第8話:2週目でしか出現しない選択肢
黒歴史辿りは辛かった。変わることが出来た自分を否定して塗りつぶす。
昔の嫌な自分を踏襲するのは流石に苦痛だ。
それに、これを続けたからと言って一ノ瀬に逢える確証もない。
すべての努力が水泡に帰す可能性もあるだろう。
強く叶って欲しいと願うほど、叶わないことが多い。
人生というのはそういうものだ。
俺は果たして、そこまでして彼女に会いたいのだろうか。
答えはわかっている。報われることはなく、救われることはない。
それでも俺は、この道を行くと決めたのだ。
その時点で、今更自問自答するようなことじゃない……。
ここまでは何とか恥辱に耐えてやってきた。
幸いにして、犯罪行為をしていなかったのが救いである。
例えば女子のリコーダーに手を出していたら、そんな過去は流石に辿れない。
いくら若気の至りと言っても、許される行為ではないだろう。
だが俺は……忘れていた。いや、思い出さないようにしていたのかもしれない。
黒歴史の中でも最悪だった記憶……。
俺にはもう一度辿ることを本気で躊躇するような過去があった。
「おい、ばい菌!」
突然の大声に思わずその方向を見る。
その瞬間にフラッシュバックするかのように記憶が蘇った。
教室内に緊迫した空気が張り詰めている。
視線の先にいたのは谷地 茜さんだ。
クラスで最も地味で、滅多にしゃべらない女の子。
そんな彼女が今、クラス中の視線を釘付けにしている。
黒板の板書を消していた彼女に声を荒げたのは久保 洋一。
俺と同じくクラスから少し浮いた存在の男子だ。
浮いている理由は空気の読めない俺とは違い、素行不良である。
はっきり言って、俺とは別次元に存在するような人間だ。
「お前が歩くとフケが落ちるんだよ」
久保は高圧的な態度で彼女に迫る。
谷地さんは普通の女の子だ、別に不潔なわけじゃない。
フケ症なのはおそらく体質なのだろう。
「ごめんなさい……」
谷地さんの声はかすれるような小さい声だった。
「あ!? 今何か言った?」
そんな彼女に久保は威圧的な大声で返す。
「お前さ、気持ち悪んだけど。学校に来ないでくれない?」
言葉を返せないで口ごもる谷地さんに久保はさらに続ける。
「なあ、みんなも嫌だよな!?」
嫌味な声が狭い教室に空々しく響いた。
――どうしよう?
中学生時代の俺は全てを華麗にスルーした挙句、自分は悪くないと結論した。
それは決して間違ってなどいない。
自分に利が無い人を救おうとするのは無駄な行為だ。
大人になればなるほど、自分を守ることは何よりも正しい。
誰かを救おうと思うなら身代わりになるぐらいの覚悟をすべきだ。
それが出来ないなら最初から手を出さない方が良い。
自己犠牲の精神なんか持っていたら損ばかりする人生になる。
適度に何かを見捨てながら生きることは悪じゃない。
当時の俺には、そもそも助けるという選択肢が無かった。
あの中に飛び込んで彼女を救うなどと出来るわけがない。
では……、今の俺はどうだろう。
おそらく彼女を本質的に救うことは出来ない。俺はそこまで傲慢じゃない。
だけど、余計なお世話ぐらいなら出来そうだ。
でもそれをしたら、俺は一ノ瀬と会えなくなってしまうかもしれない。
はあ……。
思わず、ため息をついた。少しばかり考えてみたけど、同じことだ。
ここで彼女を見捨ててしまったら、一ノ瀬とは胸を張って会えない。
もう一度逢えたとしても、その眼を真っすぐに見ることが出来なくなる。
それは実質、会えないのと同じだ。
意を決して一歩を踏み出した。
「止めろよ」
いつもより低い声色を絞り出して、ツカツカと黒板へ歩きだす。
「あ? なんだ、高木か。恰好つけてんのか?」
久保は向き直って、今度はこっちに向かって声を放つ。
俺はその声を無視して谷地さんと久保の間に割って入った。
そして言い放つ。
「女の子だ!」
毅然とした態度で久保の眼を見て言った。
普段は温厚な俺だけど、頭に来ることもある。
「ん? 何が言いたいんだ?」
一瞬怪訝な顔をした後、ニヤニヤしながら久保は聞き返した。
嫌な顔しているなあ……。
「ばい菌じゃない、女の子だ。これ以上暴力をふるうな」
俺は少しも揺るがずに、久保の眼を真っすぐに見て言った。
久保の表情はみるみる不機嫌になっていく。
中身がオッサンな俺でも、ちょっと怖かった。
「俺は何にもしてねえぞ、何いってんだ?」
久保が物凄い近くで威嚇しながら俺に言った。それでも怯む気はない。
「言葉も暴力なんだよ。彼女、泣いているだろ。もう止めてやれ」
内心では凄く怖かった。中学生にビビるアラフォー男子、ここにありだ。
しばらく睨み合い、沈黙が続く。嫌な時間だ。早く終わって欲しい。
だけど、この状況を変えてくれる人は現れないと知っている。
「誰か、谷地さんを保健室へ連れて行ってあげて」
だから俺は自ら声を上げた。
クラスメイトの方に向くと全員が俺から目を反らす。
お前ら……。まあ、解るけどさ。俺もそうだったし。
ここで目立つと後でどうなるか考えちゃうよね。
「百瀬さん!」
誰も動きそうにないので、俺はひとりの名前を呼んだ。
仕事で使う救命救急の訓練で知っている。
人は名指しされないと自発的に動けないものだ。
だから、役割を明確にして与える。
「えっ!?」
戸惑いながらも百瀬さんは谷地さんのもとへ来てくれた。
おお、さすが俺の初恋の人。
――バキッ!
状況を見守ろうと思っていたら、久保に顔面を殴られた。
鼻の奥がズキズキと痛い……。熱を持っているように感じた。
「暴力ってのはな、こういう事を言うんだよ!」
油断していた……というわけじゃない。そもそも、こんな荒事は苦手なのだ。
「よろしくね、百瀬さん。大丈夫だからね、谷地さん」
久保を無視してふたりに声をかけて教室の外に出す。
鼻の奥から何か流れてくる感覚……。
気がつくと教室の床に血が落ちていた。
躊躇なく他人の顔面殴る中学生、怖い。
黒歴史な過去を辿るも嫌だけど、こんな修羅場も嫌なものだ。
「おい、無視すんなよ。こっちむけ」
背中に手がかかった。これ、振り向いたら殴られるよな?
どうしたら話し合いでケリがつくのだろうか。
なお、俺は喧嘩したら大人時代でも普通に中学生に負ける自信がある。
そもそも人を殴るとか考えられないし。怪我をさせたらどうするんだ。
「ちょっと待って」
振り返りながらそう言った。
――バキッ!
また嫌な音がする。痛い……。
何でこんな事出来るんだよ。
「お前、俺を馬鹿にしてんのか?」
「馬鹿になんかしてないよ」
そういう気はさらさらない。俺は声を荒げることもなく、冷静に答えた。
「お前、いい加減にしろよ!?」
そういってまた殴られた。
やられっぱなしだ。あー、くそ格好悪い。
けれど、ここで殴り返すのもやはり恰好悪いと俺は思う。
「もしかしてお前、ばい菌のこと好きのなのか?
へへへ、お似合いじゃないか! 俺が応援してやろうか?」
久保は俺のことを存分に見下している。
そんな事は解っていた。谷地さんにこういう瞬間を見せたくなかったのだ。
だからさっさと保健室に退場してもらった。微妙に間に合ってないけどな。
「ばい菌じゃない、女の子だ」
俺はそれでも譲らない。
こういうのもある意味、性差別かな。女の子だから、なんて理由にならない。
男だっていじめられたら辛い。
暴力は誰が相手だろうと絶対にふるってはいけない。
でも「ばい菌」というこの言葉が許せない、頭にくる。
だって、谷地さんは何の罪もない普通の女の子なのだから。
「ああ? お前、まだそんなこと言ってんのか?」
久保はさらに苛立ちを強めたようだ。
ヤバイな、これどうやって切り抜けたらいいんだ……。
でも言うべきことは言っておかないと。
「谷地さんは何にも悪いことをしていない。だから、2度といじめるな」
少し声が震えてしまった。中学生が相手とはいえ、殴られるのは怖い。
「正義の味方気どりか? お前、そんなに女子にモテたいのかよ?」
「こんなことしても別にモテないと思うけど?」
我ながら、余計ことを言ったと思う。久保がさらに嫌な顔をした。
クラスの奴ら、いい加減に俺を助けてくれ。
……せめて先生を呼びに行ってくれないかなあ。
「いい度胸だな、お前……」
久保がそう言って再び拳を振り上げる。
――キーンコーンカーンコーン……。
チャイムの音ってこんな時、ものすごく間が悪いよな。
ただ、これで助かった。もうすぐ先生がやって来る。
「お前、明日から覚悟しとけよ!」
そんな不穏な言葉を残して、久保は席に戻った。
チャイムで席に戻るとか意外と真面目なんだな。
結局、学校という狭い世界の中でしか生きていないからこうなるんだよね。
その後、滞りなく授業は始まった。
鼻血を拭ったままの俺や、床に落ちた鮮やかな血痕は完全スルーだ。
おい……、おかしくないか。面倒事はごめんということか。
結局のところ、教師も人間だ。
俺は自分が損をしないために他人を貶めることも悪じゃないと思う。
大人の世界では「騙される方が悪い」そんな屁理屈さえも道理であると言える。
警戒心を持たないことは罪だ。それはその通りだと思う。
でもだからって……。
「騙される方が悪いから、騙されないようにしろ」と子供に道理を教えるのか?
それは違うだろ。騙された方が悪いわけあるか、騙す方が悪いに決まっている。
良識のある人は「いじめを受ける側にも何かしらの問題がある」などと言う。
喧嘩両成敗、見方を変えれば加害者もまた被害者。そんなわけあるか。
いじめる側に問題があるに決まっている。
この世界にいじめても良い人間なんて存在していない。
その日は結局、何事もなく終わった。
久保の待ち伏せとかそういうこともなく、普通に家に帰れたのだ。
結果は悪くないのだけど……。
過去を大きく改変してしまった感じは否めない。
一ノ瀬に会えないことも覚悟すべきだろう。
なら、いっそのこと腹をくくろう。
この問題の解決までの道筋は見えている。
大人を怒らせるとどうなるか、教えてあげようじゃないか。




