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斎宮と花の君  作者: 紺野
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1 萌芽の鼓動⑤

 今夜はよく晴れている。明るい居待ち月を背にして、桜真おうまはカエデ紅葉の樹の上にいた。紅葉と言っても、あの大道の老木ではない。奥嵯峨、百子斎王はくしさいおう野宮ののみやにある紅葉だ。正面に設けられた黒木の鳥居を見下ろしながら、桜真は悩みこんでいた。

(……やっぱり泥棒みたいだよな……)

 百子は本当に変わってしまったのか、あの日の彼女にはもう逢えないのか。それを確かめたい一心でここまで来たものの、宮の中にまで侵入するのは、やはり幾分の抵抗感を拭いきれない。こんな時ハルが居てくれたら、うまく彼に納得させられるのだが。あいにく今日は、相談があるとかで朱香に連れて行かれてしまったので、不在だ。

(もう、寝ているかもしれないし……)

 ぐるぐると考えを巡らせていると、小柄な人影が一つ、鳥居の中から出てきた。月明かりが照らしてくれたので、狩衣の萌黄色がはっきりとわかった。そして、立烏帽子を被っている。

(え……?)

 妙な点はいくつもあった。なぜこんな時間に、一人で、馬にも乗らず、どこへ?

 だが、桜真が驚いたのはそんなことではない。彼からかすかに香るのは、芳輝と百子にしか得られないはずの、あの梅花香だったのだ。

(どうして)

 萌黄色の狩衣の彼は、小走りに野宮から離れていく。桜真は一瞬思いあぐねたが、木を飛び移りながら彼の後を追った。追わずにはいられなかった。

 そうして月光の明るい森をしばらく行くと、川のせせらぎが聞こえてきた。都の西を流れる大堰川の近くまで来たようだ。

(都に行くわけじゃないのか)

 それとも、川を下って羅城門まで行くつもりなのだろうか。彼の背中を見つめながら、そんなことを考えていたときだった。突然、森を覆う木の葉を散らして、空からいくつかの影が降ってきた。

(なっ――)

 小鬼だ。遥か古来より、鬼は、病や災いを運んで生物を殺し、その死骸を喰らうという。死魂が集まって妖怪化した物の怪だ。同じ「物の怪」と一括りにされるには、桜真たちとはかけ離れた存在だった。

 桜真が声も出せぬ間に、小鬼たちは前方を行く彼を取り囲み、一斉に襲いかかった。

 反射的に、桜真は彼を助けるべく木から飛び降りた。鬼というのは、徒人にはその姿を視ることさえできないのだ。――だが。

「邪魔なのよっ」

 彼は飛びかかってきた鬼を、片手でいとも簡単に振り払った。すると、触れてさえいない鬼までもが、灰となって消えてしまったではないか。

「ふん。弱いくせに出しゃばるか、ら、あ?」

 苔に足を滑らせ、彼は体勢を崩した。その向こうには、真っ暗な崖。――落ちる。

「きゃ……っ」

「危ない!」

 とっさに伸ばした桜真の手は、何とか彼の腕を掴むことができた。ほっとする桜真の視線の先で、拍子ではずれたらしい立烏帽子が崖下へと小さくなっていく。

 帽子の中に隠されていた黒髪が、波打つようにたなびいた。掴んだ腕は、思いがけなく細くて頼りない。

 桜真は自分の目を疑った。

 彼ではなく、彼女だったこと。そして自分が、彼女を知っていたことに。彼女とは、大沢池のほとりで、斎王の行列で、確かに逢った。ずっと、探していた――

 桜真は茫然自失のまま、彼女を地面へと引き上げた。

 彼女はぺたんと地面に座り込み、ふー……と息を吐いて、生還を実感する。そして桜真をじっと見つめてから、頭を下げた。

「助けていただき、感謝します」

 だが、桜真はうんともすんとも答えない。まだ信じられずにいた。

「……あの?」

 顔をあげた彼女が、怪訝そうに桜真を見つめる。

「え、いや、えと。君……どうして、こんな所に?」

 桜真はやっと我に返って、手頃な岩に腰掛けた。

「遣いの帰りです」

 彼女は明快に言い切った。――嘘だ。こんな夜中に、遣いにやってきた人間をわざわざ男装させて、一人で帰すなんて馬鹿げている。

「…………帽子、落ちてるよ」

「えっ」

 彼女は慌てた様子で、自分の髪があらわになっていることを確かめる。と、今度はキッと桜真を睨みつけた。

「あなた、誰? ここで何をしているの」

「そっちこそ。なぜ、こんな所にいるんだ。……百子王女」

 百子は目を丸くした。それからがっくりと頭を垂れると、観念したようにため息を吐いた。

「あなた、誰なの。柊木にでも頼まれて、あたしのことをずっと見張ってたってわけ」

「は? 僕は……散歩していただけだよ。君の顔は、行列で見たから知ってたんだ」

 我ながら「散歩していた」はないだろう、と思いつつ、桜真は答える。

 百子は、再び呆気にとられてしまっているようだった。

「あの……百子王女はくしおうにょ?」

 及び腰で桜真が話しかけると、百子はハッと正気づいてから、むっとした。

「百子って呼ぶのは止めて。あたしはそんな名前じゃないの」

 そういえば、芳輝もそんなことを言っていた。

百合乃ゆりのよ」  

「ユリノ?」

 桜真が語尾に疑問符をつけて繰り返すと、彼女は手近な枝をとって、地面にガリガリと、百合乃と書いた。

「こう書くの」

「百合乃……」

 そのとき桜真の脳裏に浮かび上がったのは、一輪の姫百合。山百合のような派手さはないものの、凛としたその姿は、鮮やかな存在感を放つ。夏の太陽の下で咲く、紅の華だ。

 彼女によく似合っている。

「あ、勘違いしないで。百合は百合でも、派手な厚化粧の山百合じゃないの。姫百合よ。母さまがつけてくれた名前なんだから」

「そうだろうな、って、思った」

 事実だったので、知ったかぶりと言われるかと思ったが素直に頷いた。すると予想に反して、百合乃は嬉しそうに破顔してみせた。

「あなた、正直なのね」

「え? そうかな」

「うん、すごく。ねぇ、あなたの名前は?」

 百合乃は首を傾げて桜真を覗き込む。

「僕? 桜真だよ」

「オーマ……逢魔が時の、オーマ?」

 逢魔が時は、大禍時。空が緋色に染められる、禍の起こる時刻とされる。

 桜真は苦い顔で言った。

「そんな縁起の悪い名前いらないよ。咲く桜の真で、桜真」

 聞くと、百合乃は「桜真、桜真」と何度か呟いて、やはり微笑んだ。

「芳い名ね」

(――あ……あの日と、同じ)

 同じ、笑顔だ。彼女は何も変わってなどいない。あの日のままで、笑ってみせる。

 そして桜真の求め続けていた笑顔のまま、とんでもない事を口にした。

「ねぇ、お願いがあるんだけど、あたしを一緒に連れていってくれない?」

「は?」

 桜真は面喰らってしまった。

「何を……言ってるんだ。早く帰った方がいいよ。危ないし。さっきだって――」

 そこまで言って、重要なことを忘れていたことに気付く。――百合乃は、鬼を祓ってはいなかったか。視ることも難しい鬼を、片手で。

「嫌よ。せっかく逃げ出してきたんだもの」

 やはり脱走していたのか。男装までして。

「言い訳なら、何とでもなるだろ。……鬼に襲われて逃げた、とか」

「散歩してたとか?」

 見てたのね、と、百合乃は悪戯がばれてしまったように笑った。

 近ごろは、人間に使役されている鬼も多くいるという。そうして政敵や恋敵を呪ったりするのだとか。野性の鬼は弱ったものしか狙わないから、先程の小鬼たちは前者である可能性が高いだろう。百合乃が王女であることを考えれば、それも納得がいく。地位のある者は、それだけで恨みを買うものなのだ。

「助ける暇もなかった」

「あら残念。だったら、桜真に助けてもらえば良かったわ。でも、崖から落ちそうになったときは、助けてもらったし。ありがとね」

 ふふふ、と彼女は楽しげだ。

 桜真には、彼女がなぜそんなことができたのか、さっぱり見当もつかなかった。皇とはそういう一族だったのか……という考えにいきついてしまった程に。

 深く考え込んでしまっている桜真に気づいて、百合乃は苦笑した。

「この能力はね、亡くなった母さまから継いだものなの。知っているのは、桜真で三人目ね。父さまにも秘密なんだから、桜真も内緒にしててよ」

 わかった、と頷きながら、桜真はぎくりとした。

(僕の正体も、視抜かれてる?)

 桜真の握った拳に、嫌な汗がじっとりとにじむ。

 その心配をよそに、百合乃は目を輝かせて、嵐のように質問を浴びせてきた。

「ねぇねぇ、桜真も物の怪とか視えるんでしょ? どうして? 生れつき? そういう仕事なの? 助けようとしたってことは、祓えるんだ。強い? あたしより」

「え、と」

 返答に窮する。

「視えるのは、生れつきというか」

「でもこんな所をフラついてるってことは……、祈祷師見習いさん? あっ、破門された坊主とか」

 何だか好き勝手に妄想を広げていく百合乃の隣で、桜真は頭を抱え込む。

(……でも、僕のこと物の怪とは思っていないみたいだ)

 ほっと息をつき、話の軌道修正をはかってみる。

「そんなことより、早く宮に帰りなよ。皆が気づいたら大騒ぎになる」

 もっと話をしていたいと思いながら、気づけば真逆の言葉が口をつく。

「あの能力を使うと、疲れちゃうのよね。だから立てない、歩けない、帰れなぁい」

 澄まし顔で、百合乃はプイと横を向いた。桜真は苦笑し、すっくと立ち上がると、彼女に手を差し伸べた。

「帰ろう、送るから」

 百合乃は視線だけ桜真に向ける。

「ね、ほら」

 百合乃は、むーと口を尖らせてから、桜真の手の平に自分の手を重ねた。

 桜真はすぐに異常に気付いた。触れた百合乃の指先が震えている。それに、これは……血の、匂い。

「どこか、痛むの」

「大丈夫よ」

 平然として言うのが余計に信じられない。

「意地張らないで、どこが痛いか教えて」

 桜真が口調を強くすると、百合乃は諦めて、小さな声で言った。

「……足が、ちょっと」

「見せてみて。転んだときに?」

「そうみたい」

 百合乃は大人しく、桜真の前に足を出し、自分で藁履を紐解いた。足に巻かれている白い布は、甲の部分だけ鮮血で紅に染まっていた。

「すごい血じゃないか! 早く止血しないと」

 足の布を解くと、彼女の甲には深い裂傷が刻まれていた。痛々しいそれに、桜真は思わず顔をしかめる。逆に百合乃は明るく振る舞って、照れたような笑顔を見せた。

「崖で滑ったとき、木の根っこに引っかけちゃったみたい」

「もっと早く言ってくれれば良かったのに」

 つい声が尖ってしまう。

 守れたと思ったのに。小鬼の残り香で空気が汚れて、血の匂いに気づけなかった。

「ちょっと待ってて」

 桜真は立ち上がり、生い茂る草をかき分けた。目当ての物はすぐに見つかった。蓬の葉だ。

「ごめん、少し分けてね」

 小声で呟いてから、菓を数枚摘み取る。そしてそれを揉み解しながら、百合乃に向き直った。

「蓬? 消毒効果があるんだっけ」

「そう」

 膝をついて、揉んだ蓬を傷に当てていく。

「……ごめんなさい」

 口数が減ってしまった桜真に、百合乃はしゅんとした。

 そんな彼女の目の前で、桜真は自分の狩衣の裾を豪快に引き裂いた。狩衣で作った即席包帯を、彼女の足にてきぱきと巻いていく。

「よし、完成」

 完了の合図に、百合乃のすねの辺りをボンと叩いて、満足気に微笑んだ。しかし、百合乃からの反応がない。桜真が訝しんで彼女の顔をうかがうと、百合乃はまさに「開いた口が塞がらない」でいた。

「どうしたの、変な顔して」

 桜真は首を傾げて、「あれ、もしかして笑ってほしいの?」などと呑気に言う。

 百合乃は放心したまま、口を動かした。

「なん……で」

「え?」

「なんでそんなに優しくするの。あたしが王女だからっ?」

「は?」

 突然怒鳴られて、桜真は目をぱちくりさせた。

「やめて、あたしの価値をそんな風に決めつけないで! ……どうして? まだ新しい、きれいな衣だったのに」

「なんでって、止血しなくちゃと思って」

「他にいくらでも方法はあるじゃない」

「これしか思いつかなかっただけだよ。別に、君が王女じゃなくても、同じことをしたと思うけど」

 真っすぐな桜真の瞳を、百合乃も真っすぐに見つめ返す。

「……本当に?」

「本当に。それより、早く戻ってちゃんと手当してもらった方がいいよ」

 そう言うと桜真は、彼女に背を向けて中腰になった。

「……何それ」

「その足じゃ山道は歩けないだろ。さっき送っていくって言ったし。さ、早く掴まって」

「やめてよ。あたしを、甘やかさないで」

 百合乃は何とか独りで立ち上がって言う。

「甘やかしてなんかないよ。……僕が、おんぶしたいだけ」

 桜真は肩越しに照れ笑いを見せた。

 帰り道。桜真は、背中に百合乃の温もりを感じていた。それだけで、なんだかとても幸せだった。

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