第82話:桜はまだ散っていない
久志君主催のお花見が終わった後。
俺達は正式に生徒会室から離れることになった。
あそこはもう、新しい世代の居場所だ。
俺と一ノ瀬は完全に一緒にいる理由が無くなった。
だから、会う頻度は下がっている。
けれど……過去の世界と違うのは連絡を取り合っているということだ。
週に1、2回程度は進路指導室で一緒に勉強をしている。
ただ……、それは勉強をしているというよりは雑談をしているに等しい。
俺は、やはり彼女の足枷になっていると言えるだろう。
でも今は、それも構わないと思っている。
「桜が散っちゃったから、もう今までみたいに皆で遊べないよね」
「ああ、そうだな……」
ゴールデンウィークの直前、一ノ瀬は寂しそうに言った。
受験勉強の辛さは嫌というほど知っている。
そして、一ノ瀬が目指す大学はハッキリ言って、超難関だ。
その現実を、彼女はこれからじわじわと時間をかけて実感するだろう。
生徒会執行部での経験は、社会に出てからも確実に役に立つ。
ただ、それは受験勉強には無縁だ。
だから彼女はここまで生徒会執行部に傾倒した負債を返さなきゃいけない。
多くの生徒のために自分の時間を犠牲にした結果がこれだ。
正直者が馬鹿をみるというか、少し皮肉にも思える。
けれど、彼女には「それをしない」という選択肢は与えられていた。
厳しい言い方をすると、彼女は自分で決めたことに責任を取らなきゃいけない。
……でも、俺はそんな考え方は嫌だ。
彼女には無条件で笑って居て欲しい。だから俺は無責任に彼女の味方をする。
少しでも不安を拭い去ってやりたかった。
その方法が現実逃避だって良いと思う。
「桜はまだ見れるよ」
「えっ!? 何言ってるの?」
驚いた表情も可愛いな。今も一緒に居られることが本当に嬉しい。
「一ノ瀬が嫌じゃなかったら1日くれない? 桜を見に行こうよ」
「えー!? それ、咲いてなかったら罰ゲームだよ?」
相変わらず意地の悪い顔だ。それにしても好きだな、罰ゲーム。
「ああ、構わない、絶対に咲いてるから」
「5月に桜って……、まあいいや、それなら見せてよ!」
妙に強気な一ノ瀬だった。勝ち誇る顔も可愛いぞ。
俺も学生の頃は知らなかったよ。その気になれば桜なんて1か月以上見れる。
咲いている場所まで行けば良いだけだ。
「おう、安心してくれ」
俺は笑顔で答える。
きっと、高校生活の中でまともな思い出を作れるのはこれが最後だろう。
こうして俺は一ノ瀬と再び旅行に行くことになった。
――旅行当日。
いつも通り一ノ瀬の最寄り駅で待ち合わせをした。
「高木くーん!」
走ってくる一ノ瀬がたまらない。
今日は白のシャツに水色のスカートか。相変わらず白色が良く似合う。
「今日行く場所は少し寒いけど大丈夫か?」
「うん、ジャケットとストールも持ってきたよ」
なるほど、ちゃんと鞄に入れてあるようで安心した。
黙って左手を出すと一ノ瀬は当たり前のように鞄を預けてくれた。
「ごめん、今日もほとんど電車だ」
「いいよー、別に話してればすぐでしょ」
出来れば泊りがけで行きたいところだが、そうもいかないのが悲しい。
ただ、今日は天気も良いし、目当ての物も見れるだろう。
「高木くん、予備校とか決めた?」
受験勉強の話はあまりしない一ノ瀬も、多少は考えているようだ。
新学期はずっと説明会だの模試だので奔走していたのは知っている。
先生とも色々と話をしていたようだ。
俺は全く力になってやれなかった。過去の経験は役に立たない。
おそらく、俺と一ノ瀬では勉強方法が違うのだ。
彼女に俺の勉強方法は合っていない。彼女なりのやり方があるはずだ。
「俺はまだだなー。引退試合が残っているから、通うのはその後だと思う」
「私はこの休みが終わってから本格的に始めるんだ……。
お母さんと相談して、医学部コースに通うことになったよ」
不安そうな表情の一ノ瀬にしてやれることは話を聞くぐらいしかない。
確かに、コースなら時間割とかプロが組んでいるから適当だろうな。
全てを自分の裁量でやるなんて普通はやらない。
これは後になってから知ったことだ。
「そうなると、あんまり会えなくなっちゃうな」
「だよねえ……」
そんな寂しそう顔をするなよ。何だか戸惑ってしまう。
それじゃまるで、お前が俺と一緒に居たいみたいじゃないか。
「俺もお前と同じところに通いたいけど……」
「あー、いいよ、無理しないで」
一ノ瀬は俺の事情を知っている。
俺の家は裕福ではない。とても一ノ瀬と同じコースは無理だ。
予備校に通うお金どころか、大学の入学費だって厳しい。
俺ひとりなら何とかなるだろうが、妹も居る。
年子だから2年続けての高額出費は本当に厳しいはずだ。
……こんなこと、本当は考えなくて良いはずなんだけどな。
両親は頼めば喜んでなんだってしてくれることは知っている。
だけど、どうしても親に迷惑をかけたくないと思ってしまうのだ。
それでもなんとか同じ予備校に通うことはぐらいは出来るかもしれない。
けど、授業は別々になる。ほとんど会えないことには変わりがない。
「予備校が無い日だけでいいからさ、進路指導室で勉強しないか?」
「うん、そうしよ。それしかないよね……」
あっさりと了承してもらえた。ちょっと驚きである。
過去の俺は、会うための理由を探すのに必死だった。
今は「ただ会いたい」で許してもらえる。
そのことが本当に嬉しかった――。
その後、いつも通り下らない話をしながら電車に揺られること2時間。
現代では「富士山駅」と名前を変えた「富士吉田駅」に到着した。
「あー! 富士山見えてる、でっか!」
富士五湖周辺から見える富士山は写真で見るより遥かに迫力がある。
この時期はまだ冠雪も美しい。
「よし、あとはバスに乗ってちょっとだ」
「本当に桜咲いてるの?」
意地悪そうな顔をする一ノ瀬。いいな、こんな時間が何よりも欲しかった。
たとえ、恋人同士になれなくても良い。
一緒に居られる時間があれば、俺はそれだけで……十分だ。
「まあ、期待していてくれ」
バスに乗って向かった先は忍野八海だ。富士五湖周辺は基本的に標高が高い。
一番低い河口湖周辺でも800m、山中湖周辺では1000m近くになる。
標高が高い分、気温は下がり、桜の開花は遅くなるのだ。
一般に、標高が100m上がると、気温は0.6度ほど低くなる。
つまり山中湖は常に都内よりも6度程度低いということだ。
「うわー! 本当に咲いてる!」
「言っただろ」
バスの車窓から飛び込んで来た桜の木はまさに満開だった。
「くそー、罰ゲームしたかったのに!」
「いや、それおかしいからな」
何故か悔しがる一ノ瀬。本当に狂暴なヤツである。
バス停を降りたら、忍野八海の看板には従わず新名庄川のお宮橋を目指す。
ここは個人的にお気に入りのスポットだ。
新名庄川にかかる小さな橋の上から、川沿いに植えられた桜並木が美しい。
桜の木の根元には水仙の花も咲いていた。
でもやはり、圧巻なのは桜並木の向こう側に見える富士山だろう。
新緑と桃色に彩られた川辺の中で、白色が圧倒的な存在感を放っている。
空は青く澄んで、川面にもその色を写していた。
「凄ーい、富士山と桜だ!」
景色にはあまり興味のない一ノ瀬だが、これには満足してくれたようだ。
「喜んでくれてよかったよ。……寒くないか?」
「ん、たしかに。ジャケット着るね」
言われて俺は左手の鞄を一ノ瀬に差し出した。
ほどよく日光が差し込んでいるから暖かく感じるが気温そのものは低い。
一ノ瀬の恰好だと少し肌寒いだろう。
「折角だから少し歩こう」
「うん!」
嬉しそうな顔を見ると、どうしても笑ってしまう。
ふたりで新名庄川の遊歩道をゆっくりと歩いた。
満開の桜並木、風が吹くと花びらが空を舞う。
そして散った花びらはゆっくりと川を流れていく。
思わず涙が出そうになった。
「今日はありがとな、俺、こんな風に歩くのが夢だったんだ」
「何、急に?」
一人旅をしながら、いつも思っていた。
隣に一ノ瀬が居たら、どんなに楽しいだろう、って。
「一緒に居てくれて凄く嬉しいよ」
「……もう、またそんなこと言ってる」
いつだって、何度だって言いたい。嬉しい時は嬉しい、と。
「じゃあさ、こうしたらどうなるの?」
そう言って一ノ瀬は俺の右手を握りこむ。
「お前、手を繋ぐの苦手じゃなかったっけ?」
「そうだけど……、高木くんは好きなんでしょ?」
なぜか勝ち誇った顔の一ノ瀬。
「ありがとう、嬉しすぎてちょっと泣きそうだ」
「えへへー、梨香に感謝してよね!」
こんなの夢にも思わなかった。相変わらず、完敗である。
遊歩道を歩いて行くと忍野八海の中心地である涌池に到着した。
信じられないぐらいの透明度を誇る池は深く青く澄んでいる。
「わー、凄い、綺麗ー!」
「ごめん、思ったより観光客多かったな」
周囲は人混みと呼べるレベルの混雑だった。
やはりゴールデンウィークの力は凄い。誤算である。
まだ世界遺産になっていないから、もう少しマシだと思っていた。
「んーん、これぐらいなら大丈夫だよ」
「そっか、そう言ってくれると助かる」
そこから少しだけ歩いて中池から富士山を望む。
「ここからも富士山見えるんだねー」
「池と富士山も悪くないだろ?」
水車小屋の上に佇む姿が神々しい。
ひとしきり満喫したら再びバスで富士吉田へ戻ることにした。
「お昼、うどんで良い?」
「いーけど、私は讃岐うどん派だよ! コシのないうどんは認めないからね!」
身もふたもないが、それは知っている。やり直しのアドバンテージは大きい。
「安心しろ、コシに関してはおそらく無敵だ」
というわけで吉田のうどんを頂く。
山梨県と言えば、ほうとうが有名だけど俺は個人的にこっちの方が好きだ。
「……これ、コシというか、もはや硬いよね? お餅みたい」
「あれ、駄目だった?」
ひとすすりして一ノ瀬の箸が止まった。しまった、読み違えたか?
「いや、むしろ凄く美味しい……」
そう言って、夢中になって食べている。よく噛むのは良い事だ。
やはり、一ノ瀬が何かを食べている姿は好きだな。
特に美味しそうに食べているとたまらない。
なんて言うか、可愛いすぎる。ああ、もう完全に駄目だな、俺は。
「この後はどうするの?」
「せっかくだからロープウェイ乗りたいんだ。ちょっと歩くけどいい?」
河口湖駅から少し歩いたところにある天上山公園はとても景色が良い。
「うん、ご飯食べた後だし、ちょうど良いよ」
その言葉で再び電車に乗って河口湖駅へ移動する。
「あー! 富士急ハイランドだ! ここにあったの?」
「知らなかったのか?」
席から乗り出すように駅を見る一ノ瀬。遊園地好きだもんな。
「電車で来れるんだね」
「確かに、バスとか車の方が多いかな」
都内から移動するなら電車よりもバスの方が楽だろう。
「私、FUJIYAMA乗りたい!」
「本当に絶叫系好きだなー。じゃあ今度一緒に行くか?」
目がキラキラしている。この表情も可愛いなあ。
「うん! 絶対だよ!?」
「ああ、絶対行こう」
そんな念を押さなくても、大丈夫。なにせ俺も一緒に行きたいんだ。
河口湖駅を降りたら少し歩いてロープウェイ乗り場へ向かう。
やっぱりここも観光客は多かった。
良い場所はどうしても人が集まるから仕方ない。
「なんか、箱根を思い出すね!」
「そういえば、あの時もロープウェイだったな」
あの頃はこんなに良い関係になれると思っていなかった。
「そうそう、富士山も見えるし!」
「ごめんなー、俺、富士山好きなんだ」
またしても俺の趣味につき合わせてしまったかな。ちょっと罪悪感がある。
「ふふ、別に謝ることじゃないでしょ。私も結構好きだよ」
「それなら良かった」
気を使っている様子はない、少し安心した。
ロープウェイからは圧倒的な高度感で河口湖と市街地が一望できる。
青く輝く湖に、新緑の外輪山が美しい。
中央に掛かる河口湖大橋が存在感を放っていた。
「おー! ここもすごい景色!」
「そう言ってもらえて嬉しいよ」
楽しそうな表情が本当に嬉しい。つい、景色よりも一ノ瀬を見てしまう。
「よくこんな場所知ってるね」
「両親が旅行好きで、色んな場所に連れて行ってもらったんだ」
嘘である。俺がここに来たのは社会人になったあとの一人旅だ。
我が家はそれほど裕福ではない。なのに妹も弟もいる。
だから旅行に行く機会はそれほど多くない。
それでも親父は何度か会社の保養所に俺達を連れて行ってくれた。
そのことはずっと感謝している。
「へー、いいなあ……」
今は日帰りだからどうしても近郊になってしまうのが残念だ。
本当なら日本中どこでも連れていきたい。
ロープウェイを降りると天上山公園という展望台に到着する。
ここから見る富士山は絶景の一言だ。
咲き誇る桜の花も素晴らしい彩を与えていた。
「すごーい! 富士山が凄く大きいのが分かる……」
展望台に腰を下ろして、一息ついた。
「なあ、一ノ瀬、ちょっと嫌な事を言ってもいいか?」
「えー、やだ!」
即答だった。
「出来れば聞いて欲しいんだけど……」
「やだよ、嫌な事なんか聞きたくない」
それはごもっともだ。だけど、どうしても話しておきたかった。
「医学部止めてさ、俺と一緒に普通の大学行かないか?」
俺は、多分……言ってはいけないことを言ったのだと思う。
俺が医学部に行く、それが出来れば良かったのだけど……。
学費がとても足りないんだ。俺の我儘で家族全員に迷惑をかけられない。
それに志も無かった。そんなヤツが目指しても結果なんてついてこない。
一ノ瀬のために出来ないことはないと言いたいけど、無理なものは無理だ。
そのことは、もう一ノ瀬に教えてもらっている。
「それは……」
一ノ瀬は言葉に詰まった。
「いいじゃないか、無理しなくても。人の命に関われるのは医者だけじゃない。
他の可能性だってある、大学に行きながらやりたいことを探したっていいんだ」
「……そうだねえ。高木くん、前に久志君にもそう言ってたっけ」
俺は夢を追いかけている一ノ瀬のことが好きだ。
もちろん、力になれるのならなんだってしてやりたいと思う。
その俺が、こんな提案をするのは裏切りみたいな行為かもしれない。
でも……、一ノ瀬の夢が彼女自身を苦しめていることを俺は知っている。
大人になればわかる、どんな生き方をしたっていい。
苦しい道に進むだけが正しいことじゃないと思う。
「いいなー、そしたら大学でも一緒に居られるね」
まるで、夢物語を語るような表情の一ノ瀬。
それを見て、俺はこれ以上の会話は無意味だと悟る。
「でも……出来ないよ」
「そっか」
寂しそうな一ノ瀬の表情に、俺はただ優しく頷いた。
過去の世界で一ノ瀬は3回に1回は平凡な道を選んでも良いと言っていた。
でもきっと、お前は3回あったら3回とも、今の道を選ぶだろう。
お前は結局、そういう人間だ。やっぱり恰好良いよ。
平凡な道の良さを知りながら、そこに身を置かない。
「じゃあ、応援する。変な事を言って、悪かったな」
俺に言えるのはこれだけだ。結局、何もしてやれない。
同じ大学に通う、もしも、そんな未来があったら。
俺は本当に一ノ瀬と一緒に居られる気がしたんだ。
当たり前のようにずっと一緒にいて、そのうちに付き合って……。
馬鹿だな、俺は。
一ノ瀬が俺の彼女になってくれることなんて絶対にないはずなのに――。
それから、何事もなかったかのように俺たちは帰路に着いた。
帰りの電車では案の定、爆睡する一ノ瀬。
でも、今日はただ寄りかかるだけではなく腕を掴んで抱きしめてくれた。
これでは傍目から見たら恋人同士にしか見えないだろう。
……これでいいのかもしれない。
あの頃と一緒だ。一ノ瀬が同意しなくても俺たちは恋人同士。
勝手にそう思っていれば良い。
でも、俺はやっぱり好きになって欲しいと思ってしまう。
だって温もりも、優しい匂いも、全部、大好きなんだ。
独り占めしたい。誰にも渡したくない。ずっと、近くに居て欲しいと思う。
電車に揺られている間、俺はずっとそんなことを考えていた。
すぐ隣に居る温もりに幸せを感じながら贅沢にもこれ以上を望む。
でもきっと、これは自然なことだ。
一ノ瀬には悪いけど、もう一度だけ、ちゃんと話してみたいと思った。
「はい、じゃあコレ」
「えっ!? 手紙書いてくれてたの?」
一ノ瀬の最寄り駅に着いたところで俺はそれを手渡した。
これは、過去の世界で最後に渡した手紙だ。
今の一ノ瀬にとって、少し内容が噛み合わないかもしれない。
けれど……、一ノ瀬の予備校が始まったら、きっと会えなくなる。
俺たちは今までのようには居られない。
もちろん、出来る限り抗うけれど、別れは避けられないと思っている。
だから、再会の未来に託すんだ。そのために指輪も贈った。
「もっと早く渡してよ!」
「ごめん、その手紙は家に帰ってから読んで欲しいんだ」
だから道中では渡さなかった。
「えー、ここで読んでもいいでしょ? そんなに時間かからないよ」
少し不満そうだ。何故お前はいつも目の前で読みたがるのか……。
「いいから、頼むよ」
「もう、しょうがないな、分かったよ」
大抵の事はちゃんと頼むと聞いてくれる。我儘なだけではない。
いつだって、一ノ瀬は優しかった。
……納得がいかない、という表情をしているのはちょっと気になるけどな。
「ありがとうな、一ノ瀬」
そう言って頭を撫でた。
「じゃあ、またね……」
「うん、またな」
俺たちは、別れ際にさよならと言わない。
また明日も会えるように、そう願いを込めて「またね」というんだ。
一ノ瀬と別れた後はいつも通りの日常へ戻っていく。
家に帰って、風呂に入り、ご飯を食べて歯を磨いた。
後はもう、寝るだけだ。
その前に、一ノ瀬にメッセージを送らないと。
俺は電話機がおいてある居間へと向かうことにした。
「貴文ー!」
母が少し慌てた様子で俺の名前を読んでいる。
「どうしたの?」
部屋のドアを開けると母が電話の子機を手渡してくれた。
「電話、梨香さんから」
「あ、ありがとう」
驚いて、すこし噛んでしまった。
一ノ瀬から電話をしてくるなんて、珍しいな。
もう少し待っていれば、こっちからメッセージを送ったのに。
「もしもし?」
「高木くん! 居なくならないでよ!?」
保留を解除するなり、悲鳴のような声が耳に響く。
一ノ瀬の焦っている様子が伝わってきた。
「ちょっと待って、大丈夫か? 居なくなるわけないだろ」
「……ずっとだからね!」
念を押すような声、いつもより少し低い。どうしたんだろう。
本当に心配しているみたいだ。
「どうしたんだよ、突然」
「だって、あの手紙見てたら悲しくなっちゃったんだもん……」
声のトーンがいつもと違う。落ち込んでいるみたいだ。
「あー、ごめん……、そんなつもりなかったんだ。
でも、ずっと好きでいるって書いてあったろ?」
「そうだけど……、なんかもう最後みたいな感じがして……」
それはその通りだ。あの手紙は、最後に渡した手紙なのだから。
「大丈夫だって、また書くから」
「本当?」
そんな声を出さないで欲しい。
それじゃまるで、本当に俺に居なくなってほしくないみたいじゃないか。
「本当だよ、だってお前には伝えたい事、まだいっぱいあるんだ」
「えへへー、なんか高木くんに会いたいな」
この言葉で、笑顔に変わったのが分かった。これで安心だ。
だけど、一ノ瀬が、俺に会いたいと言ってくれた。
それがあまりにも嬉しくて……、俺の方が一ノ瀬に逢いたくなる。
いつだってそうだ。同じことを思っていても、俺の方だけ気持ちが強い。
「なら、今から行こうか?」
居ても立っても居られない。今すぐに会いに行きたい。
「えっ!? こんな時間だよ? 電車も止まっちゃうし」
「自転車がある。2時間ぐらい待ってて」
絶対に行けない距離じゃない。時間さえかければ大丈夫だ。
「いやいや、いいから!」
「俺が逢いたいんだ。いつもそう思っている。
お前が会いたいって思ってくれたならいつでも行くよ」
許してさえくれれば、俺はいつだって……、お前の元にかけつける。
「ふふふ、高木くんって本当に馬鹿だねえ」
「そんなの、今に始まったことじゃないだろ?」
電話越しの声が柔らかい。笑っている姿を想像して心が暖かくなる。
「んー、確かに」
「じゃあ、会いに行っていい?」
「駄目だよ! まったくもう……。じゃあさ、明日、学校で勉強しようか?」
「お願いします!」
その言葉に即答した。
「もう、しょうがないなあ」
なんだか、いつもこう言われている気がする。
いつも、会う理由が欲しかった。
無い場合は仕方ない、お願いして一緒に居る時間を作ってもらう。
情けない話だけど、俺にはこれしか出来ない。
一ノ瀬にとってはきっと大したことじゃないのだろう。
でも俺には「明日も会える」、そのことが何よりも嬉しい事だった。




