
「あ、先輩、僕も手伝います!」
「さすが久志君、よろしくね」
本当に良い子だ。男子だけど頭を撫でてあげたい。
「じゃあ、彩音先輩、行きましょう」
「高木……、お前って時々やたらと強引だよな?」
彩音先輩に悪いけど、俺も譲れない。
でも怒っている様子は無かったので安心した。
「その……、手はそのままなのか?」
「離したら、はぐれちゃいますよ」
駅に向かう人混みは尋常じゃなかった。
もはや立ち止まることも出来ない。
「お前、握力強いんだなあ」
人の波に飲まれそうになる前に、何度か彩音先輩を引き寄せた。
「あ、すいません、痛いですか?」
ちょっと力を入れすぎてしまったかもしれない。
「そういうわけじゃない、大丈夫だ。ただ……」
そして彩音先輩は右手で俺の左手を握った。
「こっちの方が、楽かな」
腕を引かれるのは嫌だったのか。
申し訳ないことをしてしまった。
「わかりました、離さないでくださいね」
そう言って右手で掴んでいた彩音先輩の左腕を離す。
確かに、腕を掴むより手を握った方が楽だった。
彩音先輩も握り返してくれているから余計な力も入れなくてすむ。
しかし、非常時とはいえ彩音先輩と手を繋げるのはちょっと嬉しかった。
彩音先輩の手は暖かい。
……一ノ瀬の手はいつも冷たかったなあ。
何とか辿り着いた駅の構内も凄まじい混雑ぶりだった。
「しまったな、来た時に帰りの切符を買っておけばよかった」
「この状況です、降車駅で清算すればいいですよ」
すでに自動改札は停止していた。
「とりあえず、頑張ってホームまで行きましょう」
歩く、というよりは人の波に押し出されながら進む。
改札口から先は駅員の方で入場規制がかかっている。
そんな中、何とか駅のホームへ到着した。
これでやっと、一息つくことが出来る。
「大丈夫ですか?」
「ああ、凄いな、ちょっと甘く見ていたよ」
名残惜しいが、ここで繋いでいた手を離す。
「付き合わせて悪かった」
「いえいえ、何か大事な用があったんですよね?」
彼氏と電話の約束、とかかな。
あまり立ち入った事は聞かないでおいた方が良いだろう。
「あーいや、見たいテレビがあっただけだ」
「へっ!?」
思ったよりどうでも良い理由だった。
「いや、だから悪かったよ」
そう言って赤くなる彩音先輩。こんな風に照れることもあるのか。
いかん、反則的に可愛い。
「いえ、てっきり彼氏とかそういうのかと思ってました」
「私には特別に付き合っている相手は居ないぞ?」
予想外の返事だ。
「えっ、そんなに綺麗なのに!?」
「それは関係ないだろう」
関係ないとは思えないけど、ここは肯定しておくべきか。
「まあ、そうですけど……」
なんて勿体ない話だ。
「お、そろそろ電車が来そうだ」
そう言って迎えた電車を見て絶句する。
アレに乗るのか……。
「彩音先輩、こうやって両腕を胸の前に出してください」
「ん? こうか?」
ボクサーのファイティングポーズのような姿勢を取ってもらった。
そして電車が来て、扉が開く。もはや一刻の猶予もない。
「では失礼します」
そのまま両腕ごと彩音先輩を抱きしめる。
「た、高木!?」
悲鳴のような声を出す彩音先輩だが、それどころじゃない。
電車から降りる人の数は恐ろしかった。
扉が開くと人の波が溢れだしてくる。
ホーム上は阿鼻叫喚、地獄絵図だった。
一ノ瀬がこの人混みを見たら失神してしまうかもしれないな。
「乗りますよ、押しつぶされないように手はそのままで!」
開いた扉にホーム上の人が吸い込まれていく。
その流れに乗って、電車内へ滑り込んだ。
ある程度、中に入ると今度は内側から押し出されるような圧力がかかる。
構わずに背中から中へ突っ込んだ。
グイグイと押し込んでいくと扉側からも同様に圧力がかかった。
流れに押されて倒れこむように内側に入っていく。
電車の扉が閉まると、今度は内側から外側へ。
押し込んだ分、押し戻される。
彩音先輩に圧力がかからないように必死でその力に耐えた。
「東神奈川駅までは頑張りましょう」
「大丈夫か?」
浴衣姿の彩音先輩を思い切り抱きしめる形になってしまった。
普通なら役得だけど、それどころじゃない。
しかし、彩音先輩の肘があばら骨に当たってかなり痛い。
でも、この手が無くなったら大変なことになる。
「大丈夫です、気にしないでください」
顔がとても近いので小声で話す。
というか、もう話すのもキツイ。
電車は次の駅、桜木町で止まった。
先ほどと同じように人の波がとんでもない。
ふたりで一度、車外に押し出された。
そして再び乗り込むが、桜木町の乗車人数は先ほどよりも更に多い。
車内の奥まで押し込まれた上に、前後から押される。
あ、ヤバイこれ、息が出来ない。
しかし、何が何でも彩音先輩は守らないと。
渾身の力で彼女との間に隙間を作る。
が、数秒と持たなかった。
結局押しつぶされて、今度は頬と頬が触れるぐらい密着することになった。
「すいません……」
「いや、これは無理だろ」
わざわざ付き添ったのにここまで役に立たないとは。
まったくもって情けない。
こんな状況なのに、なぜか彩音先輩はもぞもぞと動きだした。
止めてください、くすぐったいです。
そして、あばら骨に当たった肘が痛い。
……と思っていたら、急に痛みが消えた。
そして、空いたスペースへ身体が押し込められる。
「ちょ、彩音先輩!?」
「あー、すまん、痛そうだったんでつい……」
胸板に超絶に柔らかい感触が広がる。
何だコレ、神の物質か。そして、背中に暖かい手の感触。
何してくれてるんですか!
悲しいかな、こんな非常時なのに身体が反応する。
「すいません……」
「あー……、気にするな」
彩音先輩はそう言ってくれたが、これは辛い。
恥ずかしさで顔が真っ赤になった。
横浜駅で再び大量の人が下りる。
押し出された電車の外でも彩音先輩の感触が続く。
再び乗り込んだ電車内ではまだ混雑は続いていたが、かなりマシになった。
……それでも中々、身体を離せるには至らない。
「次、東神奈川なんで、あと少し我慢して下さい」
「あ、ああ……」
悔しいけど、これはどうにもならないぞ。
距離を取る術が無かった。心臓の音、伝わってないかな。
何もかもが恥ずかしすぎる。
しばらく耐えていると、やっとのことで東神奈川に着いた。
まだ乗客は多いが、やっと密着状態から解放される。
今まで気にならなかったけど、彩音先輩の良い匂いがする。
離れてもこの匂いがするってことは自分の身体から漂っているということだ。
まあ、あれだけくっつけば仕方ない……。
ああああ! どうしよう、何てことをしてしまったんだ。
「申し訳ありません、神木先輩」
思わず名字で呼んでしまった。
「気にするな、高木。アレは不可抗力だ」
いや、そう言われても。
これじゃ、むしろ俺が痴漢行為を働いているではないか。
「それにしても……、お前も男だったんだなあ」
お願いだからそれは言わないでください!
「いや、本当にすいません」
もう謝るぐらいしか出来ることはない。
「大丈夫だ、気にしていない。というか、少し安心したよ」
「へっ!?」
恐ろしく間抜けな声が出てしまった。
あれで安心するってどういう心理なんだ。
「お前、手を繋いだり抱きしめたりしても平気な顔してたから。
私には魅力がないのかな、とか……」
途中まで言って、言葉を濁し真っ赤になる彩音先輩。
何だろう、この完璧すぎる生物は。
「そんなわけないじゃないですか!
先輩以上に魅力的な人なんて居ませんよ!」
「ああ、それは身をもって体験したから、それ以上言わなくても大丈夫だ」
言われて再び恥ずかしさが込み上げてくる。
ああああ! どうしよう、何てことをしてしまったんだ。
「この度は死んでお詫びを……」
「いや、だから気にするなと言っている」
人差し指で額を突かれた。
良かった、いつもの彩音先輩だ。
そんなやり取りをしていたら、彩音先輩の降車駅が近づいてきた。
どうしよう、改札口まで送った方がいいかな?
「今日はありがとな、高木! 楽しかったよ」
「あ、はい、それは俺もです」
さっきまでの事は置いておくとして。
花火大会は本当に良い思い出になった。彩音先輩の浴衣姿も見れて良かったな。
「おかげでテレビにも間に合いそうだ」
「ふふっ、それは何よりですね」
ああ、これは、ここでお別れだな。
これで彩音先輩とはしばらく会えなくなる。
恐らく次は受験が終わった後。下手をすれば卒業式かもしれない。
そして、その後は……、もう会うことはないだろう。
俺はそのことを知っている。
学生の日々なんて、毎日が一期一会だ。
何だか妙に寂しく感じるけど、それは仕方のないこと……。
「なあ、高木?」
何だろう、彩音先輩。そんな声色で名前を呼ばないで欲しい。
何故か悲しい気持ちになる。
「もう一度、私の名前を呼んでくれないか?」
その声は耳元で聴こえた。
俺の胸元には再び、神の感触がある。
「あ、彩音先輩……!?」
「うん、そっちの方が良い。ありがとな。
お前を好きなだけ独占出来る、梨香が少し羨ましいよ」
その温もりは、抱きしめることが出来ないでいる内にすり抜けてしまった。
「じゃあな、高木」
電車はいつの間にか停車していた。
そして、彩音先輩は笑顔で手を振って電車を降りて行く。
俺は黙って手を振った。何て声をかければ良いか分からなかった。
ただ、どうしようもなく切ない。
電車が発車した後になって気がつく。
一ノ瀬と同じように「またね」と言えば良かっただけだ。
なのに、上手く言葉に出来なかった。
彩音先輩の為に出来ることがあったと思う。
なのに、俺はそれをしなかった。
どうしてこんな気持ちになったのか分らない。
俺は「それをしてはいけない」と思ったのだ。
誰のために、何のために、そう思ったのだろう。
こんなに頭の中がぐちゃぐちゃになったのは久しぶりだな。
こういう時は、考えても無駄だと知っている。
俺は駄目だな……。
ただ一ノ瀬の声が聴きたくてたまらなかった。
 




