1 萌芽の鼓動⑥
大沢他に映る月は、少々欠けてしまっているものの、明るく森を照らしてくれている。
ハルは池の畔を歩きながら、途方に暮れてしまっていた。
(自分がついてこいって言ったくせによォ)
前方を歩く朱香は、ずっと沈黙したままだ。小さな背中で、言葉を投げ掛けられることを拒絶している。
その後ろ姿に、ハルは無言で文句を垂れ続けていた。
(チビ、くそガキ、胸ぺちゃ、ズン胴……)
「――ハル、何考えてるの?」
「えっ、いいえぇ、まさかそんなっ」
心を読まれたかと思ったハルは、あせってうまく口が回らない。朱香は「はぁ?」と眉を潜めて振り返った。
「……何考えてたの。あたしが聞いたのは、なんで人間の女なんかを、桜真様と一緒になって追いかけてるのかってこと!」
「あぁ……そのことか」
なんだ、とハルは気を取り直して、朱香との幅を大股で埋める。
「別に俺は惚れちゃいねぇよ。ただ兄貴分として、桜真を手伝ってやってるだけさ。あとは……あいつの惚れた女がどんなのかっていう、単なる好奇心だな」
その身長差のために、どうしても朱香を見下ろすような体勢になる。
「なんで手伝ったりするの? 人間の、しかも斎王なんでしょ、相手は。叶うはずないじゃない!」
人間とあやかしは相容れない。「人」が「人にあらざるモノ」を恐れ、排除しようとするためだ。いくら本人たちが想い合っても、周りの「人」がそれを許さない。また、自然の摂理に反することで、「人にあらざるモノ」がその妖力を失ってしまうともいわれる。
いくら恋い焦がれたところで、添い遂げることはできない。人とあやかしの恋は、いつも悲劇となって幕を閉じる。――だが。
「そんなこと、わかんねぇじゃねぇか。もしかしたら、あの二人なら、大丈夫かもしれないだろ。本気で想い合えば、周りがどう言おうが、幸せになれるはずだ」
眉間にしわを刻み、ハルは低い声で言う。
「ありえない! 相手の女が桜真様を受け入れないに決まってるもん!」
逆に朱香の声は甲高い。今は頭に血が上っているから余計にだ。
ハルは身を引いて、両耳を手で塞いだ。
「なんでだよ。あいつはいい男だと思うぜ? お前だって惚れてるくせに」
「そういう問題じゃないの! 人間のお姫さまが、物の怪なんて相手にするはずない!」
「耳元できゃんきゃん喚くな、うるせぇ!」
ハルがうっとうしそうに怒鳴ると、朱香はビクッと肩を震わせ、押し黙った。彼女の目に、うっすらと涙がにじむ。
(ゲッ……)
つい大声を出してしまったことを悔いながら、ハルはできる限りに優しい口調で言う。
「その。……俺も昔よ、人間の女に本気で惚れたことがある」
「えっ」
「でも、俺は逃げた。相手の女は、好きだって言ってくれたが……それでも、俺は自分の正体を明かすことはできなかったんだ」
目を細くするハルは、どこか遠くを見ている。目の前の朱香を通り越して。
「後悔、してるの?」
恋人を信じきれなかったことを。
ハルは口だけで笑った。
「だから、あいつには負けないで欲しいんだ。たとえ、実らなくたっていいんだよ。あいつが自分自身の気持ちから逃げなければ、それでいい。俺みたいに中途半端なことにだけは、なってほしくないんだ」
普段の彼からは想像できないはどに、真摯で優しい瞳。
「だからお前も、余計な口出しはしないでやってくれないか」
「……うん、わかった」
紅音に、二人は斎王の行列を見に行ったのだと聞いたとき、朱香は本当に驚いた。まさか桜真が人間の女に恋をするとは。驚きすぎて、信じられなかった。だから、先にハルに真相を確かめてから、と思ったのだ。
(行かなくて良かった……)
もし行っていたら、自分が桜真の恋路を邪魔するところだった。
ホッと撫で下ろした胸には、ハルが本気で好きだったという女性への、淡い羨望と嫉妬だけがちらついた。