1 萌芽の鼓動③
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「あたしにも、月からお迎えが来ないかなー」
百合乃は欄干に手をかけ、ちょうど真南に見える十三夜月を見上げながら、つまらなさそうに独り言ちた――つもりだったが、背中の廂の間から、とがめるような返事が返ってきた。
「そんなもの、来られては困ります。百合乃さまはいずれ斎王となられるおかた。この国に無くてはならない、大切なおかたなのですから。――夜風はまだ冷たいでしょう、中にお入り下さいまし。それに万が一、殿方たちの目に触れましたら」
「あたしの知ったことじゃないわよ」
百合乃はさらに白けたように、振り返りもせずに答えた。
春も盛りを過ぎたというのに、まだ浮かれた気分が尾を引くのか。どこぞから、宴会の愉快そうな笑い声が響いている。
「ここに閉じ込められて、もう一月。限界よ。柊木、遊びに連れていってちょうだい」
百合乃の女房である柊木は、眉根を寄せる。
「明朝には、もうこの宮から出られるではありませんか。まさかお忘れでいらっしゃったのですか?」
「その後が問題なんじゃない。春って言ったって、水はまだ冷たいのよ。それを、また鴨川で禊ぎですって? 今度はあたしを殺す気?」
「それは……」
実は、柊木もそのことは心配していた。初斎院であるこの左兵衛府に入宮した一ヶ月前にも、同様の祓ぎを行なった。そうして百合乃は風邪を引いてしまったのだ。
柊木に向き直り、百合乃はビシッと人差し指をたてた。
「それは大目に見てもね。次には、嵯峨の野宮に一年も閉じ込められるのよ。それが終われば、それこそあたしの人生も終わり。今度は伊勢に送られて、半永久的に幽閉よ」
「嵯峨の桜は美しくて気に入った、と仰られてましたでしょう」
「もうとっくに散っちゃったじゃない」
柊木は困り果ててしまった。確かに百合乃の生活は窮屈で、同情の余地があるように思えた。大体からして彼女は、じっとしていられるような気性ではないのだ。お可哀相に。
と、そこまで考えて、昨年の今頃のことが思い出された。あの時も、一時でいいから普通の女の子になってみたいと言われた。そしてうっかり情に流されて、「私にできる事があれば、何でもいたします」などと口走ったのがいけなかったのだ。「何でもするって言ったでしょ」と、皇族の牛車で花見に行かされる羽目になってしまった。女房として同行した百合乃が、池に落とした扇を追って姿を消した際などは、もう気が気でなかった。そうでなくても、いつ事が露見するかと始終心配し通しであったのに。
もうあんな心臓に悪い思いは、御免こうむりたい。
「百合乃さま。これは占にて定められたことでございますから、わがままは通りません」
斎王に選ばれてしまった百合乃。それは、占いによって選定されたことだった。亀の甲羅のどこにひびが入るか、という単純なものだったが。
「インチキよ、あんな占い。大体、あたしが候補に挙がることからして間違ってる。あたしは内親王じゃないの。父さまだって、帝になる気は全く無いって仰っていたもの」
「そうは仰られても、先の斎宮さまがお隠れになられた時には、もう他の内親王様方はご結婚されておりましたし。百合乃さまも早く、夫となる方をお迎えになっていらっしゃれば良ろしかったのですよ」
斎王というのは通常、内親王の務めである。祓ぎに楔ぎを重ね、伊勢の斎宮で皇室の祖先神を祀って天下の太平を祈り続ける。そのためには、汚れ無き巫女、つまり未婚でなくてはならない。
百合乃はその身分と容姿から、結婚相手として引く手数多だったが、断固としてそれらを拒否し続けてきた。そうしてこの結果だ。
「『世のかしこき人なりとも、深き心ざしを知らでは、あひがたしとなむ思ふ』よ」
「竹取物語ですね」
どんなに高貴な人であっても、深い愛情がなくては結婚したくない。物語の中の、かぐや姫の言葉である。
「父さまと母さまは、身分違いの恋だったのでしょ。でも本当に仲が良かったわよね。それは、二人が心から想い合っていたからよ。あたしも、いつかそういう人と結婚したいの。顔も知らない人となんて絶対に無理。ちゃんと恋愛して結婚するの。だから、斎宮なんてやってる暇、ないのよ」
柊木は、ふぅとため息を吐いた。
「百合乃さま。私は伊勢でも、いえ一生、百合乃さまにお仕えしとうございます。以前にも申しましたけれど、私にできる事があれば、何でもいたします。けれども、百合乃さまを危険にさらすことだけはできません。伊勢の斎宮に納まることが、貴女さまにとって一番安全だと存じております。都におられるのよりも」
百合乃は肩越しに柊木に振り返って、彼女を睨みつけた。
「安全なのが幸せだとは思わないわ」
「王女という立場だからこそ、そのようなことが言えるのでございます。右京には毎日のように、飢えた民の死体が転がっているのですよ」
「でも」
「私は、衣食住の保障されている今の生活に何の不満もございません。立場を隠して花見に赴くことぐらい、何度でも致しましょう。けれど、この都以外に何の当てもない貴女さまを、斎宮という立場から解放して差し上げる事だけは叶いません。解って下さいませ」
真摯な眼差しで見つめられた百合乃は、口をつぐむ。
「柊木の言う通りだよ、百合乃」
不意に、穏やかな男性の声が響いた。
「父さま」
驚いた百合乃が庭先に向き直ると、そこには彼女の父、行明親王が一人で立っていた。
蘇芳の直衣に、きちんと冠を被っている。すらりとした長身で、率直に言うと美形の面立ちは、常にほほ笑みをたたえている。四捨五入すれば不惑の年に手が届くはずだが、いまだに女性たちの心の臓を貫いているのも頷ける話だ。
「やぁ、久しぶりだね。元気そうだな、相変わらず。どうしてもそなたに会いたくなってしまってね、つい宴席から抜け出して来てしまったよ」
「父さまも、相変わらずなのですね。会えて嬉しいです、すごく」
素直に喜びを言葉にする百合乃の後ろで、柊木は目玉が飛び出そうなくらいに驚いていた。
「宮君さま! ここは斎王の初斎院、殿方は厳禁のはずでは」
おろおろと取り乱す柊木に、行明はきらきらの笑みを絶やさない。
「やはり、酔っていたというだけでは言い訳としては少し物足りないね。柊木、内緒にしておいておくれ」
「そんな」
「なに、どうせ明日には新しい斎王のお披露目だろう。それがほんの少し早まっただけのことだ。まぁ、そこは父親の特権として大目に見てもらおうかな」
行明の言葉は静かなようでいて、相手に確かな圧力をかけている。親王という生まれのなせる業なのか。
「……承知いたしました」
柊木はその重圧に耐えられず、渋々ながら承諾した。
落ち着いた物腰の行明と、短気で無鉄砲な百合乃。正反対のようで、その性根たるわがままぶりは、まさしく親子そのものである。
「ところで、百合乃。柊木は、真にそなたのことを想ってあのように言ってくれたのだよ。鉄砲玉のようなそなたのことだ。一度手を離したら帰ってこない、そう心配するのは当然だろうね」
行明は蝙蝠扇を広げ、上目遣いに百合乃をじっと見つめる。
「……わかりました」
百合乃も、この父にだけは素直であった。
「いい返事だね。――おや、やっと来たようだ」
言って、行明は背を向けた。彼の視線の先の暗がりの中から、大小二つの影が近付いてくる。
「お父上様! 遅くなりました。百合乃、久しぶり」
「あーっ、姉上! 姉上がいるぅー!」
「高通兄さま。それに、兼季まで……」
二人の姿を認めて、百合乃は目を見張った。柊木など、今度こそ本当に目玉が転がり落ちそうである。
「明日になってしまっては忙しくて、家族でゆっくりと話をすることもままならないだろう? ――だから、今日のうちに、と思ってね」
行明は扇で口元を隠し、悪戯っぽく笑う。
「……本当に、宴云々というのでは、言い訳にならないのですね」
計画されていた行動だったのだ。
「わっ私は……失礼してしばらく、母屋の中におりますっ」
慌てた様子で、柊木が壁代の垂れ布をくぐって姿を消す。家族水入らずの邪魔をしないように気を遣ったのか、それとも突然親王一家を目の前にして単に恥じ入ってしまったのか。
紫の狩衣を着た青年は、百合乃より二つ年上で今年十九の長男の高通だ。父親ほどではないが背が高く、鼻筋が通っているところもよく似ている。その彼に手を引かれてきたのは弟の兼季で、今年で九つになった。百合乃たちの母親である萩乃が、その命と引き替えに産んだ次男である。
「嵯峨や伊勢なんてお前には退屈だろうけど、少しはそのお転婆なところを直してこい。じゃないと、帰ってきたって、いつまで経っても結婚できないぞ」
「大きなお世話ですっ。兄さまこそ、あたしが帰って来た時には、子供の一人や二人、見せてちょうだいよね」
「『大きなお世話ですっ』」
高通が百合乃を真似してみせたので、百合乃は思わず吹き出してしまった。つられるように、高通も笑う。くすくすと笑い合う子供たちを眺めて、行明も一層表情を紡ばせた。兼季は父親の腰にしがみついて、瞼が重たげだ。
「そうだな、高通。わたしが萩乃と結婚したのも、ちょうどそなたくらいの年だった。そろそろ、孫の顔を見せてくれても良いのではないか? それにしても、百合乃は萩乃に似てますます美しくなるね。そなたと結婚できる男は果報者だな、わたしのように」
そうやって、自分の子供にまでさらりとのろけて見せるこの父親が、百合乃は大好きだった。
「……幸せだった? 母さまと結婚して」
「今も幸せだよ。萩乃は早くに逝ってしまったけれど……お前たちを遺してくれた」
行明は兼季を抱き上げ、その頭を撫でてやる。まだ甘えたい盛りの兼季は、きゃっきゃと喜んだ。
「それなのに、そなたと離れるのは残念だが」
百合乃を見つめる彼の双眸が、愛しい者を見るように細くなる。高通も笑って言った。
「すぐに帰ってこれるさ」
「ああ、無事に帰っておいで。そうしたら、きっといい男と結婚して、子供にも恵まれるだろう。そなたは幸せになれる……必ず。子供は多いほうが楽しいものだよ」
「そう……そう、ね」
そうできたなら、どんなにいいだろう。愛するこの家族とも、今、別れの時だ。
夜も更け、さすがにどこぞの宴会もお開きになったらしい。大内裏は、しんと静まり返っている。暗い部屋には月明かりさえ差し込まない。夜闇の中で横になっている百合乃は、独りうんうんと唸っていた。
(困ったなぁ……どうしよう)
実は百合乃は、今夜脱走しようと計画を練っていたのだった。しかしどうやら柊木に感付かれてしまっているらしい。女房控えの局にいる彼女は、いまだに眠る気配が無いようだ。それに加え、行明が、娘が心配だと言って大内裏の十四の門の全ての警備を強化させたという。
(さすが、長年そばに居ただけあって、お二人ともよく解っていらっしやる)
思わず感動してしまう百合乃だが、状況は苦しくなる一方である。このまま朝になってしまえば、野宮行きは免れない。
(そんなの、耐えられない)
ふと、彼女にとって最も親しみのある香りを濃く感じた。そして、人の気配。否、「人にあらざるモノ」の気配である。
上半身を起こし、ささやくようにそっと、その名を呼んでみる。
「芳輝、いるの?」
『別れの挨拶に来た』
「そう」
少しがっくりとして、百合乃は肩を落とした。
芳輝は、百合乃の実家にある梅の木の化身。だが、他の住人は誰一人として、庭の梅が妖化しているとは知らない。百合乃も、その姿を見たのは一度きり、その存在を知ったときだけであった。
けれど、それ以来こうやって、姿は見せなくても時々話し相手になってくれる、百合乃の親友だ。初斎院に龍もってからは、ぷっつりと話し掛けてこなくなっていたが。
「でも、ここに来てくれるとは思ってなかったから、嬉しいわ」
どこに居るかはわからない友に、百合乃は微笑みかける。
『明日は鴨川で禊ぎだろう。この寒い中、ご苦労なことだな』
「このまま朝になれば、ね」
百合乃は、にっと不敵に笑ってみせた。
『うん? 脱走でもするつもりか』
「その予定だったんだけど。――ねぇ、外の様子はどうだった? なんとかして、ここから出られないかしら」
『無理だろうな。大人しく、嵯峨に行ってみたらどうだ。良い出会いがあるかもしれないぞ』
百合乃はため息をついた。
「出会いなんて、『斎王』にあっても意味ないでしょ」
『……そんなに、この都に居たいのか』
「はぁ?」
百合乃はつい大きな声を出してしまい、自分の口を押さえる。『違うのか』と意外そうに聞き返す芳輝に、なかば怒るように言った。
「せっかく脱走したって、都でちんたらしてたらすぐに捕まっちゃうじゃない。もっと遠くへ逃げるのよ。誰も、あたしが皇族だって知らないような所までね。……そうねぇ、東国は今危険らしいから、西へ行こうかな」
すると、息を呑んだような気配があった。
「芳輝?」
百合乃は彼女を探すように、視線を巡らせる。
『……百合乃は何も知らないから、そんなことが言えるのだな』
「やだ、柊木みたいなこと言わないで。あたしだって、自分が無謀な世間知らずだってことぐらい、わかってるわよ。でも、だからこそ都の外が見てみたいの。知らないから、知りたいのよ」
『知らないから、知りたい……。そうか、前向きだな、百合乃は』
「そうよ。前向きじゃなきゃやってらんないのよ、こんな人生。――そんなことより、どうしたらここから逃げ出せるのかしら。今晩逃げなきゃ、一年も嵯峨に閉じこめられるのよ。 そんなの絶対に、いや」
すると、芳輝は感心したように言った。
『ほう。野宮とは、そんなに厳しい所なのか。それは知らなかった』
「え……?」
百合乃の頭の中が、一瞬止まってから、高速で巡り始める。
『百合乃?』
沈黙した彼女に、芳輝が心配そうに声をかける。その心配をよそに、百合乃は突然笑い出した。
「ふっ、あはははっ! ようし、やれる! 芳輝、あたし行くわ、嵯峨へ。でも自由になってみせる」
『……そうか。よくわからないが、頑張るといい。では、これが、真実に別れとなるな。わたしはこの都から出られないから』
芳輝がしみじみと言うと、百合乃も親友に向ける素直な顔になった。
「今までありがとうね、芳輝。本当に感謝してる。あなたがいなかったら、あたしはきっとあの日から立ち直れなかった。芳輝がいてくれたから、今のあたしがいるの」
あの日。母・萩乃が死んだ、あの春の日。幼い百合乃は、庭の片隅で独り泣きじゃくっていた。その背中を温かく抱きしめ、言葉をかけてくれたのが芳輝だった。何と言ってくれたかはよく覚えていないが、とても優しい言葉だった気がする。
『わたしは、百合乃のためなら何でもする。それが萩乃との約束だ。でもたとえ、そうでなくとも――』
「わかってる。ふふ、本当に柊木と同じこと言うんだから。……忘れないわ、芳輝のこと。今年芳輝の花びらでつくった匂袋、肌身離さず大切に持ち歩いてるのよ」
百合乃は微笑みながら、澄み切った瞳を潤ませた。だが、泣かない。泣くのは好きじゃない。
「……ねぇ、最後にお願い聞いてくれる? 二つ、頼みたいことがあるんだけど」
『何だ?』
「一つは、この都に残る父さまたちを、影からでいい、支えてあげて。もう一つは――」