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斎宮と花の君  作者: 紺野
1/21

1 萌芽の鼓動

      1

 静かな夜だ。今宵は見事な満月――もし、この上ない栄光を独り占めする者があれば、調子に乗ってあの月に例えた歌を詠むかもしれない。しかし残念ながら、ここに和歌を趣味とする人はいなかった。否、人間そのものがいない。

 何代か前の帝が、相次ぐ怪異を避けるために都を移した。新都が選ばれた理由は、四神――南の朱雀、西の白虎、東の青龍、北の玄武――相応の地だから、らしい。要するに、南に窪地があり、西に大道があり、さらに東に流水があって、ついでに北に丘陵があったりする土地は、縁起が良いということだ。

 ここは、その平安の都の西側、右京区の外れ。大きな池の畔の森。今はまだ、夜ともなれば冬の寒さに戻る季節だ。わざわざ夜中に、こんな辺境へやって来る者などいるはずもない。

 春の夜も更け、眩しくさえ感じられる満月は、天と地に二つ。池が静かに月光を受け入れ、映し出している。そして、月の光は池に限らず、池畔の森の草木にも惜しみなくそそがれる。

『ねぇ、今年はどっちが勝つのかしら?』

 森の中の、最も池に近い一角で、そっとささやくような声がした。

『やだねぇ、桜真おうまに決まっているじゃないか』

 返す声も、まるで木々が風に撫でられたように笑う。

『そうだよ。……ほら、もう咲きそうだもん』

『ああ、本当だわ』

 幻のようにさえ聞こえる姿無き声たちは、きゃあきゃあと興奮してかすかに大きくなった。

 黄色い騒ぎの中心には、二本の樹があった。いずれの枝も池の上まで伸び、赤らんだ蕾をつけている。周りには、落椿が水面にまで点々と鮮やかな赤い模様をつくり出していた。

 月光に照らし出される二本の樹。そのうちの池側の樹の蕾の一つが、煌々とそそがれる光をすぅっと吸収した。すると今度は、淡い薄紅色の光を放ちながら、蕾が開かれていく。ゆっくりと、ひそやかに。

 周りの神代椿かみよつばきたちから、ほう……とため息がこぼれた。先程までの喧騒が嘘のように、静かに見入っている。

 薄紅の光をまとって咲いたのは、桜の花。風も無く、一片の花びらが離れた。すでに光はその花びらのみに宿り、音もなく舞い降りていく。しかし突然、花弁は強く輝き、ほの赤い光に融けた。そして、人のかたちを取り成す。

 『桜真、桜真』『きゃあ、桜真様ぁ』と、再び辺りがにぎやかになった。

「よっ、と」

 光の中から現れた少年は、椿の絨毯の敷かれた地へと見事に着地した。

「やっぱり今年も僕の勝ちだったね」

 満足げに桜の樹を見上げて笑む少年は、山吹の狩衣をまとい、髪はうなじのやや上ほどで一つに括っている。

「桜真ぁっ」

「ぐぇっ」

 どこから現れたのか、一人の女性が力任せに桜真に抱きついてきた。いや、体当たりしてきたという方が正しい。桜真は彼女を支えきれず、派手に桜の幹に背中を打ちつけて倒れこんだ。

「あいてっ、てて……」

「会いたかったんだよぉ! もう、一日が千秋の思いで……」

 桜真が痛みに顔を歪めるのにも構わず、彼女は満面の笑みで彼の肩に顔を埋める。

紅音べにね姉さん、相変わらずだね……。まぁ、元気そうで良かった」

 『姉さん』と呼ぶが、彼らは姉弟というわけではない。親しみを込めているのと、彼女の姐御肌ぶりで、いつの間にかその呼び名が定着していたのだった。

「良くありません、紅姉ばっかりズルイッ」

 突然甲高い怒号がしたかと思うと、声の主である少女は、力ずくで紅音を桜真から引きはがした。そしてすかさず自分が彼に抱きつく。

「桜真様ぁ、会いたかったですぅ」

朱香しゅか、久しぶり」

 朱香は桜真より幼く、髪は肩の上で切り揃えられている。服装はちょうど神社にいるような、巫女装束であった。それは紅音も同様で、年長の彼女は長い髪が腰の辺りで一つにまとめられている。

「今年もきれいに咲いたね」

 地面の模様となっている椿を一つ手に取り、桜真がほほ笑む。すると、朱香はポッと頬を赤らめた。

「……たく、朱香ったらしようがない子だね」

 紅音は怒っているというより困ったように言いながら、立ち上がって桜真に向き直った。どうやら彼女が暴走するのは、極端に興奮した時だけらしい。

「改めて。おはよう、桜真。今年もあんたがこの北嵯峨で一番に咲いたよ」

「おめでとうございます、桜真様」

「ありがとう」

 桜真は朱花の頭を撫でながら立ち上がり、傍らに立つもう一本の桜の樹を見やった。

「さて、ハルもそろそろ咲くかな」

「きっと朝になっちゃいますよ」

 朱香が冷めた目で言う。

「起きたらまた悔しがるだろうね。桜真、たまには手加減してあげたらどうだい」

「んー、今年はちょっと特別なんだ」

 ハルの蕾から視線を外さないまま、桜真が答える。

「賭けをしていたから」

「賭け、ですか?」

「へぇ、それは初耳だね。何だい、その賭けって」

 紅音の問いかけに、桜真はにやっと口の両端を持ち上げてみせた。

「秘密。それより二人とも、もう休んだ方がいいよ。昨日からずっと起きてたんだろう? ハルが起きたら知らせるから」

 最後の一言があからさまに朱香に向けられると、彼女はカッと赤くなった。先程桜真に褒められて赤面したのとは、また事情が違うらしい。

「なっ……、起こしてくださらなくて結構です! おやすみなさいっ、桜真様」

「うん、おやすみ」

 明らかに不機嫌になってしまった朱香に、桜真はまた彼女の頭を撫でる。

 朱香は眉根を寄せて唇を突き出し、むうっと拗ねてしまった。その仕草が余計に彼女を幼く見せているとは気づいていないようだ。そのむくれ顔のまま、身体が輪郭をなぞるような紅い光を帯びたかと思うと、彼女はふっと消えてしまった。

「素直じゃないよね」

 くつくつと、桜真が楽しげに笑う。

 そんな彼をたしなめるように、紅音はため息をついた。

「意地が悪いねぇ、桜真。でも、珍しいじゃないか、あんたが他人の色恋沙汰に口出すなんてさ。どういう風の吹き回しだい」

「別に。ただ、早く二人がくっついて、ハルの女好きが治ればな、と思っただけ」

「思いっきり逆効果みたいだったけど? ――あやしいねぇ。ひょっとして、好きなヒトでもできたのかい?」

 紅音の言及に、桜真は苦笑して返す。

「ハルと一緒にしないでよ。……ほら、紅姉も早く寝た方がいいって。積もる話はまた今度、朝になったら聞くからさ」

「そうだね……確かにもう限界だよ。ハルが起きるのも見ていたかったんだけど。それじゃ桜真、また明日ね」

 紅音はあくびを一つして、朱香と同じように、紅い光に包まれて姿を消した。

「さあ、みんなも、もうおやすみ」

 桜真は優しい笑みを添えて、周りの椿たちに挨拶をする。返事はない。

「きれいな月だな」

 夜空を仰いだ彼の眼に、月が輝く。空の月、水面の月、瞳の月。一つとして、歪んでいるものはない。

(……嘘はついてないよね)         

 好きな人がいないとは言っていない。そしてこの気持ちは、ハルの常であるような、いい加減なものではないのだから。


 ハルの桜がその花を咲かせたのは、夜明けとほぼ同時であった。二藍の直衣を着ている彼は、身長も桜真よりやや大きく、年は二十歳過ぎ程度に見える。そして、桜真のやや甘い面立ちに比べ、むしろ男らしい「男前」である顔を、限界まで歪めて恨めしげに言った。

「なんでオマエが先にいるんだよ」

「やだな、ハルヨちゃんが寝坊しただけだよ」

「ハルヨって呼ぶな」            

 『ハル』の名前は、正しくは春夜と書いてシュンヤと読む。だが、この森には誰一人として彼をシュンヤと呼ぶ者はいなかった。皆が皆、ハルと呼ぶ。それについては、彼もさして抵抗していない。しかし、桜真が揶揄してハルヨ――「春夜」をそのまま訓読しただけである――と呼ぶことだけは、頑として受け入れないのであった。ちゃん付けなどもっての外である。

「何はともあれ、賭けは僕の勝ちだよ。約束はちゃんと守ってよね、ハルヨちゃん」

 桜真はにんまりと笑う。対照的に渋い顔のハルは、諦めた風にため息をついた。

「わぁかったよ! 手伝う。女を探せば良いんだろ、探せば」

「ありがとう、ハル」

 邪気を払い、どこまでも澄んだ笑顔で、桜真は素直に礼を言った。

 朝陽を受ける池の水面に、嵯峨の山々が映る。「山が笑う」とはうまく言ったもの。緑、黄緑、薄紅。寂しい冬を終え、様々な色合いを見せるその山たちは、確かに春の訪れに歓喜の声をあげているようだ。

 北嵯峨、大沢池おおさわのいけ。眼前に広がる、豊かな嵯峨野の大地は美しく、自然の生命力に溢れている。西北に向かって緩やかに傾斜した野、「嵯峨」はその野を意味する「坂」に字をあてたものだといわれている。

 桜真たちは、この森に棲む木々のあやかし。人間たちには、物の怪とも森の神とも呼ばれる存在であった。


 それは、ちょうど一年の春のこと。

 辺境には辺境なりの風情がある、らしい。昔、時の帝、その名も嵯峨天皇は、その風情を好んでこの地に離宮を造宮した。そして苑池として、唐土もろこし洞庭湖どうていこを模した大沢池が造られたのだ。さらに交通も整備され、牛車が六両も並ぶ道が通った。それ以来、春の桜の見頃ともなると、雅びだかあはれだかを求めて、多くの都人が訪れて来るようになってしまった。桜真たちにしてみれば、いい迷惑である。

 春は喜びの季節。毎年、昼間から森の仲間で楽しく騒いでいたのに、今となってはうかつに人のかたちにもなれない。ただし、褒められるのに悪い気はしなかった。ハルと対になって見事に花を咲き誇らせる彼を、悪評する者はいなかったのだ。

 その春の日も、桜真は大人しく樹に溶けて、楽しげな人々の喧騒を眺めていた。

(暇だ……)

 それにしたって、もう飽きあきだ。誰も彼も、皆同じような顔をして、同じような感想を好き勝手に並べて去ってゆく。いつもは傍らで話し相手をしてくれるハルも、とうに嫌気がさしていたらしい。昨夜のうちに人型になっていたから、今頃は都の貴公子になりきって、花見に訪れた女性を口説き回っているのだろう。

(僕も人型になっておけば良かったかな)

 しかしそうしたところで、別段やりたいこともない。ハルに付き合ってナンパにいそしむ気など毛頭なかった。そんな気だるい気分で視線を池の方に向けると、ふよふよと水の上を滑ってくるものを見つけた。

(――ん?)      

 それは開かれた蝙蝠扇かわほりおうぎであった。鮮やかな牡丹ぼたんが描かれた扇が一つ、春風に煽られて、桜真の木の方へと流れてきた。

(風流だなぁ……)

 ぼうっとその様子を眺めていた桜真の視界で、突然、扇の牡丹よりも鮮やかな色彩を重ねた衣が翻った。

 小袿こうちぎをまとった少女。年は十代半ば程か。整った服装にしては化粧気のない、それでも花のような顔立ち。長い黒髪が濡れないように気を配りながら扇を拾いあげた彼女は、おもむろに、桜真の桜を仰ぎ見た。意志の強そうな、黒目がちの瞳が、勝利の笑みを浮かべていた。

 惹きつけられる。目を、奪われてしまう。

(……きれい、だ)

 美しい。普通、その程度の年の女子なら「可愛い」と表現されそうなものだが、彼女は違った。「美しい」のだ。気品というのだろうか、神聖ささえ感じてしまう。

 心臓が締めつけられるような痺れ。呼吸さえ、忘れた。

「うん、扇を一つ犠牲にするだけの価値はあるわ。やっぱり桜は、このくらい近くで見なきゃ損よね」

 満足そうに頷いて、彼女は独りごちる。

「『春に桜がなかったらどんなに心安らかだろう』、なんて誰かが言ってたけど、桜の咲かない春のどこが楽しいっていうのかしら」

 まったく納得がいかないというように、彼女は腕を組んで首を傾げた。

「女房どの!」

 大通りの方から森の中を駆けてきたらしい男が、彼女に呼び掛けた。どうやら従者の一人らしく、えらく慌てている。彼のやってきた向こうに、停まっている牛車が二台見えた。

「勝手なことをされては困ります。百子はくしさまも、大変心配なさって……」

「申し訳ありません、扇が飛ばされてしまって。ただ今戻ります」

 男が息を切らしながら話すのを遮って、少女は先程までとはまるで違う人間のように、澄ました口調で言った。彼女は従者の男の後に従い、桜真から離れてゆく。

 ――振り向いてほしい、一度だけでいいから。

 桜真が無意識のうちに切に願っている自分に気付くのと、それが叶ったのは同時だった。振り返った彼女は、やはり悪戯っぽく笑んでいた。

 完全に彼女が見えなくなってからも、桜真は彼女の去った森の向こうを、我を忘れたまま見つめていた。

 その日から、花見客の雑踏の中を駆け回って彼女を捜した。だが、すでに桜も盛りを過ぎた頃だったので、それからは人足も疎らとなり、彼女が再びやって来ることはなかった。何度か都まで足を伸ばして捜したが、それでも彼女を見つけることはできなかった。

 そうこうしているうちに季節は過ぎてゆき、木枯らしの吹く頃となった。そのうち冬至になれば、彼らは一種の『冬眠』をしなければならない。そうして、春に花を咲かせる力を森羅万象から分け与えてもらうのだ。花を咲かせてからは特に生命力が溢れ、遠出して遊び回る事もできる。花が散れば、定期的な『睡眠』が必要となってくる。それが、桜真たち桜の精の一年なのであった。

 このままでは、いつまで経っても彼女を見つけることはできない。桜真は焦り、ハルにも手伝ってほしいと頼み込んだ。二人は兄弟のように育ち、常に互いを助け合ってきたのだ。しかし今回に限って、彼はなかなか頷いてはくれなかった。

『だめだ。人間の女に惚れても、いつかお前が傷つくだけだぞ』

『どうしてさ。別に、彼女とどうにかなりたいなんて自惚れたことは考えていないよ。ただ、もう一度会って……話がしてみたいだけなんだ』

 真剣な顔で食い下がる桜真に、ハルはとうとう妥協案を出した。それが件の賭けだったのだ。

『よし。なら、こうしよう。次の春、もしお前が俺より先に咲いたら、手伝ってやるよ。ただし、俺が先に咲いた時には、お前が俺の恋を手伝え。どうだ?』

『本当? 僕、容赦しないからね!』

 考えてみれば、これはもともと公平な賭けではなかった。桜真は、少なくとも今の都が遷都されてからの数十年間、北嵯峨での桜の一番咲き記録を更新し続けていたのだ。


 早春の朝日は、新緑に覆われているこの森を明るくするには少し足らず、辺りはいまだ夜の匂いに包まれている。

「……で? 俺は何をどうすりゃいいんだって?」

 まだ不満が残っているらしい声でハルが尋ねると、桜真はきょとんとした。

「えっ……と。とにかく、あの子を捜しに……都に行ってみようか?」

「阿呆か、お前は! 去年、花見に来たんだろう。それなら、今年も来るんじゃねぇか? それを待ってみた方がいい。行き違いで会えなかったってんじゃあ、目もあてられないぞ」

「あ、そっか……そうだ、ね」

 桜真は焦りすぎていた自分に気付き、反省した。やはり、ハルがいてくれた方がいい。心に余裕ができる。

「だからよ、今年は人型のままで待ち伏せするんだ。彼女が現われたら、すぐ話しかけられるだろ」

「そんなことしたら、怪しまれない?」

 得意気に作戦を練っているハルに、桜真が不安を隠さず言うと、彼はニッと笑って言い切った。

「女をオとすにはな、それくらいの情熱をみせる事が重要なんだよ」

「…………まさかハル、あの子に会って気に入ったら手を出そう、なんて思ってないよね?」

「がっ……だっ、あ、阿呆! そんなわけないだろ!」

 前言撤回、やはり先行き不安だ。

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