並走しない過去 第6話:触れられない日々
「高木君は彼氏じゃないんだから、気安く触らないで!」
見送る時、頭を撫でようとしたら手を振り払われた。
……不謹慎だった。
今日はこれから彼氏に会いに行くんだもんな。
「ごめん……」
旅行から帰ってきて、ますます態度が悪くなった。
こうやって少しずつ心が離れていくのだろう。
理解も覚悟もしているから、仕方ないとは思う。
それに……、あの時のことは俺も悪かった。
「じゃあな……」
ぐうの音も出ないほど落ち込んだ。
その俺の表情を見て、一ノ瀬は態度を軟化する。
「その、そんなに怒ったわけじゃないから……」
そういって、罰が悪そうな顔をした。
「ああ、わかってる。
大丈夫だから、行っておいで」
俺は可能な限り、笑顔を作って一ノ瀬を見送った。
――バタン。
扉が閉まるのを止められなかった。
そのまま玄関で崩れ落ちる。
もうこの時点で辛かった。
けど、今日は一晩耐えないといけない。
虚ろな足取りでリビングルームに戻る。
1LDKの1部屋は一ノ瀬の部屋として使っているから、ここが俺の部屋だ。
缶ビールを開けて、ひと息つく。
もはや味もわからない。
胸の奥は渦巻くような嫌な感情で溢れている。
ざわざわする感覚が止まらない。
どす黒い何かが喉元まで迫っているような気がする。
夜中に彼氏の家に出かけて、明日の朝、帰ってくるそうだ。
なんでわざわざこっちに戻ってくるのか分からない。
いっそのこと、ずっと彼氏の家にでもいればよいのに。
でも、そうなったら、そうなったで絶望するんだろうな、俺は。
この時間をどうやって過ごしたらいいか、わからない。
何も考えないようにすることだけが、俺に出来ることだ。
少しでも一ノ瀬のことを考えると、胸の奥が苦しくなる。
悲しいとか寂しいとか、そんな生易しい感情じゃない。
胸の奥の柔らかいものを直接傷つけられている。
心が痛い、胸が締め付けられる。
自分の一番大事なものを目の前で引き裂かれている気分だ。
電気を消して、部屋の角でうずくまった。
とても眠れる気がしない。
心を殺せ、意識を飛ばして何も考えるな。
俺のやっていることは……生きているのに死体になることだ。
どうして、こうなってしまったんだろう。
何で俺は自分の家の片隅で、震えていなければいけないのだ。
心が引きずり出され、磔にされて、ズタズタにされていく。
痛い、誰かに助けて欲しい。
真っ先に思い浮かぶ相手は……一ノ瀬だった。
一ノ瀬に逢いたい……。
それを願った瞬間に頭の奥で嫌な音がした。
涙があふれて止まらなくなる。
もう、この感情が何なのかわからない。
だから、考えるなって言ったんだ。
身体の力が抜けて、缶ビールを落とした。
もうほとんど残っていなかったから、ほんの少し床を汚して転がっていく。
動いて拾う気力も無かった。
両腕で涙を拭うけどキリがない。
もう垂れ流すことにした。
そうやって、気が遠くなるような時間を過す……。
俺に出来るのは、時が経つのを待つだけだ。
――ガチャリ。
カギを開ける音を聞いて、玄関へ走った。
「おかえり」
「ただいま」
当たり前のような会話をした。
でも招き入れた一ノ瀬から、知らない匂いがする。
その瞬間に耐えきれないものが胸の奥を襲う。
この場所に居たくなかった。
すぐにリビングに戻る。
着替えて鞄を手に取った。
「会社行くの?」
出社するにはまだ早い時間だ。
「ああ、うん……」
通勤先の会社はフレックスタイム制が導入されているので早朝に出社しても特に問題はない。
「顔、洗ってきたら?
その顔で会社に行くのは……」
っ! 誰のせいで……!
いや、違う、そうじゃない。
「お前こそ、シャワー浴びてきなよ」
「えー? そんなに汚れてないと思うけど?」
そういって自分の姿を確認する一ノ瀬。
「知らない人の匂いがする」
そういって玄関から外に出た。
「高木くん!」
あの声色は優しい時の一ノ瀬だ。
でも、今は……近づきたくない。
「ごめんな、一ノ瀬」
そうだ、悪いのは一ノ瀬じゃない。
醜く嫉妬する俺だ。
朝まで他の誰かと一緒に居たことを受け止められない俺が……。
それを我慢できない俺が悪い。
会社に行けば少しは気分も晴れると思った。
仕事を始めれば、作業に集中できる。
気も紛れるだろう。
自席にあるノートPCを持ってデバッグルームへ行く。
あそこは普段からあまり人がいない。
加えて早朝だ、ひとりで作業するには適している。
部署が変わってから、少しは自分のペースで仕事が出来るようになった。
試験機にPCを接続して、一度顔を洗いに行く。
鏡の前の自分は確かに酷い顔をしていた……。
それから俺は誰もいないデバッグルームで静かにキーボードを叩く。
作りたいプログラムは頭の中にある。
ソースコードを打ち込むのは単純作業だ。
モニタを見ながら、感情を押し潰す。
胸の奥が痛い……。
でも、大丈夫だ。
俺はまだ、大丈夫。
涙が出るうちは、まだ壊れていない。
仕事に没頭することで少しだけ冷静さを取り戻した。
胸の痛みは相変わらずだけど、今なら感情的にならずに済みそうだ。
――今朝はごめん、態度悪かった。
昼休みの間にメッセージを送る。
――いいよ、気にしてない。
それを見て少しほっとした。
やはり、ある程度時間が経てば冷静になれる。
今日は一ノ瀬も予定がないと言っていた。
帰ればふたりで過ごせる。
それほど残業する必要も無いから早く帰れそうだ。
気を取り直して仕事は手早く終わらせた。
帰り道にスーパーに寄って食材を買うことにする。
今日は一ノ瀬の好きな料理を作ろう。
料理といっても、俺の作る物は合わせ調味料がメインだ。
味付けは保証されているが、料理と呼べるかはわからない。
辛くない麻婆豆腐の素と、絹ごし豆腐、ひき肉、刻み葱、カットしめじを買い物かごに入れる。
麻婆豆腐にしめじを入れるのは俺のオリジナルだ。
味も悪くないが、何より栄養バランスが良くなるが利点。
鷹の爪とニンニクはまだ在庫があった。
一ノ瀬へ提供する時は気づかないぐらいの少量で良い。
せっかくだからトマトと生ハム、モッツァレラチーズでカプレーゼでも作るか。
バジルは確か乾燥のものが残っていたはずだ。
ジャンルが違い過ぎるけど構わない。
アイツの好きなものを作るだけだ。
レモンサワーと麦酒、あと梅酒も買っておく。
俺はほとんど麦酒しか飲まないが、一ノ瀬は色々な酒を飲むからな。
割と重くなった買い物カゴを清算して家路につく。
帰ると部屋が暗かった。
一ノ瀬はまだ学校から帰ってきていないようだ。
別に冷めてもレンジで温めれば良いだけだし、さっさと料理を作ってしまおう。
合わせ調味料を使った麻婆豆腐は簡単だ。
ひき肉としめじをしっかり炒めて、豆腐を落とし、調味料を入れて軽く混ぜる。
最後に刻み葱をたっぷりと入れるとなお美味しい。
カプレーゼはオリーブオイルをかけないで冷蔵庫へ。
時間に余裕があったので少し甘めの味付けで卵焼きを作っておいた。
一ノ瀬は出汁よりも砂糖がたっぷり入ったものを好む。
これだけあれば、晩酌には十分だろう。
――今日は遅くなるのか?
送ったメッセージの返事はなかなか来ない。
あー、これは……空振りのパターンかな。
1時間ほどして連絡がきた。
――ごめん、飲み会に誘われちゃったから今日はそっちに帰らない。
メッセージが返ってきただけマシだ。
諦めてひとりで晩酌を始めた。
一瞬、年下の男子と楽しそうに笑う一ノ瀬が思い浮かぶ。
ヤメロ、そんなこと事実であったとしても気にすることじゃない。
一ノ瀬の好みに合わせて作った料理に手を付ける。
浮気された人妻が手料理をゴミ箱に捨てるシーンが過った。
そんな勿体ないことするわけないじゃないか。
そもそも一ノ瀬がここに帰ってくるという約束なんかしていない。
俺は、一ノ瀬の夫でもなければ彼氏でもないんだ。
何でもない、ただの知人の中のひとりに過ぎない。
夜中にひとりになった。
一ノ瀬が居ないと、この部屋はとても静かだ。
でも……一緒に居ても触れられない。
アイツは今頃、他の誰かと肩でも組んでいるのだろう。
――他の人ならいい、でも高木君とは嫌。
俺は一体、何なんだ。
……考えちゃいけない。
それに、今日は昨日の夜よりよっぽどマシだ。
――ガチャリ。
カギを開ける音を聞いて、あわてて玄関へ走った。
「あれえ、高木くん? 起こしちゃった?」
足元がおぼつかない。
かなり飲んで来たな。
「大丈夫か?」
「大丈夫に決まっているでしょー」
フラフラしているから肩を貸して、ベッドまで連れて行く。
今日はいつもの一ノ瀬の匂いだ。
心の底からほっとした。
「自分の家に帰るんじゃなかったのか?」
「何よ、せっかく高木くんに会いに来てあげたのに」
それは素直に嬉しいけどさ。
「お風呂入るー」
「その状態で入るな! 危ないから」
横にならせて布団をかけるがすぐにはがされた。
「スカートしわになっちゃう」
そういって脱ぎ始める。
慌てて部屋の電気を消した。
まったく、コイツは何なんだ。
「とにかく早く寝ろよ、俺も寝るからな」
「うん、おやすみー」
面倒なことが増えたけど帰ってきてくれたことは嬉しかった。
一人暮らしの自由さに慣れた時。
誰かと一緒に過ごすなんて考えられなくなった。
他人が遊びに来た時ですら面倒くさいと思う。
ひとりの時間が無くなる事が窮屈に思えてならない。
けれど、一ノ瀬だけは別だった。
アイツがいると、安心するんだ。
一ノ瀬となら、ずっと一緒に居たいと思う。
――翌朝。
味噌汁を作って、ご飯を炊いておいた。
あの様子だと食べてくれかどうかはわからない。
でも残っていたら帰って来た時に食べるか、冷凍してしまえばいい。
おかずが冷蔵庫に入っていることぐらいアイツならわかるだろう。
昨晩、服を脱いでいたから、寝室には近寄らずに家を出た。
こんな生活、きっと長くは続かない……。
それだけは、はっきりと理解している。
それでも俺は……もう少しだけでも良い。
一ノ瀬の傍に居たかった。
あと、何回。
一緒にご飯が食べられるんだろう。




