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斎宮と花の君  作者: 紺野
7/21

1 萌芽の鼓動⑦

「……ヒィ……ギ、ヒイラギ!」

 自分の名を呼ぶ声がする。馴染みのある、少女の声だ。

(あぁ……私、眠ってしまっていたのね……)

 閉じられていた瞼を持ち上げると、ぼんやりとした視界に映ったのは、思ったとおり百合乃の顔だった。だが珍しいことに、彼女は心配そうに自分を覗き込んでいる。何が起こっているのだろう。

百合乃ゆりの、さま……?」

柊木ひいらぎ! あぁ良かった。心配したんだから、もう」

「すみません……?」

 ほっと安堵の表情を見せる百合乃に、柊木はつい謝ってしまった。上半身を起こしながら、記憶をたどる。

(ここは、野宮よね。……そう、確かに昨日着いたのですもの。今は夜? それとも朝なのかしら。昨日の夜は、百合乃さまは早くにお休みになられて、私も局に戻ったはず。それから……)

 それから。

「ゆっ、百合乃さま! ご無事で」

 ハッと思い出した柊木は、無遠慮に百合乃にしがみついた。

「ご無事よ、残念ながら」

 昨夜。百合乃は脱走することもなく、大人しく野宮入りを果たした。柊木はそれに安心しきっていたが、床に就いてからだんだん不安が胸に渦巻いてきた。そして心配になって百合乃の寝所を覗いてみると、予感的中。そこは既に、もぬけの殻であったのだ。

(そこから先は、覚えていないわ)

 そうして。やがて帰ってきた百合乃が、自分の寝所で倒れ伏している柊木を発見したのである。あまりの衝撃で失神していたらしい。

 百合乃は、なかば呆れた様子でため息を吐いた。

「まぁ、大事になっていなくて助かったわ」

「百合乃さま、一体どこにいらっしゃったのですか。それに、そのお姿は」

 百合乃が着ている狩衣は、男性の平服である。王女の身である彼女にはありえないことだ。

「知らないわ。野宮入りした時に唐櫃(衣類を収める箱)の中を見たら、いつの間にか入っていたんだもの」

 野宮入りした時。その時のことが、柊木の頭の中でよみがえる。そして、その日の朝に耳にした噂を思い出した。

「そういえば、出立する際に小耳に挟んだのですけれど。前日に催されていた宴に出席されていた大納言さまの、蹴鞠のための狩衣が消えた、と。百合乃さま、ま、まさかっ」

 サッと青ざめる柊木に、百合乃は冷めた目で返す。

「しっつれいね、あたしは盗んでないわよ。……そうねぇ、万が一これがその大納言サマのでも。偶然この箱に入って、偶然その箱があたしのだったってだけ。偶然よ、偶然」

 偶然。そんな偶然があってたまるか。柊木は強気な口調で追求する。

「では、わざわざ狩衣にお着替えになって、一体どちらに何しにお出かけになられたのです。厠なんて言い訳は通用しませんよ」

 百合乃は、しれっと答えた。

「森に散歩しに。狩衣って動きやすいでしょ」

「なっ――」

 今度こそ、柊木は言葉をなくした。

「その途中で困っちゃってね。助けてくれたのが、彼よ。桜真」

 百合乃は、手と目線で柊木の視線を誘導する。

 その導かれた先に居たのは、山吹の狩衣をまとった少年だった。背筋を真っすぐに伸ばして、礼儀正しく正座している。気品を感じさせる整った顔立ちは、不安げに眉根を寄せていて、なお一層儚げに映えている――と、柊木はそんな風に彼を分析してから、はたと気づいた。そして、固まる。

「……百合乃さま。ここは、どこですか」

「は? あたしの部屋よ。なぁに、まだ寝呆けてるの?」

「私には、この方が殿方のように見えるのですが」

 柊木の言わんとしていることに察しがついて、百合乃は面倒臭そうに答えた。

「あぁ、そうでしょうね、誰が見てもそうだと思うわ。桜真は正真正銘、男だもの」

「あああ、なんてことなの! ここは、仮にも斎王の寝所ですよ。それをこんな夜更けに。なんと、はしたなきこと!」

 激昂して桜真に怒鳴りつける柊木を、百合乃が睨む。

「何を言うの。失礼よ、柊木。桜真は命の恩人なんだから」

「は?」

「崖から落ちかけたあたしを、桜真が助けてくれたのよ。彼がいなかったら、あたしはきっと死んでいたでしょうね」

「まぁ」

 柊木は、桜真が助けたということより、百合乃がそんな危険な目にあったということに目を剥いた。

「その上、怪我の手当てまでしてくれて、おぶってここまで送ってくれたんだから」

「怪我とは、どのような」

 百合乃は無言で右足の甲を見せた。そこには、しっかりと山吹色の布が巻かれている。

「まぁ、おいたわしい」

「それは応急処置なんだ。早く、ちゃんとした手当てをした方がいい」

 初めて桜真が口を開いた。心底心配していて、なおかつ澄んだ声。

「は、はい、ただ今」

 柊木はさっと立ち上がって、急いで薬箱を取りに走っていった。

 それを見送る百合乃の横で、今度は桜真が立ち上がる。

「それじゃ、僕はこれで」

「もう帰るの」

 振り向いた百合乃は、座ったまま桜真の裾を掴み、すがるように顔を見上げる。

「また、会える?」

「……きっと、お見舞いに来るよ」

 なぜだか眩暈がして、そう答えるだけで精一杯だった。

 百合乃は瞳を輝かせ、「絶対だからね」と何度も約束させてから、やっとその手を放した。


 薬箱を持って戻ってきた柊木は、姿を消した桜真を追おうとして、やめた。また来るというのなら、礼はその時に、きちんと謝礼の品を用意してから言えば良い。来なければ、それまでだ。

「全く。この柊木めは、寿命が何百年あっても足りませんよ。そもそも、百合乃さまはいつも」

 くどくどと垂れ流される柊木の説教など、百合乃はまるでうわの空だ。

(桜真、また来るって言ってくれた……)

 自然と、にやけてしまう。

「百合乃さま、聞いていらっしゃいますかっ」

 甲高い声を上げた柊木に、百合乃はムッとして返した。

「聞いてなくてもわかるわ。柊木の言うことなんて、もう耳タコだもの。やれ大人しくしろ、やれ女のたしなみを身に付けろ……あたしには、必要ないことばっかり」

「必要のないことではありません! 私は萩乃さまから直々に、貴女さまの養育係を仰せつかったのです。私が必要だと言うことは、きっと萩乃さまも望んでいらっしゃることなのですよ」

 柊木の言葉に、百合乃は本気で驚いた。

「まさか。母さまなら、あたしのやりたいようにやればいいって言ってくれるわ、絶対」

「やりたいようにやらせていたら、いなくなってしまうではありませんか!」

 柊木は感情を露わに声を上げた。その目には涙があった。

「心配でたまらないのですよ。なぜ、落ち着いていられないのです……この手をかわそうとなさるのです。少しは、周りの者のこともお考え下さい!」

 百合乃は呆気にとられて柊木を見つめてから、フィッと俯いた。自分のせいで泣いている彼女など、見ていたくなかった。

「…………ごめんなさい」

 言葉は素直に出てきた。心から反省している様子の百合乃に、柊木は涙をぬぐう。

「わかってくださったのなら、良いのです。もう二度と、このような真似はなさらないで下さいまし」

 笑みを見せた彼女に、百合乃も表情を明るくする。

「大丈夫、もう家出はしないわ。どうせこの足じゃできないし。それに、桜真がお見舞いに来るって言ってくれたもの」

 今度は、柊木が目を丸くした。

「桜真殿が……とは、百合乃さま?」

 百合乃は、燈台の小さな火がゆらゆらと照らす中で、冴えた瞳を柊木に向けた。

「柊木、前に言ってたわよね。あたしには都以外に当てが無いって。確かに、あたしから皇族って肩書きを取ったらきっと何も残らなかったでしょうね。でも、今は違うの。桜真が、今のあたしの当てよ。他には何も無くたっていい」

「百合乃さまっ」

「わかって、柊木。自棄になってるんじゃないの。あたしは、本気」

 真剣な瞳でじっと見つめられ、柊木は押し黙る。

 やがて、ふっと息をついた。

「私にも、そんな恋をしていた時期がありました。ふふ、結局失恋して、自暴自棄になって政略結婚して。――そんな私を癒してくれたのは、他でもない夫でした。あの人は、優しく、私を本当に愛してくれた。けれど間もなく、夫は落馬事故で亡くなり、授かった子は流れ……。そして、死ぬ気力さえなくなっていた私を拾ってくださった方こそ、萩乃さまでございました。貴女さまは、その萩乃さまのお子」

 柊木は優しく微笑む。

「ですから、幸せになっていただきたいのです。どうぞ、その想いを貫いてくださいませ」

「ありがとう、柊木!」

 百合乃は思わず柊木に抱きついた。

 柊木は彼女の背に腕を回し、ぎゅっと抱き締める。

「けれど、あまり心配はかけないでくださいましね」

 柊木が局に戻ろうと部屋を出たとき、空は既に白んでいた。

 

「つまり、かぐや姫さんは、はちゃめちゃなジャジャ馬娘だったってことだな」

 朝陽が顔を出す頃に桜真が大沢池に着くと、桜の根元でいびきをかきつつも、ハルが帰りを待ってくれていた。

「また会いたいって言われたんだろ。お熱いねぇ~」

「なっ……また会えるかって聞かれただけだよっ」

 耳まで赤くする桜真をハルはニヤニヤと見つめる。

「そんだけ愉快な性格で、かなりの美人だったからなぁ。俺もお話してみたいぜ」

「ハルヨちゃんなんか相手にされないよ」

「なんだとうっ」

 踵落としを仕かけたものの、桜真に簡単にかわされ、ハルは勢い余って尻餅をついた。

「ぐえっ」

 目が回って、ハルは頭を押さえた。目の前では、桜真が楽しそうに笑っている。

 初夏の太陽、森の緑、桜真の笑顔。その全てが、明るく輝いている。ハルも何だか嬉しくなってしまって、自然と笑みがこぼれた。

「それで、見舞いに行くって言ったんだろ? いつ行くつもりなんだよ」

 立ち上がりながら尋ねると、桜真は「うーん」と首をひねった。

「……月が隠れたら、かなぁ」

 月が隠れる、とは新月のことで、あと十日ほどかかる。

「あぁ? そんなこと言ってたら、姫さん待ちくたびれちまうぞ。今夜行け、今夜」

「なんか、馴々しいって言うか」

「だぁーっ、焦れったい奴だな」

 ハルは両手で桜真の頬をつまみ、左右に引っ張る。

「言っただろ? 女を口説くならな、相手の胸を焦がすくらいの情熱を見せなきゃなんねぇんだっ」

「は……はひ……」

 結局、桜真が百合乃に会いに行ったのは、それから四度目の夜。再会した百合乃に「遅いっ」と鉄拳を喰らい、「毎日来い」と言われた桜真は、素直に毎晩、野宮へ通うようになった。桜真が容易に入り込めたのは、柊木の取り計らいによるものだ。

 毎回小一時間ほど、他愛のない話をして過ごした。都の話や、幼い日の百合乃の冒険劇のような思い出話は、時折り柊木も交えて大いに盛り上がった。次第に柊木も、明るくて誠実な桜真に信頼を寄せるようになっていた。

 そうして、暑い夏が過ぎていった。

「ねぇ、桜の咲かない春って、どう思う?」

「え? やだよ、そんなの。春の意味がないじゃないか」

 桜真が顔をしかめると、百合乃は神妙そうな顔で「そうよねぇ」と頷く。同席している柊木は、苦笑していた。

「業平さまのお歌ですね」

「あたしには和歌の才能が無いから、あの人の美意識が理解できないのよね」

 桜真は曖昧に頷いているしかなかった。自分の無知を恨めしく思う。

(あとで、ハルや紅姉に教えてもらおう)

 

 そんな風に落ち込んでいるとは露知らず、百合乃と柊木は笑顔で、家路につく彼を見送った。

 ひんやりとした夜風が心地よい。

 もう、夏も終わりだ。

 夏が終われば、秋が来る。秋が終われば、冷たい冬が。冬が終われば、また、春が、きっと。

 やけに明るい夜空を仰ぐと、今夜は望月だった。黄金に眩しく輝くその月に、吸い込まれてしまいそうになる。

「百合乃さま。まだ夏とはいえ、夜風に当たり過ぎるとお体に障りますよ」

 百合乃は満月に見入ったまま。

「ねぇ、柊木。かぐや姫は、どんな罪を背負っていたのかしら」

「は? さぁ……私としては、恋に破れた殿方たちの方が哀れでなりませんけれど。どうしてそれで罪を償ったことになるのか、不思議でございますね」

 柊木は頬に片手を添えて、首を傾げる。

 百合乃の髪を、静かな風が撫ぜた。

「どうしてかぐや姫は、誰とも絶対に結婚しなかったのだと思う?」

「深い愛情がなければ嫌だったからでしょう。百合乃さまも、よく仰っていたではありませんか」

「……かぐや姫は、いつか自分が月に帰らなければならないことを知っていたのよ。だから……本気で恋をすることが、恐かったのかもしれない」

 いつか訪れる、別れを恐れて。そうして、誰も愛さないことを選んだ。もしかしたら、それこそが罰だったのだろうか。

 

 

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