並走しない過去 第9話:居なくなった人
一ノ瀬と決別した後。
予想通り、俺には絶望的な日々が待っていた。
一ノ瀬の傍に俺がいることと、俺の傍に一ノ瀬がいること。
それはまるで意味が違う。
彼女にとっての俺は、居ても居なくても変わらない程度の存在にすぎない。
だけど俺にとっての彼女はそうではなかった。
依存していた、といっても過言ではないと思う。
彼女が居なければ自分をうまく保てない。
ふとした瞬間に、彼女が居ないことに絶望する。
笑顔が見たい、声が聴きたい。
その願いが永遠に叶わないものになった。
そのことを考えると、何も手につかなくなる。
携帯電話に登録された彼女の情報は全て消した。
でも、頭が記憶している。
何度も何度も、彼女に電話をすることを考えた。
「俺がどんなに連絡しても、返事をしないでくれ」
俺は自分の弱さを知っている。
だから、一ノ瀬とはそんな約束をしていた。
きっと彼女はその約束を守ってくれるだろう。
だけど、みっともない真似をしたくない。
彼女に無駄な負担をかけたくないから、必死で衝動を飲み込んだ。
俺は早く忘れなくてはいけないのだ。
電話番号だけじゃない、彼女の笑顔も頭の中から消さないといけない。
それが、どうしても辛かった。
そしていつからか、俺は2度と会えないという戒めを込めて。
一ノ瀬のことを「居なくなった人」と呼ぶようになった。
――決別から半年。
時間は経ったけど絶望は永遠に続くように思えた。
夢の中でさえ、一ノ瀬には会えない。
見るのは、彼女に会いたいと思って会えない夢だけだ。
彼女の傍らに別の誰かが居る夢を見る。
伸ばした手を知らない人に振り払われる夢を見る。
そこに一ノ瀬が居ると解っているのに顔も見れない夢を見る。
そのうちに自律神経が狂って体までおかしくなった。
夜に眠りに着くことも出来ない。
徹夜で仕事に行って、疲れ果てて帰ってきているのに眠れない。
ずっと不安で仕方が無かった。
心も体も壊れてしまったように感じる。
俺には生きる理由も未来への希望もない。
それでも生きていた。
……ただ、死ななかっただけだ。
結局、仕事の方はしばらくはまともに出来なくなった。
と、いっても休んだのは2週間程だ。
だが、これまでのこともあって色々と問題になった。
結局、出世コースからは外れることになる。
一ノ瀬のせいだ、などという気は毛頭ない。
ただただ、弱い俺が悪い。
その後は少し無理をしながらも業務は継続出来た。
他にすることもないから仕事に没頭していた時期もある。
そうすると、少しだけ時間が経つのが早くなった。
でも、それだけだ。
一ノ瀬のことを思い出す度に涙が止まらない。
考えないようにすることぐらいしか出来なかった。
心療内科に薬を貰って、どうしても耐えられない時はそれに頼る。
でも、酒を飲む方が手っ取り早かった。
大量に飲んで、意識を失うように眠りに着く。
それが日常になった。
休日は地獄だ。
いつまで経っても1日が終わらない。
好きだったゲームも、テレビも映画も楽しくない。
この世界の全てが色あせていく。
俺には何も無くなってしまった。
絶望に支配されていた時は、早く明日が来てほしかった。
ただ、今日という日が終って欲しかった。
今日は明日を待つだけの日。
明日になったら、それが今日になる。
そうやって、いつまでも明日を待ち続ける。
俺は一体、何のために生きているんだろうか?
――決別から1年。
どんなことも時間が解決してくれる。
それは本当の事だと思った。
一ノ瀬へ連絡したいという衝動はもう無くなっていた。
夢を見ることも少なくなった。
悲しみそのものは、いくらか癒えた気がする。
けれど、絶望感は拭えないままだった。
相変わらず、日々は無意味で無価値だった。
ある日の休日。
いつものように昼間から酒を飲んでいた。
お酒を飲むと気分が高揚する。
そして何も考えなくなって、1日が早く終わる……。
けれど、その日は上手くいかなかった。
気持ちよくなる前に、不快感で吐いた。
もう、内臓がついて来れなくなったのだ。
それでも逃げ道が無いからさらに飲んだ。
吐いているのに飲む。
気持ちが悪くなって眠りにもつけず、面白くないテレビ番組を見て過ごす。
いつになったらこの想いは枯れてくれるのだろうか。
ただ、少しでも早く時が過ぎ去ってくれることを祈る。
心も体も、少しも休まらない。
もう何もかも嫌だった。
自我など、すり潰されて消えてしまえば良いのに。
何かを願うどころか彼女のことを思い出さないようにするだけで精一杯だ。
俺たちが生きていることに意味だとか価値だとか。
そんなものがあるわけがない。
ただ、脂肪とたんぱく質の塊が歩いているだけだ。
やるべきこともやりたいことも無かった。
俺は多分、死を待っていた。
この世界に希望を見いだせなかったのだ。
――決別から3年。
まるで拷問のようだった日々は少し穏やかになっていた。
俺はいじけていただけだった。
「彼女しかいない」、「彼女じゃないと駄目なんだ」。
一体、どれだけの人がそう言ったのだろう。
そして多くの人はきっと別の誰かと一緒になっている。
自分だけが特別じゃないし、彼女だけが特別じゃない。
俺の経験は、ただの普通の失恋だ。
どこにでもある、石ころのような恋愛だった。
人生の全てを台無しにするような大げさなものじゃない。
気がつけば、そう思えるようになっていた。
たくさんの優しい人たちのおかげだと思う。
友人や上司、家族。
ひとり暮らしではあったけれど、本当に独りではなかった。
これまではずっと孤独感に苛まされていた。
けれど、時が経つにつれ少しずつ周りが見えるようになったのだ。
俺には何もない。
……それは違っていた。
一ノ瀬が居なくなっただけだ。
俺にはちゃんと大切なものがある。
その価値に気づくことが出来ていなかっただけだ。
今なら言える。
出口が見えないような絶望でも、耐え続ければいつか出口にたどり着ける。
無意味な時を過ごしても良い、悲しんでも良い。
そうやって苦しみに耐える日々は無駄じゃない。
永遠に続く痛みはないのだから。
時間の経過は色んなことを解決してくれた。
痛みは薄らぎ、悲しみは少しずつ消えていく。
心の中から完全に無くなるようなことはなかったけれど。
絡めとるような感傷は少しずつ小さくなっていく。
そして本当に、心は軽くなった。
俺は彼女を失って、塞ぎこんで多くの人に迷惑をかけた。
でも、これはこれで、良い事だったんだ。
おかげで、周りにあったものの価値に気がつけた。
残された日々の中で、美しいと思えるものを見つけられるようになった。
他人に感謝出来るようになれた。
けれど……彼女を忘れることだけは出来なかった。
多分、これは一生消えないだろう。
大きな怪我をした時の後遺症に似ている。
彼女のことを思い出すと胸は痛む。
それでも思い出す頻度は少なくなっていく。
今では少しずつ消えていく彼女を寂しく思うぐらいだ――。
どんなに寂しくても決別を後悔したことは一度も無い。
あの時、離れなかったら……俺の心はもたなかっただろう。
それだけは解る。
ストーカーの気持ちが分からないでもない。
下手をしたら、俺は一ノ瀬を憎んでしまったかもしれないから。
それだけは嫌だった。
身勝手な想いが暴走して、彼女を傷つけるのだけは耐えられない。
辛かった、悲しかった、寂しかった、そして怖かった。
だから、離れる以外の方法が無かったのだ。
俺と一ノ瀬は、結局、何をしても駄目だったのだろう。
たとえどんなことをしても彼女はきっと俺を好きにならない。
そして、俺はそれでも彼女を好きになるだろう。
これはなるべくしてなった結果だ。
俺は居なくなった人に感謝をするようになっていた。
ありがとう、これは悲しいだけの恋ではなかった。
俺はちゃんと、君と出会えて幸せになれたよ。
感謝を伝えたくて、手紙を書いた。
そして、それを机の引き出しの奥深くへ忍ばせる。
とてもハッピーエンドとは言えない結末だけど。
俺はこの恋を「無かったことにしたい」とは思わない。
 




