第40話:眠い時の人間は行動が少しおかしくなる
結局、箱根旅行の夜は恐ろしい長電話になった。
寝たのは午前2時だ。
一ノ瀬が力尽きるまで下らない話を続けた記憶だけがある。
一体、何を話していたのかは良く思い出せない。
恐ろしく眠いが、午前6時に自宅を出た。
朝練をサボるわけにはいかないのだ。
都合、3時間睡眠だが、若いのでなんとかなるだろう。
教室で授業を受けている間……正直に言うと、ほとんど寝ていた。
学生の本文は勉強らしいが、俺は一体、何をしに学校に来ているのだろうか。
この日の放課後も部活に出る前に生徒会室へ向かう。
ほぼ1日一緒に過ごして、ひたすら電話したのに一ノ瀬に会いたい。
俺は完全におかしくなっている。
「おはようございます」
「おはよー、高木くーん」
返事をした一ノ瀬は奈津季さんの隣で水たまりのようになっていた。
いつものように先輩達に挨拶した後、一ノ瀬の隣に座る。
「大丈夫か? かなり眠そうだけど……」
「ぜんぜん大丈夫じゃないー」
一ノ瀬は眠い時、語尾が伸びる。
あざとい感じが嫌いだけど、可愛い。
これは相当眠いヤツだな。
「梨香ちゃん、昨日は夜更かししたの?」
聞いたのは奈津季さんだ。
「うんー、高木くんがねー、寝かしてくれなかったのー」
一瞬、生徒会室のざわめきが止まった。
そして、一同の視線が俺に注がれる。
「高木……?」
神木先輩と沙希先輩の目が怖い。
中森と大場もこっちを見ている。
「ちょっと待て、何故そんな誤解を招く表現をする!」
「だってー、本当のことでしょー?」
一ノ瀬は相変わらず机に突っ伏したまま、ガシッと俺の左手を掴んだ。
だから、何をやっているんだ、お前は。
「お前たち、いつの間に……」
やめて、誤解しないで、神木先輩。
「そういえば、昨日はふたりで旅行してたんだっけ」
奈津季さん、今その情報を入れないで!
「ふーん……」
沙希先輩も意味ありげに頷かないで!
「いや、旅行と言っても日帰りだし!
昨日は電話してただけだよ! な、一ノ瀬?」
声をかけた先の一ノ瀬は自分のコートを枕代わりにして眠りこけていた。
お前、このタイミングで寝るなよ。
「まあ、高木君なら大丈夫だとは思うけど。何時まで話してたの?」
「……午前2時」
都合、5時間程話していた。
うん、わかるよ、おかしいよね。
「へえー……」
結局、その場にいた全員から好奇の視線を浴びてしまった。
「じゃあ、部活に行ってきます」
ごまかすようにそう言って席を立とうしたが、左手が動かない。
……一ノ瀬、お前。
隣に座ってしまったのが運の尽きだった。
コイツは誰が相手でもこうなることを知っていたのに。
「高木君、どうするのー?」
奈津季さんがニヤニヤしながらこっちを見ている。
こんなもの、振り払ってしまえば良い。
だけど……。
そんなこと出来るわけがないので黙って座りなおす。
「その、何か片手で出来る仕事ありませんか?」
そう言うと、神木先輩は笑いながら広報紙の原稿を差し出してくれた。
「そこの空きスペースに書く記事の内容を考えてくれ」
「わかりました」
広報紙の内容を考えながら左手の先を見る。
無邪気な表情で無防備に寝ている横顔が愛しかった。
「ごめん、奈津季さん。これをかけてやってくれない?」
そう言って椅子に掛けていたコートを手渡す。
生徒会室には暖房器具が無いから、この時期は少し肌寒い。
「高木君ってさ……」
「うん?」
「梨香ちゃんに甘いよね」
微笑ましい表情で一ノ瀬の背中にコートをかけてくれた。
「いや、俺は奈津季さんにも甘々だよ?」
「あー、はいはい」
相変わらず、まるっきり脈が無いのであった。
――その後。
一ノ瀬の手が緩んだ瞬間に無事に脱出し、俺は練習に参加していた。
代わりに奈津季さんが袖を掴まれて困っていたが俺には関係ない。
なお、ここだけの話、一ノ瀬は酔っぱらうと抱きつき魔になる。
本当に心配すぎるヤツだ。
今日の練習はダブルスのフォーメーションがメインだった。
テニスのダブルスは前衛と後衛に別れるのが基本の形だ。
しかし、ふたりとも前衛に上がったり、後衛に下がったりすることもある。
前衛が攻撃的な立ち居ちとなるので、チャンスの時は大抵前に詰める。
フォーメーションはゲームの状況に応じて刻一刻と変える必要がある。
前衛と言っても常にネットに詰めているわけではない。
たとえば、味方の後衛がストロークを打つ間は少し後ろへ下がる。
こうすれば相手前衛に掴まった場合、対処がしやすい。
ボールに触らなくても相手へのプレッシャーになる。
こういう脚運びは普段から練習していないと中々実行に移せない。
コート上に居る限り、テニスはほとんど足を止めないスポーツだ。
「なあ、高木って生徒会の女子と仲良いのか?」
我が校はテニスコートが2面しかない。
片方は女子部が使うので実質1面だ。
そのため、練習中にコート上に入れる時間は割と多くない。
コートの外にいる時は足を止めないように走っている。
その間は割と雑談も多かった。
「うーん、普通に仲は良いと思うよ」
個人的には普通よりも、かなり仲が良いと感じている。
けど、わざわざそれを言う必要もないだろう。
「じゃあ、神木先輩の胸触ったことある?」
「あるわけないだろうが!」
良くも悪くも、高校生の男子である。
頭の中はこんなことばかりだ。
……とはいえ、俺は当時からこの手の話題は苦手だった。
興味がないわけじゃないが、好き好んで話す気もない。
「いいよなー、神木先輩。ミスコン1位だし!」
「長瀬さんもいるだろ? ちょっと羨ましいよな」
……まあ、その感性は認めるよ。
確かに生徒会室の女子メンバーは非常にレベルが高い。
「で、一ノ瀬さんとはどうなんだ?」
「な、何でそんなことを?」
何故だ、俺と一ノ瀬はクラスも違うからほとんど目撃されていないはず。
「中森から聞いた」
アイツかあああ!
全く、余計ないことを言うヤツだ。
ちなみに中森は一ノ瀬と同じクラスなので俺よりも噂になりやすい。
おそらく、自分に火の粉がかからないようにしたのだろう。
「いや、別に何でもないよ」
「本当かー? 抜け駆けするなよな!」
残念だけど、抜け駆けはない。
一ノ瀬は史実通りなら1年後には中森と付き合っている。
そしてその半年後には決別してしまう。
3年生になったら俺はひたすら受験勉強だ。
……先のことを考えるのは止めよう。
今は一ノ瀬と普通に話せるのだから――。
練習が終わった後、いつものようにジャージ姿で生徒会室へ向かった。
流石に一ノ瀬も起きて帰っただろう。
今日はロードワークになりそうだ。
……今日はもう少し話したかったな。
確実に欲張りになっている自分に戸惑う。
生徒会室を見ると明かりが点いていた。
居ないだろうと思っていても少し期待してしまう。
「おはようございます」
「おお、高木か、お疲れ様」
中に入ると神木先輩が優しく出迎えてくれた。
……そして、一ノ瀬のヤツは相変わらず寝てやがる。
居てくれて嬉しいけど、夜道は危ないから早く帰れよな。
他の人はもう皆、帰ってしまったようだ。
もしかして、神木先輩は一ノ瀬を心配して残ってくれたのかな。
「これからロードワークか?」
「あ……いえ、一ノ瀬が居るんで今日はこっちに居ます」
何も考えずに素直に答える。
「ふふ、すっかり素直になったな、お前」
「ああ! いや、そういうわけじゃ……」
よく考えたらしれっと、駄目人間な発言をしていた。
「いやいや、いいことだ」
神木先輩には見事に笑われてしまった。
「ちょっと着替えてくるんで待っててください」
部室に戻って制服に着替えたら、施錠をする。
テニス部の部室のカギは毎朝一番に来る都合、俺が預かっていることが多い。
「じゃあ、梨香のことは任せたぞ」
神木先輩はそう言って帰り支度を始めた。
やっぱり、待っていてくれたんだな。
一ノ瀬は相変わらず気持ちよさそうに寝ている。
「あ、はい。先輩も気をつけて下さい」
「おう、これも頼むな」
生徒会室の鍵も預かった。
職員室にも鍵はあるので、預からなくても施錠、開錠は出来る。
神木先輩は俺の手間を省いてくれたのだ。
「……襲うなよ?」
生徒会室の扉の前で立ち止まり、神木先輩は振り返ってそう言った。
「そんなことするわけないじゃないですか!」
今日はなんだか茶化されてばかりな気がする。
――チリンチリン。
神木先輩が出ていくと生徒会室は静かになった。
日も落ちて、俺と一ノ瀬しかいない。
人が減ると部屋も冷える。
一ノ瀬の方を見るとしっかりコートを羽織っていたので安心した。
……ってアレ? 俺のコートじゃないぞ。
何故か一ノ瀬は俺のコートを枕にしていた。
まあ、どっちでもいいけどさ。
温かいお茶を入れて人心地着く。
最終下校時刻まではまだ少し時間があるから資料の整理を始めた。
適当に収まっていた書類を一度取り出し、日付順に並べ直す。
タグをつけて、後で見た時にすぐに分かるようにした。
忙しい時はとりあえずファイルに閉じるだけのことが多い。
資料整理も立派な仕事だ。
一ノ瀬の隣に座って寝顔を眺めたい衝動に駆られたが、流石に悪いよな。
起きたら一緒に帰れるのだから、それだけでも十分だ。
「高木くん……?」
「ん、起きたか?」
一ノ瀬の声がしたので振り返った。
相変わらず眠そうな顔でこっちを見ている。
コートがずり落ちそうなので近くに行ってかけ直す。
「大丈夫か? 帰れそう?」
「うー……!」
一ノ瀬は寝起きの機嫌があまりよろしくない。
特に眠い時は最悪だ。
そして何故か、ガシッと俺の左手を掴む。
「ちょっ、お前!」
思わず少し大きな声が出た。
しかし、一ノ瀬は再び机に向かってしまう。
また動けなくなった……。
仕方がないので隣に座る。
肘をついて一ノ瀬の顔を覗き込んだ。
これは不可抗力……とは言えないか。
一ノ瀬に握られた左手から伝わってくる体温が心地よい。
――襲うなよ?
神木先輩の声が響く。
これは確かに……危ないかもしれない。
20年近く経ってやっと逢えたのに、こうしていられるのもあと1年か。
どうしても寂しい気持ちになってしまう。
けど、それは勿体ない。
プラス思考で考えよう。
今は、こうして傍に居られる。
感情を丁寧に汲み取れば、俺は今、間違いなく幸せだ。
「俺は、お前のことが大好きだよ」
そう言って、右手で起きないように優しくポンポンと頭を撫でた。
これぐらいは許しておくれ――。
しばらくするとビクンと全身を震わせて一ノ瀬が目を覚ました。
隣で寝顔を眺めていた俺と見事に目が合う。
「……高木くん!?」
あ、これはヤバイ。
「恥ずかしいから見ないでよ!」
その直後、見事なボディブローが俺のわき腹に刺さった。
「女の子の寝顔を勝手に見るなんて、最低だからね! 変態!」
「ごめんなさい……」
流石にこれは俺が悪かったと思う。
しかし、狂暴なヤツだ。
「目は覚めたか?」
「うん、大丈夫! 帰ろっか」
そう言って一ノ瀬は立ち上がった。
どうやら完全に起きたようだ。
「はい、コレ」
一ノ瀬は枕にしていた俺のコートを差し出した。
「暖めておいてあげたよ」
ああ、そういう趣旨だったのか。
どうせなら直接暖めて欲しい……というのは流石に言えないな。
おそらく、またボディーブローが飛んでくる。
「ありがとう」
そう言って一ノ瀬からコートを受け取って袖を通す。
その瞬間、俺は真っ赤になった。
「どうかした?」
「あ、いや……、何でもない」
こんなことを言ったらまた変態扱いされるに決まっている。
コートからは予想以上に、一ノ瀬の温もりが伝わってきた。
それは暖かさと違うものだ。
甘くて、優しい、一ノ瀬の匂いがした――。
 




