第25話:肝心なことを思い出す
球技大会が終わって、夏休みに入った。
夏休み期間中は、ほぼ毎日のように部活動にせいをだしていた。
毎日学校に行って、練習をする。
練習が無い日もテニスコートに入ってひたすらサーブの練習をしていた。
サーブ練習ならひとりでも出来るし、コート整備も最小限で良い。
そもそも、テニス部を選んだ理由は個人競技だったからだ。
俺は昔から、他人に迷惑をかけるが嫌だった。
自分が失敗するのは大前提だ。
多少嫌な気持ちになったり、恥ずかしい思いをしたりするのは許容できる。
でも、自分のせいで誰かが嫌な気持ちになるのは耐えられなかった。
テニスなら……失敗しても得点を失うのは自分だけで済む。
夏休みはテニス部の合宿にも参加した。
バスで山中湖まで行って、3泊4日、一日中コートで練習できる。
朝から晩まで練習するのは楽しかった。
もちろん、部員同士で夜中に下らない話をするのも定番だ。
夏祭り?花火大会?
そんなものは別次元のお話である。
ここまで色気のない夏休みも珍しいだろう。
――新学期。
すぐに選挙管理委員会が立ち上がり、次期生徒会選挙が始まる。
そして、文化祭執行部の活動も佳境に入った。
当時の俺は文化祭執行部には所属していない。
やはり運動部との掛け持ちは厳しかったのだ。
文化祭執行部の部長は神木先輩ではなく吉村先輩という、一般生徒が務めている。
文化祭は体育祭よりも遥かにやることが多い。
生徒会長との兼任は不可能なレベルだ。
それに権限が重複してしまうので例年、会長候補ではなく別の人が担当することになっている。
もちろん、体育祭執行部長と文化祭執行部長と生徒会長を兼任しても全く問題はない。
そういう例外のような年もあった。
文化祭執行部は夏休前から活動を開始していた。
それこそ体育祭が終わった辺りから幾度となく集会が行われている。
同じように今年のテーマ決めに始まり、体育館で行う舞台のプログラムや後夜祭の企画など。
決めることが大量にある。
各クラスの企画のとりまとめもしなければいけないし、一般公開をする以上、地域への広報も必要だ。
夏休みが空けてから3週間ほどで文化祭となるため、文化祭執行部の多くは夏休みも活動をしていた。
そして、この時期になると生徒会室まで押し寄せてくる。
俺は当たり前のように手伝っていた。
この日は雨が降っていたので文化祭執行部の会合に参加することにした。
パンフレットの製作費と内容の承認が下りた時点で、それぞれの班に分かれて活動を開始する。
ここまで来ると、会合よりも実務の方が多くなってくるのだ。
それこそ、一番手伝える範囲と言える。
「あああ! 紙が足りない!」
遠くから叫び声が聞こえてきた。
ん? 何だか、懐かしい響きだ……。
声の主の方へ振り返ると、そこには想像もしない人物が居た。
間違いない、一ノ瀬だ。
上履きが緑色だし。
声も顔も、すっかり忘れてしまっているかと思ったけどすぐにわかるもんだな。
そうか、文化祭執行部に入ってたのか……。
生徒会室に来なかったあの日。
俺は他のクラスを見て回ったのだけど一ノ瀬は居なかった。
それですっかりと諦めていたのだけど……。
経緯みたいな些細なことはもうどうでもいい。
やっと一ノ瀬と会うことが出来た。
それだけで十分だ。
遠くから眺めるだけで泣きそうになる。
……しかし、思っていたよりも冷静だった。
一目見ただけで、もっとこう、胸の奥から色々な感情が溢れて泣き崩れてしまうのではないかと思っていたのに。
もしかしたら長い年月の間に、感情は風化してしまったのかもしれない。
一ノ瀬に逢いたい。
ただそれだけでここまで来たのだけど……。
そういえばどうして俺はこんなにアイツのことを想っているんだろうか。
よくよく考えると、どこが好きだったのか分からない。
確かに可愛いけど、外見で言ったら奈津季さんの方がよっぽど好みだ。
こんなこと言ったら殺されるけど、スタイルも特別良くないし。
性格だってむしろ苦手なタイプだぞ。
誰にでも愛想が良くて、思わせぶりな態度でその気にさせるのが上手い。
我儘だし、人の言うこと聞かないし。
……何にもいいところが無いじゃないか。
それに絶対に俺のことを好きになってくれないってわかってる。
まあ、これに関しては俺にも問題があるんだろうけど。
そんなことを考えながら一ノ瀬を眺めていたら目が合ってしまった。
そして悪いことを考えていた手前、思わずその目をそらす。
この瞬間に「やってしまった」と思った。
アイツこういう態度が一番嫌いなんだよなあ……。
後で何を言われるか……。
でもまだそんなに仲良くないから大丈夫かもしれない。
――チリンチリン。
「おはようございます」
一通りの手伝いを終えたら生徒会室へ戻った。
すでに嘉奈先輩と沙希先輩はお茶を飲んでいる。
ふたりの背中を抜けて自分のマグカップを取り出して、ティーパックを入れた。
熱湯を注いでしばし待つ。
「あれ、奈津季さんは?」
中森も大場もいるのに、奈津季さんの姿だけ見えなかった。
「あー、なんか俺たちに紹介したい人がいるんだって」
ん? どういうことだろう?
「神木先輩、何か聞いてます?」
「ああ、聞いている。楽しみにしているといい」
もしかして……。
「おはようございまーす!」
そう言って入ってきたのは一ノ瀬だった。
奈津季さんはその後ろにいる。
「おはようございます、えーと、こちら……」
「一ノ瀬 梨香です。
2学期からこちらの学校に転校してきました」
なるほど、転校生って設定なんだな。
まあ、いいや、何でも良い。
一ノ瀬が、生徒会室に来た。
欠けていたピースがやっと揃う。
俺にとって大事なことはそれだけだ。
「中学からの友達だったんですけど……。
親の都合でしばらく遠くの学校に行ってしまっていて。
私が生徒会だっていう話をしたら一緒にやりたいと言ってくれたのです」
奈津季さんがわかりやすく紹介してくれた。
「歓迎するよ、一ノ瀬さん――梨香でいいかな?」
奈津季さんの説明に神木先輩は間を置かず、優しい声で答えた。
「あの……、よろしくお願いします!」
さすがに、アイツでも神木先輩との初対面は緊張するんだな。
……そういえば元々人見知りだったっけ。
「神木 彩音だ。
今期はまだ副会長だが、実質会長の権限を持っている。
困ったらまずは私に言ってくれ」
「はい、わかりました!」
「斉藤 沙希、会計です。よろしくね」
「岩倉 嘉奈、書記です。よろしくー」
一ノ瀬は顔と名前を覚えるのが早い。
次々と始まる自己紹介に怯むことなく、最後までニコニコにしていた。
――その後。
「高木君、だよね?」
ひと通りの自己紹介が終わった後で唐突に声をかけられる。
「あ、はい、高木です」
一ノ瀬の方を見ないで答えた。
「さっき、私のこと見てた?」
うわ……、やっぱり駄目だったか。
これを誤魔化すと一ノ瀬はもっと機嫌が悪くなる。
仕方ないので一ノ瀬の方に向き直った。
「あー、ごめん、見てました」
いつものようにまっすぐにこっちの目を見てくる。
一ノ瀬はどんな奴が相手でも瞳をそらさない。
大きな瞳がとても綺麗だ。
「私に何か用だった?」
そして、近い。
彼女には一切の悪気が無いというのもまた質が悪いのだ。
一ノ瀬は誰に対しても距離を置かない。
生徒会の先輩女史達も中々に距離感が近いのだが、一ノ瀬はさらに一歩近い。
さて、どうしたものか……。
「一ノ瀬さんが可愛いから見惚れていたんだよ」とかで誤魔化せないかな?
見惚れていた、という表現に間違いはないし。
それにしても近いなあ。
恋人同士の距離だぞ、これ。
初対面なのに、よくここまで近寄れるよな……。
余計なことを考えてしまったせいで回答に遅れてしまった。
どうやら俺が困っていると思ったようだ。
「ごめんね」
そう言って表情を和らげてくれた。
一ノ瀬は表情の変化が激しい。
「困らせちゃった?」
心配そうな顔でこちらを覗き込む。
だから上目遣いをするなっての。
身長はおなじぐらいじゃないか。
「いやいや、そうじゃなくて! えっと、ごめんね、こっちこそ」
我ながらなんて上手くない受け答え。
どうしてだろう。
こんなに無様な姿をさらしているのにどこか安心する。
なんだろう、この感覚は。
「そっか、それなら良かった。気にしないでね」
そして、彼女は優しく笑った。
無邪気で屈託のない、眩しい笑顔だ――。
その瞬間、感情が溢れ出した。
気がつくと、涙が止まらなくなっている。
「えっ!? うそ!」
狼狽する一ノ瀬。
「ごめん、気にしないで。大丈夫だから……」
片手を上げて答えた。
出来るだけ優しく言ったつもりだ。
それでも溢れ出す感情が止まらない。
年月を経て風化した?
違う、凍りついていただけだ。
徹底的に諦めて、冷遇して、封じ込めるように胸の奥に抑え込んだ想い。
一ノ瀬の優しい笑顔を見た瞬間、堰を切ったように暖かいものがあふれてくる。
決して、悲しいわけじゃない。
ただ少し切なくて、胸が痛かった。
でも、不思議と心地が良い。
「ごめん、高木くん。ごめんなさい」
慌てて謝る一ノ瀬。
「いや、君は1ミリも悪くない。本当に気にしないで」
昂った感情は少しずつ収まってきている。
いずれ涙も止まるだろう。
「とりあえずこれ使って!」
そういって一ノ瀬はハンカチを差し出す。
「いや、こんなの使えないよ」
断った俺に対して一ノ瀬が取った行動はまた恐ろしかった。
そのままハンカチを手に俺の涙を拭きとったのだ。
恐ろしい……、なんでこんなこと出来るんだ。
すぐ近くにいるせいで一ノ瀬の匂いがした。
甘くて、優しい香り。
まるで心の奥が満たされるような感覚に戸惑う。
言葉にならない感情がこみ上げてきた。
どうしよう、止められない。
「大丈夫?」
心配そうに見上げる一ノ瀬。
そうだったな。
一ノ瀬は優しい。
おせっかいなところがあって、弱っている人を見ると放っておけないのだ。
そういうところも好きだったな。
「うん、本当に大丈夫だから心配しないで」
女の子に詰め寄られて泣き出す俺。
軟弱な奴すぎる。
我ながら格好のつかない初対面になってしまった。
しかし困ったな、とにかく、ひとりになって感情を整理したい。
俺はもう一ノ瀬をほんの少しでも傷つけたくないのだ。
そんなことをしたら自分を許せなくなる。
だから、もう一度気持ちを抑え込まないと……。
「ごめんね、一ノ瀬さん。
少しだけでいいからひとりにさせて」
そういうと渋々、一ノ瀬は俺から離れてくれた。
傍にいて欲しいのに、それを願えないとは。
一ノ瀬の笑顔に触れて溢れたのは幸福な感情だけではない。
俺にはもう、良くわからなかった。
胸の奥にあった感情はなんだかわからないぐらいに強いものだったのだ。
良い感情も悪い感情もごちゃ混ぜになってぎちぎちに押し込められていた。
溢れてくる感情は理解を越えていた。
でもね、多分これだけは分かる。
一番大きい感情は「嬉しい」だ。
色んなものが混ざって、解り難かったけど。
確かに俺は一ノ瀬を見て、泣いた。
でもきっと、その時の俺の表情は笑顔だったと思う。
そういえば……こんな風に笑ったのは、いつ以来だろう。




