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たとえ人生をやり直せるとしても俺は同じ過ちを繰り返す  作者: 大神 新
最終章:その選択肢の答えは最初から決まっている
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並走しない過去 第3話:愛し合う

 あれから、一ノ瀬は頻繁に家に来るようになった。

 ……というか、ほとんど俺の家にいる。

 女子寮に帰るのは荷物を取りに行く時ぐらいだ。


 彼女にとって、俺の傍が居心地の良い場所だというのなら、それでいい。

 けれど、やはりわだかまりは残っていた。

 悠人(はると)と呼ばれた人のことが気になって仕方ない。

 俺はなんて小さい人間なんだろう。


「あのさ、一ノ瀬。お前、今付き合っている人いるのか?」

 結局、わだかまりを解決するには聞くしかない。

「高木くん、馬鹿なの? いるわけないじゃん。いたらこんなに来ないよ」

 当然のようにそう言ったことに心底ほっとする。


「あ、いや、悠人(はると)って誰なのかなって」

「嘘……私、寝言か何か言ってた?」

 信じられない、といった表情の一ノ瀬。だけどお前の寝ぼけ方は酷いぞ。


「あー、うん」

「元彼だよ、浪人生時代から付き合ってたの」

 これ以上ないぐらい、普通の話だった。


「気になるの?」

「それは……まあ……」

 でも聞かない方が良いだろう。一ノ瀬は自分の話をするのが嫌いだ。

 きっと話したくないに違いない。


「高木くんよりずっと格好良かったよ。背も高かったし」

「そうか……」

 何で別れたのか、そんなことを聞かない方が良いよな。


「なあ、一ノ瀬、その……俺と付き合ってくれないか?」

 俺は意を決して、そう持ちかけた。


 これだけ頻繁に家に来てくれるんだ。少しは可能性があるかもしれない。

 そもそも、現時点で付き合っていると言っても過言ではない気がする。


「それは……。ごめんね、高木くん。

 私、どうしても高木くんのことはそういう風に見れない」

 やっぱり、その表情か。見たくなかったな。


 解っていたことだったはずなのに胸が痛い。

 一ノ瀬とは高校時代よりもはるかに良い関係を築けていると思う。

 だけど正直に言って、俺はこれ以上どうすればいいのか分からない。


 何をしたら恋人同士になれるのだろうか。

 出来ることは全部やっているつもりだ。

 好きになってもらいたい……、これはもう絶対に叶わない願いなのかな。

 

「私、もう来ない方が良い……?」

「付き合ってくれなくてもいいよ。それでも俺は一緒に居たい。お前が好きだ」

 そんな顔をしないで欲しい。俺はもう覚悟を決めている。

 

 俺はきっと、仮宿に過ぎないのだろう。

 女子寮に戻らないで済むためだけの存在だ。

 一ノ瀬が他の誰かを好きになったらそれまで、また居なくなる。

 分かっていても、俺は彼女を追い出す気にはならない。


 だって、それまでは一緒に居られるのだ。それなら、その方が良い。

 今居なくなるのと、後で居なくなるのなら、俺は後の方を選ぶ。

 少しでもいい、一緒に居たいんだ。この時間が少しでも長く続いて欲しい。


 きっと……俺には彼女が居なくならない未来は用意されていないのだろう。

 そのことが、ただ悲しかった。でもそれなら今を大切にするだけだ。


「変な事を聞いて、悪かった」

 もう、これ以上、彼女に何かを求めるのは止めよう。


 残された時間で、ただ出来るだけのことをしてあげたい。  

 1回でも多く、彼女を笑わせることだけを考えるんだ。


「ありがとう、高木くん」

 そう言って、一ノ瀬は俺を抱きしめてくれた。


 温もりと同時に、重さを感じる。

 人間の体重ってこんなにも心地良いんだな。


 たとえ、恋人同士になれなくても、この暖かさがあるのなら。

 俺はそれだけで十分に幸せだ――。



 それから、俺たちは普通に過ごした。

 当たり前のように一緒に居て、ご飯を食べる。

 他愛のない話で笑って、下らない事で喧嘩をした。

 夜は普通に同じ布団で寝ている。


 俺には仕事があったし、一ノ瀬も大学が忙しそうだった。

 課題がある時は女子寮に戻ることも多い。


「本当はね、誰でも良かったんだ」


 ある日の夜、一ノ瀬がそう切り出した。


「何のこと?」

 眠る時は背中合わせのことが多い。俺は一ノ瀬の方へ身体を向けて聞いた。


「寂しくて、あのメール送ったの。

 高木くんの家に電話したら真菜(まな)ちゃんが番号とアドレスを教えてくれた。

 でもね、私、高木くんじゃなくても良かったんだ」

 なんだ、そんなことか。俺にとっては些細なことだ。


「あれは嬉しかったな。お前がまだ、俺の事を覚えててくれてさ」

「高木くん、馬鹿なの? 忘れるわけないじゃん」

 一ノ瀬も、そう答えてこっちを見てくれた。


「いや、だって、お前、モテそうだし。俺なんて十把一絡げだろ?」

「高木くんは特別だよ!

 大体、私の高校の思い出なんてほとんど高木くんなんだよ?」

 まあ、……言われてみればそうか。


「私、ずるいよね」

「いいんじゃないか、別に」

 俺はどんなに都合良く扱われたって構わない。


「私、嫌な子だ」

 そんな風に思わないで欲しかった。


「一ノ瀬、抱きしめて良いか?」

「駄目!」

 ……こういう時は、聞かない方がいいんだっけ。


 一ノ瀬はいつも、何も言わずにそうしてくれた。

 だから俺も構わず一ノ瀬を抱き寄せる。


「駄目って言ったのに!」

「俺はお前を愛している。今、この時間を俺にくれてありがとう」

 あのメールが来なければ、きっと俺は今もひとりだった。


「何でお礼言うの?」

「嬉しいから」

 こんな優しい温もりを知らないままで一生を生きたかもしれない。


「馬鹿なの?」

「うん、馬鹿なんだ」

 人から見たら、頭がおかしいのかもしれない。でも何だって良いんだ。


 何も無いより、有った方が良いに決まっている。

 いつか居なくなると分かっても一緒に居たい。

 どんなに愚かだと言われても、俺にとって今はかけがえのない時間だ。


「なあ、昔書いた手紙の内容、覚えているか?」

「全部大事に取ってあるよ」

 それは、涙が出るほど嬉しいな。


「……手紙読んだらね、高木くんに会いたくなった」

「俺は変わってないよ、書いたこと全部。今も同じように想っている」

 少しでもいい。一ノ瀬を元気にしてやりたいと思う。


「ふふ、高木くんはやっぱり変な人だねえ」

 良かった、微笑みが戻ってきた。


「それはもう、否定しない」

 出来るだけ優しい声で答える。


 常識とか、体裁とかそんなのはどうでもいい。

 普通じゃなくて良いんだ。一ノ瀬のことを好きでいられるのなら。

 馬鹿でも変人でも構わない。


 抱きしめていた一ノ瀬の手が俺の背中に回された。


「こうしてると、安心する」

「うん、俺もそうだよ。お前の近くにいるのが一番幸せだ」

 そう言って頭を撫でた。


「えへへ……、何だか眠くなっちゃった」

 やっと笑ってくれたな。俺はその顔が一番好きだ。

「おやすみ、一ノ瀬」

 昔は電話だった。今はこうやって傍に居られる。こんなに嬉しいことはない。


 だから俺も一ノ瀬を抱きしめたまま目を閉じた。

 いつか居なくなる。そう思うと胸が痛くて張り裂けそうだ。

 でも、今はこの胸にこんなにも暖かい温もりがある。

 心底、生きてきてよかったと思った。



 ――ある日の朝。


 目が覚めると一ノ瀬が隣に居る。

 最近では普通のことだ。無防備に寝ている姿がたまらなく愛しい。


 ……だけど毎回、抗えないほどの誘惑がある。やっぱり無理だよな、これ。

 そう思いつつ、今日も頭を撫でて誤魔化した。


 肘を立てて、すぐ近くで寝顔を見る。

 俺はいつまで耐えられるだろう。

 そんなことを考えていると、一ノ瀬が突然、寝返りを打った。

 避けるのに失敗し、見事にぶつかる。

 その時……唇に何かが触れた。

 何処に当たったのかはわからない、だけど……。


「いたーい」

「ああっ、ごめん、起こしちゃったな」

 動揺を抑えつつ、声をかける。


「うー、むううう!」

「や、ヤメロ! 今は駄目だ!」

 例のごとく、全力で抱き着いてくる一ノ瀬。もう、何なんだよ、コイツ。


「止めないとキスするぞ!」

「えー? いいよー、勝手にすればー?」

 寝ぼけている。だが、良いって言ったよな?


 俺は欲望に耐えきれずそのまま一ノ瀬の唇に口をつけた。

 ……こんなことしたことが無いから、どうやっていいのかもわからない。


「あー! 本当にした! もー信じられない」

 怒った様子の一ノ瀬だったが何故か離れない。そして、そのまま寝た。


 もう……、本当に何なんだ、コイツ。


 その日は平日だったので仕方なく会社に行った。

 頭の中がグラグラする。仕事には全く集中出来ない。

 冷静になって考えると、なんだか、凄く悪いことをした気持ちになってきた。

 

 普通なら嬉しいとか思うのかな? 悔しいけど罪悪感だけが募っていく。

 俺は、アイツに受け入れてもらったわけじゃない。

 それなのに、我慢できなかった。


「申し訳ありませんでした」

 俺はその日の夜。寝る前に正座をして、素直に謝った。

 ふたりとも寝間着だ。一ノ瀬もコンタクトを外して眼鏡をかけていた。


「ん? なんのこと?」

 もしかして、覚えてないのか……?


「あ、いや、今朝、さ……」

「あー! そういえば、キスしたでしょ!」

 何だその軽いノリは。


「はい、すいませんでした」

「……別にいいけど、初めてってわけでもないし」

 ああ、やっぱりそうなのか。分かっていたつもりだけど、悲しくなった。


 彼氏が居たんだもんな。そりゃ当たり前にそういうこともしているだろう。

 俺は未だに、自分から触れるのも躊躇する。

 コイツはこのまま、いつかまた誰かを好きになって居なくなってしまうのかな。

 俺とは……何もないままで……。


「ちょっと、そんなにへこまないでよ」

「ごめん、ちょっとショックで……」

 俺は酷い顔をしていたかもしれない。一ノ瀬の声は優しかった。


「……もしかして、高木くん、初めてだったの?」

「悪いかよ」

 流石に少し恥ずかしかった。俺も良い大人だというのに。


「えっ!? 本当に?」

「お前は何回したんだ?」

 一ノ瀬はそんな俺に驚いたようだ。思わず変な事を聞いてしまう。


「そ、そんなの、数えられないよ」

「そっか……」

 とっさに本当の事を言ってしまった一ノ瀬。その返答にさらにへこむ。


「えー! なんか嫌だなあ。私、高木くんの初めての人になっちゃったの?」

 その言葉は、俺の胸の奥の柔らかい場所に突き刺さる。


 言葉にならない絶望感に囚われた。

 一ノ瀬からしてみれば、軽い冗談のようなものなのだろう。

 経験者の余裕みたいなものがありありと感じられた。

 その事実が、俺にとっては胸をえぐられるような痛みになる。


「しょうがないだろ、俺はずっとお前の事が忘れられなくて……」

「止めてよ、そういうの。なんか重たい」

 言われて何も答えられなくなる。お前の言う通りだ。


 こんな気持ちなど迷惑なのだろう。

 愛情だけが余計だ。俺はただ、お前の傍に居るだけの人でいい。

 好きになんかならなければ良かった。その方が、ずっとお前の役に立てる。


「私は高木くんが期待するような綺麗なものじゃないよ。

 多分、高木くんが嫌がることもたくさん経験してる」

 聞きたくなかった。でも、言ってもらえて良かったよ。


 これが現実なのだ。俺はちゃんと受け止めなきゃいけない。


 俺は自分が物語のような綺麗な恋愛をしているというつもりはなかった。

 むしろ……ずっと醜くて酷いものだと思っている。

 この恋はとても他人には言えないような、恥ずかしい物語だろう。


 ストーカー紛いの偏愛だ。それを一ノ瀬がたまたま受け入れてくれただけ。

 そして俺は今も、彼女の同情に甘えている。

 

「いいよ、それでも俺はお前が好きだ。

 それは変わらないから……。でも、もう一緒に寝ない方がいいな」

 この言葉は言いたくなかった。だけどもう駄目だ。


 俺は多分、いや必ず、自分を抑えられなくなる。

 近くに居ればいる程、心を惹かれてしまうから。

 いっそのこと触れられないものとして考えた方が良い。


「なんで……そういうこと言うの?」

 どうして、お前はそんな悲しそうな顔をするんだ。


 俺のことなんて好きじゃないんだろう?

 だったら、適度な距離を保った方が良いはずだ。


「俺……、このままだと我慢できなくなるよ。

 でも、お前にはここに居て欲しい、だからさ。布団を買って来るよ」

 リビングは十分に広い。そこに布団を敷けば良いだけだ。


「やだ。高木くんは私と一緒に居たくないの?」

 なんでそんな寂しそうな顔をするんだよ……。


「一緒に居たいよ! だからそのために……」

「いいから! 高木くんならいいよ」

 一ノ瀬は俺の言葉を遮って、叫ぶように言った。


「お前、何を言って……」


 ――カチッ!


 俺の眼鏡と一ノ瀬の眼鏡が当たって、小さな音を立てた。


 今朝のキスは、とてもキスと呼べるものではなかったことを思い知る。

 お互いの意志があるキスはまるで違うものだった。


 俺は理性を失ったのだと思う。

 彼女の肩を掴んで、ただ夢中になった。


「電気は消してほしいかな」

「分かった」

 言われて俺は常夜灯を残して電気を消す。


 手を繋ぎたい、だから手を繋ぐ。

 抱きしめて、温もりを伝える。

 それでも足りなかった。もっと愛情を伝えたい。

 だからキスをする。何度も何度もそうした。


 それでも足りなくて、今度は力いっぱいに抱きしめる。


「ん……」

「大丈夫か? 痛くない?」

 今まで聞いたことのない色っぽい声に驚いた。


「うん、大丈夫。ぎゅーってして!」

 言われて再び彼女を抱きしめる。


 一ノ瀬は華奢だった。壊さないように力を加減する。

 こんなにピッタリとくっついているのに、それでも足りなくて。

 手を伸ばす。彼女の奥に触れたいと願った。


「ん!」

「ごめん、痛かった?」

 いちいち気を使ってしまう自分が面倒に感じる。


「もう、謝らないでよ。ちょっとビックリしただけ。

 ふふふ、高木くんも男の子なんだねー」

「何を今さら」

 そう言って、ベッドの上に移動する。


 匂いが混ざるように、溶けあうように。ふたりで抱きしめ合った。

 こんな気持ちになったのは初めてだ。

 いつか居なくなる、そう思って彼女を見ていた。

 でも、今は、ただただ愛しいだけだ。

 

 それは本能的な欲望に近い感情だった。

 その気持ちを一ノ瀬は必死で受け止めようとしてくれている。


「何それ、ちゃんと準備してたの?」

「いや、だって……」

 初めて家に来てくれた日に用意したものだ。捨ててしまわなくて良かった。


「うわー引くわー、高木くん、やっぱり私の身体が目当てだったんだね」

「それは、俺にだけは言っちゃいけない台詞だぞ」

 一体、これまでにどれだけ我慢してきたと思っているんだ。


「それに……俺が好きなのは身体だけじゃなくてお前のこと全部だ」

 そう言って、もう一度抱きしめる。


 傍に居たくて、少しでも近くに居たくて。

 何も難しいことじゃなかった。

 この行為は手を繋ぐことと大して変わらない。

 愛情を伝えるために、身体が邪魔に感じた。

 混ざりあうように、ふたりがひとつになる。

 それは思っていたよりもずっと暖かかった。


 ただ、心から、愛している。

 一ノ瀬は、それを受け止めてくれた。

 多分、この世界に、これ以上に幸福なことなどない。

 俺はそれを知ることが出来た――。



「あーあ、こんなつもりじゃなかったのになあ」

「どんなつもりだったんだ?」

 一ノ瀬は俺の腕の中でぼそりとそう言った。


「……わかんない」

「何だそれ」

 でも、俺もこんなことになるとは思っていなかったよ。


「だってー、わかんないんだもん」

「俺も、お前のことは良くわからないよ」

 そして、ふたりで優しく笑い合った。


「私ね、高木くんとだけはしちゃ駄目だと思ってた」

「何でだよ……」

 急に真面目な顔でこっちを見る一ノ瀬。


「傷つけたくないから」

 それは、きっと彼女の一番の気持ちだったのだろう。


「私はね、今の高木くんとは釣り合わないよ」

 何を言っているのか分からない。そんな顔をしないで欲しい。


「まあ、お前の方が圧倒的に価値が高いからな」

「違うよ! 高木くんは私以外の人と付き合った方が幸せになれると思う」

 何でそんなことを言うんだ。


「もっと美人で、優しくて、ちゃんとした人、いっぱい居るよ?」

「お前、馬鹿なのか?」

 思わず、笑ってしまった。


「なんでよー!?」

「ありがとう、一ノ瀬」

 少しむくれた顔も可愛い。だからもう一度、きつく抱きしめた。


「ねえ、高木くん」

「なんだ?」

 そのままの体勢で一ノ瀬は会話を続ける。 


「私の事、好き?」

「この状況でそれを聞く?」

 絶対に答えが分かっている質問だった。


「いいから! 答えてよ」

「好きだよ、世界で一番好きだ」

 力の限り、優しい声を捻りだす。


「えへへー、そうだよねー」

 嬉しそうな顔がたまらない。


「俺さ、生まれてきて良かったよ」

 いつだったか、全く逆のことを思ったっけ。


 俺が居なければ、一ノ瀬は嫌な思いをしなくて済む。

 そんな風に考えた。あの時は生まれてこなければ良かったとさえ思ったな。

 どちらも、ひとりで生きてきたら経験出来なかった事だと思う。


「え? 何、急に?」

「お前に出会えて良かった。こんなに幸せなことってあるんだな。

 多分、俺はお前に会わなかったら、知らないまま人生終わってた」

 おかげで、もう2度とあんな風に自分を否定することは無いだろう。


 たとえ、この先の未来で一ノ瀬が居なくなってしまったとしてもだ。

 一ノ瀬は俺に、幸福を教えてくれた。

 この胸の暖かさがあるのなら、俺はきっと死ぬまでちゃんと生きられる。


「ありがとうな、一ノ瀬。本当に、お前のことが大好きだ」

「もう……、何で泣いちゃうの? 馬鹿だなあ」

 仕方ないだろ、嬉しい事にはあんまり慣れていないんだ。


「んっ……」

 一ノ瀬の唇が触れた。


「これで泣き止んでよ?」

 本当に優しいな、お前は。


 いつだってそうだった。肝心な時に俺の心を癒してくれる。

 胸の奥が暖かい。ずっとこうして居たいと思ってしまった。


「ちょっと!」

「いや、だって我慢出来なくて……」

 そんなことを言われても、俺だって男なのだ。


「しょうがないなあ……。じゃあ、もう一回、する?」

 悪戯そうに笑う一ノ瀬。そんな顔に俺が耐えられるわけがない。


 このあと滅茶苦茶に愛し合った――。



「……高木くんが体力馬鹿なのを忘れていたわ」

 背中を向けてぼそりと呟く。

「大丈夫か、一ノ瀬?」

 流石にやりすぎたかもしれない。


「普通は男の子の方が駄目になると思うよ?」

「ああ、俺の愛は大海より広いからな」

 いつの間にか朝になっていた。俺は寝なくも割と平気なタイプだ。


「うわっ、気持ち悪っ!」

 悪態をつく一ノ瀬の頭を撫でたら、布団から出た。今日は平日だ。

 いつまでもこうしているわけにはいかない。


「じゃあ、会社行ってくる」

「何でそんな普通なの……?」

 俺はシャワーを浴びてスーツに着替えていた。


「いや、普通じゃないよ、こんな幸せな気持ち、初めてだ」

「……初めてって、そっちのこと?」

 お前、割とそういうところ直球だよな。まあどっちも初めてだよ。


「ありがとうな、一ノ瀬」

 そう言って、俺は会社へ向かった。


 眠いけど、前日よりはよっぽど仕事に集中できた。

 ただ、時々ニヤニヤしていたのは内緒である。



 それから、色んな事があったような何もなかったかのような。

 そんな平和な日々が続いた。ひとつ屋根の下で暮らすが男女がどうなるか。

 大抵の人が邪推する通りのふたりだったと思う。

 

 俺は結局、一ノ瀬の彼氏になれたのだろうか?

 それだけは怖くて聞けないままだった。でも、些細な事だ。

 どっちだって良い、一緒に居られるのなら。



 一ノ瀬と再会して、1年が経った頃。俺に転機が訪れる。


「海外出張ですか……?」

「お前も入社して1年経ったからな。そろそろ戦力として役に立ってもらう」

 まあ、それは分かるのだけど……。


「最低でも2ヵ月、現地に行ってもらいたい」

 その言葉は、死刑宣告のように感じた。


 俺なら大丈夫だ。でも、今は一ノ瀬が居る。

 彼女はまだ学生なんだ。2ヵ月はきっと、長すぎる。


「それは勘弁してもらえないでしょうか?」

「はあ? 俺はこれでもお前に期待しているんだぞ!」

 とてもそうは思えない。これは覚悟しなきゃいけないな。


「せっかく良い大学出ているんだから、出世したいだろ?」

 俺が困っている時は、本当に嬉しそうな顔をする。


 出世と現地作業に相関なんかほとんどないはずだ。

 それに、俺は出世なんて興味が無い。

 俺は一生、平社員でいいんだ。管理職なんてまっぴらなんだよ。

 今は少しでも一ノ瀬と一緒に居たい……。そっちの方が大事だ。


「これは決定事項だからな。

 ああ、そうそう、俺達は先行して入るからお前は後からひとりで来い」

 ……どうしてこう次から次へと嫌がることを思いつくのだろう。


「まさか、パスポートも持っていないとはな。大学で何をしてたんだ?

 旅行も行かずに勉強、それもいいけどちゃんと遊ばないと大人になれないぞ」

 俺はその言葉に拳を握るぐらいしか出来なかった。


 俺は海外旅行をしたことはない。そんなに裕福じゃないんだ。

 でも、友達は居たし、国内の旅行なら行った。何も知らないくせに……。


 パスポートの取得自体はそれほど難しくないだろう。

 発行費も会社が全額負担してくれる。問題は移動の方だ。

 もちろん、業務だから会社からの補助はあるけど……。

 多分、詳しいやり方は教えてくれないだろうな。自分で調べるしかない。


 うんざりだ。こんな会社、辞めてやりたいと思った。

 でも……多分、駄目なのはこの上司だな。

 辞めた所で、どこかにこういった人はいる。

 結局、運が悪かったってことか。


「わかりました」

 俺はそう答えるしかなかった。



「2ヵ月!?」

「ああ……ごめん、ちょっと逃げられそうにない」

 思っていた通り、一ノ瀬の反応は良くなかった。


「そっか、でも仕事なら仕方ないよね」

 それでも、理解はしてくれるようだ。


「基本的に上司が悪い。アイツ、どうしても許せないんだ」

「……高木くんはさ、間違いを見つけて正すことが出来る人かもしれない。

 でも、もっと人の良いところも見た方がいいと思うよ?」

 一ノ瀬は諭すようにそう言ってくれた。


 あの男に良いところがあるなんて思えない。

 それでも、既婚者なんだよな。どこかにそういうところがあるのかもしれない。

 俺は昔から頑ななところがある。せっかく、すぐ近くに一ノ瀬いるのだ。

 彼女のアドバイスには素直に従いたいと思った。


「……お前の言う通りかもな。ごめん、愚痴って格好悪かった。

 あっちに着いたら電話するよ、昔みたいにいっぱい話そう」

 怒りの感情は飲み込んで、優しさだけを残す。彼女が居れば難しくない。


「うん、そうだね!」

 俺が笑顔を見せれば、一ノ瀬は笑ってくれる。嬉しいな。


「その……お前は俺のこと……」

 少しは好きか? そう、聞きたかった。


「ん? 何?」

「……何でもない」

 でも、やっぱり怖くて聞けない。それを否定されたら俺は……。


 ――ドンドン!


「うわっ! なにー?」

 まるで隣の部屋の人が壁を叩いているような音だった。

 ……しかし、俺の部屋は角部屋だし、隣は階段という間取りだ。

 騒音問題はないはず。


 俺は玄関から外に出て様子を見た。

 するとすぐに、合点がいく。


 ――ドンドン! ドドン!


「花火だよ、一ノ瀬」

「えっ? こんな音するぐらい近くなの?」

 原因が分かってほっとする。


 最寄り駅の公園から見える遊園地は夏になると週末に花火を上げるのだ。

 2500発とそれほど多くはないが、十分に綺麗だ。

 公園まで行けば普通の花火大会と遜色がない。


 俺と一ノ瀬は玄関に座って、花火を見ることにした。

 冷蔵庫から卵焼きとお浸し、麦酒、レモンサワーを出して晩酌する。


「私、あの音がちょっと苦手なんだよね」

「俺はむしろ好きだけどな」

 胸の奥に響く破裂音は心地よいと思う。夏の風物詩だ。


「合わないねー、私たち」

「まあ、そういうなよ。綺麗だろ?」

 昔から喧嘩ばかりしていた気がする。価値観が合わない。


 それでも、俺たちは寄り添って歩いてきた。

 今では滅多に喧嘩はしない。仲直りするのも早くなった。

 たとえ、情熱的な恋じゃなくても、愛情を育むことは出来ると思う。


「うん、それはそうかな!」

 そう言って笑う一ノ瀬が可愛くてしかたない。


「ん……!」

 たまらずに、キスをする。


「うええ……苦い。麦酒の味がする」

 そう言って舌を出す仕草もたまらない。

 

「なんか、最近、普通にキスするようになったよね?」

「だって、俺、お前が好き過ぎて我慢出来ないんだ」

 ジト目がちょっと怖い。


「まあ、見てる人いないからいいけど」

 そう言って、微笑む姿を見てほっとする。 


「んー、重いよ!」

 手加減しつつ、背中から抱きしめた。


「大好きだよ、一ノ瀬」

「もう! しょうがないなあ」

 俺もそう思う、最近はお前に甘えすぎている。


「……そういえば高木くんって結婚したくないの?」

 何だろう、珍しい。こんなことは滅多に話さない。 


「したいけど……、お前はしたくないんだろ?」

「うん……、出来れば子供も作りたくない」

 医者になることを最優先すると言っていたのを思い出した。


「高木くんは子供欲しそうだよね?」

「少なくとも3人は欲しい」

 両親がそうだったから、俺もそうなりたいと思っていたんだ。


「うわっ、相変わらず引くわー」

「でも、俺が好きになった人はお前だから。一ノ瀬のしたいようにしなよ」

 夢を求める一ノ瀬を最優先にしたいんだ。俺の人生は彼女の為にあっていい。


「……だから、いつもアレするんだ」

「お前、まだ学生だろ? もし何かあったら人生変わっちゃうんだぞ。

 俺は責任取れるけど、お前が困るのは嫌なんだ」

 本音は少し違う。既成事実、そんなものに頼りたい気持ちもあった。


 そうすれば、一緒にならざるを得ない。

 俺は彼女を縛る鎖を手に入れることが出来る。

 そんな下衆なことを考えてしまう時だってあった。

 俺は聖人君子ではないんだ。何をしたって、一ノ瀬を手に入れたい。

 けど……彼女が望まない事をする気には、なれなかった。


「ねえ……、できたって言ったらどうする?」

「大喜びする。そして全力で支えるよ。でも、どんな道もお前が決めて良い」

 俺はむしろ、そうなって欲しい。でも、一ノ瀬はそうじゃないだろう。


「……つまんない反応」

「そんな問題じゃないだろ。とにかくさ。お前にはまず、夢を叶えて欲しい。

 俺に出来ることがあったら言ってくれ。なんだってするよ」

 出来る事なんてそんなに多くはないだろうけどな……。


「わかった、頑張る……」

 それでも、一ノ瀬の顔はほころんでいた。いい表情だ。


「ねえ、高木くん、約束してくれない?」

「んー?」

 一ノ瀬は急に真っすぐにこっちをみて言った。


「もしさ、40歳を過ぎても独身だったら、結婚してね」

「いいよ。いくつになってもいい。ずっと待ってる」

 これは何て言うか、一応、そういう対象としては見てくれるということか?


「それは重たいなー」

 そう言った一ノ瀬を強く抱きしめる。


「ん……、もう、ずるいよ!」

「愛しているよ、一ノ瀬」

 この言葉を言う権利、俺には無いのかもしれない。所詮片想いだ。


 ――ドンドン! ドドドン!


「綺麗だね……」

「うん、来週は一緒に近くで見ようよ。唐揚げ買っていこう」

 やはり麦酒には唐揚げである。


「それもいいねー!」

 嬉しそうな彼女の顔を見て、つい余計な事を考えてしまった。


「一ノ瀬、俺の事、少しは好きか?」

「……知らないよ!」

 その言葉に凍り付く。

 もしかしたら、ここに居るために無理をしていたのか?


「ごめん、そんな顔しないで! もう、……察してよ!」

 何を察すれば良いのか分からなかった。でも……、気にすることはないか。


 目の前の一ノ瀬は、今も楽しそうに笑っているのだから。

 俺と一緒に居ることで無理をしているなんて、とても思えない。


「なあ、一ノ瀬」

「ん? なーに?」

 ほら、やっぱりだ。声をかけると嬉しそうな顔を返してくれる。


「来年もさ、またこうやって一緒に見れると良いな」

「うん……、そうだね!」

 腕の中の彼女は当たり前のようにそう答えてくれた。


 出来ることならその次の年も、ずっとずっと。

 こうやって一緒に居られらたらいいのに。

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― 新着の感想 ―
[一言] この後に並走しない過去の4話読んだらやっぱりダメだー……… 1周目の一ノ瀬はホントに悪女だと思う……
[一言] んあーこっちの一ノ瀬だと2回目で積み上げてきた好感度がだるま落としの如く下がってく。
[一言] この会社と上司から逃れられなかったのが悔やまれます。会社なんて星の数ほどあるからさっさと転職すれば良かったのに。。。
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