第47話:花より団子より女子(前編)
大人になってから、時間の流れに頓着が無くなったと思う。
特に一ノ瀬が居なくなってからは、感情の起伏も無くなった。
悲しいことも無ければ、嬉しいことも無い。
でも傷だらけになった心にとっては穏やかな優しい日々だった。
幸福でもなく、かといって不幸でもない。
ただ時間だけが過ぎていく。
案外、人生なんてこんなものなんだろうと悟りはじめていた。
そんな中、ふと旅行雑誌の表紙に目が止まる。
北アルプスの麓にある公園のようだ。
満開の桜とカラフルなチューリップ、そして冠雪した山々。
あまりの彩の多さに、実際に見てみたいと思った。
戯れにひとりで行ってみることにする。
こんなことを考えたのは初めてだ。
休日にやりたいことなんて何も無かった。
酒を飲んで死んだ瞳で色あせた世界を眺める日々に飽きていたのかもしれない。
公園への行き方はネットで適当に調べた。
松本駅までは特急電車で簡単にアクセスできる。
しかし、そこからが予想以上に面倒な経路だった。
詳しく調べずに行ったのが良くなかったな。
やっとのことで目当ての公園に辿り着き、雑誌の表紙の場所を探す。
北アルプスそのものは松本駅に着いた時点からずっと見えていた。
もちろん、美しかったが、それだけで心が動くわけでもない。
公園はやたらと広くて、どこに目当ての場所があるのか良く分からなかった。
看板を見ながら、たどたどしく歩く。
面倒になってもう帰ろうかと思ったぐらいだ。
しかし、それをしたら後悔……いや、後悔はしないな。
ただの大損だ。
後悔は、その先にあるものが分かって初めて起こるもの。
知らなければ後悔すらしない。
やたらとガッシリした歩道橋を渡って、木々の合間の遊歩道を歩く。
そう言えば、こんなに運動したのは久しぶりだ。
これはこれで悪くないかもしれない。
そして突然、景色が開けた。
その先に見えたものは一瞬で俺の心を奪う。
雄大な北アルプスの山麓は静謐な空気に満ちていた。
冠雪した峻厳な岩峰が青く澄んだ空を分断している。
そんな中、眼前にはこれでもかとばかりの彩が溢れかえっていた。
緑の大地一面に広がる、赤、白、黄色、紫……そして、優しい桜の色。
鼻孔をくすぐるのは僅かに香る、花の匂いだ。
写真で見る景色など、切り取った一部に過ぎない。
視界いっぱいに広がるこの景色は、実際に見てみるまで分からないと思う。
少なくとも俺は、この世界を表現する術を知らない。
思わず、笑っていた。
言葉に出来ない、なんだ、この感動は。
居なくなった人にも見せてやりたい、真っ先にそう思って、涙が出た。
東京ではとっくに桜の季節は終わっている。
同じ国内でこれほどまでに景色が違うとは……。
それから、俺は一人旅の世界にのめり込んでいった――。
「昭和記念公園?」
先輩たちとこのまま世代交代をしてしまうのはあまりにも寂しい。
だから、俺は定例会の後にあることを提案した。
この時期と言えば桜だ。
桜と言えばお花見、これは譲れない。
春になると校門の傍で美しい花を咲かせる桜の木。
学生の頃は特に気に止めたことも無い。
だが、俺は旅に出るようになって花に詳しくなった。
道端に咲く花が、季節を教えてくれる。
春の桜や菜の花に始まり、ツツジ、向日葵、百日紅、彼岸花、秋桜、椿……。
それらを見ている間に、時の流れが戻って来た。
どんなに俺が立ち止まっていても道端の花が教えてくれる。
季節はちゃんと移り変わっているのだ。
俺の中には、あの公園で見た景色がずっと記憶に残っている。
残念ながら俺が心底感動したあの公園は、この時代にはまだ存在していない。
それに開園していたとしても流石に生徒会執行部全員で行くには遠いだろう。
さらに言うと時期もちょっと外れている。
「お花見なら近所でも良くないか? それこそ校庭にも普通に咲いてるし」
そう言ったのは中森だ。
たしかに、神奈川県からわざわざ東京都の公園に行くのは一見して無駄である。
「しかも、入場料がかかるんだろ?」
そう、昭和記念公園は無料で入ることが出来ない。
だが、そこが大切なのだ!
「そう、そのおかげで変な大学生とかが居なくて静かなんだよ」
「そういうもんかね?」
そういうものなのだ。
昭和記念公園にはお酒を飲んで暴れるような人はほとんどいない。
開園時間が決まっているので場所取りも容易だ。
「参加は任意でお願いします。休日だし、予定のある人もいるでしょう」
特に1年生はあまり面識もない人と集まるのも嫌だろうしな。
「私は参加するよ、高木の企画なら面白そうだ」
最初に手を挙げてくれたのは神木先輩だった。
「彩音が行くなら私も行くよ」
「沙希ちゃんが行くなら私もー!」
……見事な芋づる式だった。
神木先輩が来ればもちろん奈津季さんも来る。
「うーん……」
一番の難敵はやはり一ノ瀬だった。
人混み嫌いだもんな。
「大丈夫だよ、一ノ瀬。あそこはそんなに混雑しない」
「本当?」
これも有料公園のメリットだ。
「出来れば一ノ瀬に来てほしい。見せたいものがあるんだ」
「高木くんがそう言うなら……」
おお、良かった。
「そのかわり、面白くなかったら殴ってもいい?」
意地悪そうな表情で楽しそうに言った。
どうしてお前はそんなにも狂暴なんだ。
「すいません、俺はパスします」
やはり正樹君は来なかった。
彼は大抵、週末には予定があったから仕方ない。
「ごめんなさい、私も予定があるので……」
美沙ちゃんは休日の活動にはあまり前向きではなかった。
別に悪いことじゃない、むしろ普通だ。
「僕は参加したいです!」
久志君はいつも真面目で良い子。
「あの、私も行っていいですか?」
麻美ちゃんは内気な子だけどノリは良い方だ。
イベントへの参加率も高かったなあ。
なお、文句を言いながらも中森はキッチリと参加した。
――お花見当日。
場所取りは俺と大場の担当だった。
と、言ってもそれほど早く集まる必要はない。
開園時間は朝の9時半だ。
「高木君、荷物多くない……?」
「朝3時に起きて準備した。死ぬかと思った」
高校生はお酒が飲めない。
基本的には昼食会のようなイメージだ。
食べ物や飲み物は各自で持ち寄ってもらう形にしている。
食中毒の危険性を考えるとこちらの方が安心だ。
……だけど、それは寂しいので今回は全力で用意した。
「うわあ……」
目的の場所の少し手前で大場がその景色に絶句した。
ふっふっふっ、どうだ驚いたか。
「高木君がここに拘った理由が良くわかったよ。
でもこれ、全力で女子向けだよね?」
「悪いか?」
もしかしたら、県内にも同レベルの公園があるかもしれない。
しかし、今から調べるのは難しかった。
やはりネットの力は偉大である。
原っぱに出て桜の木の近くにブルーシートを敷く。
全部で12人だから申し訳ないが少し広めに場所を取った。
背負って来た荷物の中から重いものを取り出して端において固定する。
ブルーシートの隙間は養生テープで繋いでおく。
雑用に慣れたふたりである、手際も良かった。
「ここ、良い場所だね」
「あとはのんびりしていれば良いよー」
大場とふたりでブルーシート上に寝転ぶ。
シートの下は芝生なので普通に気持ちが良い。
空と桜の花が良く見えた。
青空に桃色が映える。
何と美しきコントラストかな。
……危なく、うたた寝してしまうところだった。
誘惑に打ち勝って、昼前に公園の入口へ向かう。
後続の10人を迎えに行かなければならない。
「大場、ここは宜しく頼む」
「いってらっしゃい」
公園はとても広いので広場から入口までは10分程度かかる。
携帯電話が無いので誘導も難しい。
一ノ瀬はどんな顔をするかな。
今から楽しみだ。
……趣旨は先輩の送別会なのだが、結局俺はアイツのことを考えてしまう。
「おはようございます! 早いですね」
入口に着くと、すでに神木先輩が入場して待っていた。
ライトグレーのニットに白黒のチェック柄ロングスカート。
首元にはマフラーを巻いていた。
……よく考えると神木先輩の私服は初めて見たな。
美人は何を着ても似合う。
「おう、おはよう高木。お前のがよっぽど早いだろ」
「それはそうですけど……」
待ち合わせの時間まではまだ15分近くある。
「私は10分前行動が基本なんだ」
「あ、それ分かります」
なんだろう、一ノ瀬よりも神木先輩とのほうが遥かに気が合うんだよな。
考え方も近い気がする。
「それにしても、先輩は綺麗ですねえ」
「なっ、何を今更!」
珍しくちょっと照れた。可愛い。
「その服、とっても似合ってます。寒くないですか?」
「ああ、そういうことか、ありがとう。
ストールも持ってきているから寒かったら羽織るよ」
流石です、神木先輩。
しかし、ほんのわずかな時間とはいえ神木先輩とふたりきりはドキドキするな。
なんて言うか、男から石を投げられそうだ。
カップルにしては釣り合いが取れてなさすぎる。
そう言えば、体育祭が近い頃はよく校舎をふたりで歩いたっけ。
あれからもう、1年近く経ってしまったんだな。
「高木君、彩音ちゃん!」
案の定、嘉奈先輩と沙希先輩は一緒だった。
程なくして平澤先輩、吉村先輩も到着する。
一気に賑やかになった。
……それにしても何故、最上級生が先に揃うのか。
「あの、おはようございます……」
不安そうな表情で現れたのは麻美ちゃんだ。
「ごめんねー、遠かったでしょ」
「いえ、あの、遅れてしまったようで……」
いや、大丈夫、余裕で5分前だ。
「気にしないで、先輩達が早いだけだから。
それより、来てくれてありがとう」
「おい、高木」
背後に沙希先輩の気配。
「何ですか?」
「後輩に手を出すなよ」
何故そんな誤解を生む言葉を言うんですか?
「この人は軽薄だから心を許しちゃ駄目だよ、麻美ちゃん」
「はい、分かりました!」
そこの嘉奈先輩! 変な事を吹き込まないで。
そして麻美ちゃんもだ! いい返事をしないで下さい、お願いします。
……そんなやり取りをしている間に中森と久志君も合流した。
やはり、一ノ瀬と奈津季さんが最後か。
「すいませーん!」
謝りながら走ってきたのはやはり奈津季さんだった。
その後ろには遅刻の原因である一ノ瀬の姿も見える。
今日は桜色のワンピースにいつもの白いコートか。
相変わらず可愛いなあ……。
「遅いぞー」
「ごめんなさい!」
中森には普通に謝る一ノ瀬だった。
……相手が俺だったら多分、逆に怒られてたな。
――時間にうるさい男はモテないよ!
とか言いそうだ。
下手をしたら殴られる。
「じゃあ揃ったので行きましょうか」
大所帯を連れて歩くのは大変だ。
とはいえ、皆さん真面目なので心配は無い。
迷惑にならないようにちゃんと隊列を組んでくれた。
「ねえ、大丈夫?」
隣に来て心配そうな声を出したのは奈津季さんだ。
彼女が心配しているのは花のこと。
実は学校周辺の桜の木は無惨な姿になっている。
時期的にもう見頃過ぎだった。
「ああ、大丈夫だよ。この辺りは開花が少し遅いんだ」
「えっ、そうなの?」
そうなのである。
これは多摩地区の人間しか知らない事実だ。
高校出てから先はずっとこの辺りに住んでるからな。
しばらく歩くとお目当ての広場が見えてきた。
慌てて一ノ瀬を探すと中森と楽しそうに話している。
うう、なんだか切ない。
「一ノ瀬! こっち来てくれないか!」
構わずに呼んだ。
今日だけは許して欲しい。
「待ってよ、今は拓斗と話してるの!」
「ああ、いいよ、行ってあげなよ」
珍しく中森が譲ってくれた。
……というか、一ノ瀬を強引に呼んだ俺の方が珍しいかもしれない。
「何?」
ちょっと不機嫌そうな態度が胸に刺さる。
我儘を言ったことは認めるよ。
「いや、アレを見せたかったんだ」
そう言って渓流広場を指差す。
一面に広がる花畑。
多くはチューリップだがムスカリやヒヤシンスの姿もある。
面積は北アルプス麓の公園には及ばないが、彩りは劣らない。
赤、白、黄色に青、オレンジ色、ピンク色に黒まである。
今日は空も青い、陽の光に照らされた芝生の新緑も眩しかった。
そして、渓流に沿って植えられた花壇の脇には満開の桜が佇んでいる。
「……なんか、おとぎ話の中に入っちゃったみたい」
もっとはしゃぐかと思ったら、意外と静かだった。
まあ、一ノ瀬は花が好きというわけじゃないしな。
こんなものかもしれない。
「おおー! これは……凄いな!」
神木先輩の方が目に見えて喜んでいた。
ああ、良かった。
「なるほど、これを梨香に見せたかったのか」
「何言ってるんですか、それだと半分です」
珍しく、神木先輩が俺の心情を読み違えた。
「俺は皆にこの景色を見せたかったんです」
「そうか……。それはすまなかった」
不満だったので、神木先輩を見つめる。
これは完全に一ノ瀬の真似だ。
「ああ、違うな。……ありがとう」
そう言って、頭をポンと叩かれる。
気持ちが伝わって良かった。
「えいっ!」
――ドスン。
ぐはあ!
「何故、殴る?」
「ねえ、見てよ! あの花綺麗!」
お前は普通に声をかけられないのか。
脇腹を抑えつつ着いていった。
鮮やかな桃色に白色の縁取りが入っている。
一ノ瀬は赤色を好む。
それは多分、好きなアニメのキャラクターの影響だ。
でも俺は、本当に好きな色は白と桃色だと思っている。
一ノ瀬が好きな桃色は儚い桜のような淡いものではなく赤に近い、鮮やかな色。
「お前みたいだな」
鮮やかな美しさの中に、純白の清らかさを秘めている。
「は?」
全く伝わらなかった。
「高木くんは何色が好きなの?」
「……紫」
一ノ瀬に贈るとしたら、多分この色だ。
重たくて、ごめんな。
「うわっ、なんかマニアック!」
煩いな、頼むから花言葉は調べるなよ――。
いつだったか、過去に置いてきた願いのひとつが叶った気がする。
それが、描いていたような感動的なものではない、というのもまた現実である。
それでも嬉しいことは間違いない。
今はただ、一ノ瀬を見る。
楽しそうに笑う彼女の姿が、俺には何よりも綺麗に見えた。
 




