「私は断固として欧州の平和を支持する」レオン・ブルム首相はいった。
1936年9月28日。うらぶれた熱が淀む晩夏のウィーンに、芸術の都と称えられた面影はなかった。
古くはローマの植民都市を起源とするウィーンは、ハプスブルクのお膝元として数多の戦乱と戦禍を潜り抜けてきた。
それを物語る中心部の旧市街地には、様々な時代のあらゆる建築様式に触れることが出来る。
旧市街地を取り囲むリングシュトラーセは、かつてオスマン帝国の欧州遠征軍を2度にわたり退けた城壁跡に整備された環状道路網である。
全長数十キロにも及ぶ長大な城壁が撤去されたのは、フランツ・ヨーゼフ老帝時代の19世紀中旬。
斜陽の帝国が威信をかけたウィーン再開発は、1866年の普墺戦争の敗北と翌年の墺洪妥協に伴う二重帝国の誕生により修正を迫られる。
他民族を統治する国体を維持するため、帝室は「文化と芸術の庇護者」であると位置づけることに重きが置かれた。
かくして王政廃止後のパリがフランス語圏の文化的首府であり続けたように、ウィーンは1918年に帝室を追放した後も、中東欧に広がるドイツ語圏の文化的中心であり続けた。
ここでは国籍も宗教も、階級も財産も、性別や人種ですら問題とならない。
老いも若きも、己が信じる価値観を追求する創作者や表現者達が才能だけを競い合う舞台。
リングシュトラーセが「世界で最も美しい大通り」と賞賛された所以は、この人類普遍の精神を体現していたからであろう。
1936年9月17日までは。
現在のリングシュトラーセの内側に広がる惨状から、かつての栄光を見出すことは困難だ。
ネオ・ルネサンス様式の自然史美術館と美術史博物館は破壊され、歴代皇帝が収集した膨大なコレクションは悉く灰となるか略奪された。
ベートーヴェンやモーツァルトなど名だたる作曲家が初演を行い、欧州音楽史にその名が刻まれたウィーン・ブルク劇場は、逃げ遅れたユダヤ系住民や音楽家達の最後の舞台となった。
数多くのノーベル賞受賞者を輩出した名門ウィーン大学は野戦病院として接収されたが、今では臨時の遺体安置所へと変わり久しい。
フランツ・ヨーゼフ老帝時代に建築された旧帝室歌劇場は跡形すらなく、シェーンブルン宮殿の広大な庭園には、十字架すらない土饅頭が延々と続いている。
原形をとどめているのは旧大統領官邸のホーフブルク宮殿ぐらいのものであるが、日毎に赤旗とハーケンクロイツが架け替えられる。
かつての高級住宅街の通りでは蛆の集る死体を土嚢代わりにした戦闘が散発的に続き、不愉快な戦場音楽だけが絶えることなく響く。
「芸術の都」が永遠に失われた衝撃は、瞬く間に世界中を駆け巡った。
各国通信社は「ウィーン略奪」「国家社会主義者の責任を問う」「フン族の来襲再び!」といったセンセーショナルな報道を展開することで、新聞各紙の売り上げに貢献する。
オーストリアの総人口は約660万人、このうちウィーン都市圏の人口は190万。
焼け出された旧ウィーン市民の多くは避難民となり、鉄道網や道路、あるいはドナウ川水系を利用して近隣諸国に流れ込んだ。
チェコスロバキアの西部国境は、ウィーンから直線距離にしてわずか約50キロ程度。
同国政府は早い段階で国境閉鎖を決定したが、毎日のように数千人単位の避難民が流入を続けている。
同じく避難民の流入に直面したハンガリーでは、近隣諸国の反対を無視して予備役動員と戒厳令布告が実施される。
どさくさ紛れに再招集した義勇軍を国境警備に投入したが、こちらも効果は乏しい。
天然の要害たるアルプス山脈を自然国境とするスイスやイタリア、ユーゴスラビア北部に避難民が流れ込むのも時間の問題であると見られている。
周辺国の中で唯一、オーストリアからの避難民受け入れに好意的な姿勢を示したのは、北部で国境を接するドイツである。
総統府が不気味な沈黙を保つ中、ノイラート外務大臣は「我が国には、同じドイツ民族を保護する義務がある」との外務大臣談話を発表した。
英仏伊はノイラート談話を「オーストリア併合の野心を露わにしたもの」と批判、3カ国の外務大臣による共同抗議声明を出す事態となる。
そのためリンツに逃れた臨時政府もドイツ政府への支援要請は及び腰にならざるをえず、北部国境線は奇妙なまでの静寂が保たれていた。
抗議声明を出してはみたものの、旧協商陣営の結束が回復したわけではない。
イギリスは欧州秩序の仲介役として振舞い、フランスは政治的内戦を繰り返し、イタリアの統領は彼らしからぬ逡巡を見せ、アメリカはウィーンの大使館公邸が襲撃されたことに激怒した。
ナンセン国際難民事務所が国際連盟事務局に提出した報告書によれば、1936年度中に予想されるオーストリアからの避難民は「最低でも50万人」である。
欧州のみならず世界の関心は、イベリア半島から中欧に移行した。
*
オーストリア内戦は郵便投資銀行のカール・ブレシュ総裁の自殺により引き起こされたが、まずは前史を語る。
1918年革命によるハプスブルク帝国の解体により、オーストリアは農業国家に転落した。
同国を敗戦国として独立させた協商陣営は、同じ敗戦国であるワイマール・ドイツとの合邦を否定する。
欧州有数の都市圏であるウィーンを支えるだけの経済基盤がない共和国にとり、合邦は唯一の希望であった。
希望が絶えたあと、オーストリアに残されたのは民族主義を基盤とする右派と、社会主義勢力を基盤とする左派だけ。
かくしてオーストリアの1920年代は、左派勢力が多数を占める首都や都市圏と、保守勢力の基盤である農村部の対立により明け暮れる。
1929年の世界恐慌は、弱小な農業経済に依拠していたオーストリアの社会秩序を揺るがした。
恐慌対策をめぐる社会民主主義派と保守派の対立は激化し、1932年2月の社会民主主義者による反政府運動へと発展する。
この反乱を武力鎮圧したエンゲベルト・ドルフース首相は、返す刀で議会を解散。社会主義勢力を弾圧した同志であるオーストリア・ナチス党を「独墺合邦」を認めない立場から弾圧。国名をオーストリア連邦国へと改めた。
経緯を見ればわかることだが、このオーストロ・ファシズムはファシスト・イタリアを範としている。
国内のナチス党を弾圧したことでドイツとの2国間関係は険悪であり、同盟相手を南に求めたものだ。
ドルフースは統領と家族ぐるみの親交を深め、同国をイタリアの勢力圏と見なす統領も積極的に両者の緊密な関係を喧伝した。
このオーストロ・ファシズムはドルフース1強体制ではあるが、形式的には3頭体制が維持されていた。
すなわち大統領ヴィルヘルム・ミクラス。
首相エンゲベルト・ドルフース。
副首相のエルンスト・リュディガー・シュターレンベル侯爵。
この3人が、それぞれ国内の保守派、急進右派、民族派を代表していた。
ミラクスは64歳。ドルフースも所属していた保守政党のキリスト教社会党の穏健派を代表する人物であり、1928年から大統領職にある。
大恐慌以前よりミラクスの政治力は減退していたが、キリスト教社会党を含む全政党が単一与党の「祖国戦線」に統合されると、政治的権能を完全に失う。
それでもミラクスは年長の大統領として、30代が中心のオーストロ・ファシズムの政治家達の過激な行動を遠慮なく叱責。力はないが良識派の国家元首として敬意を払われていた。
ドルフースは1934年に暗殺され、後継首相には盟友のクルト・シュシュニックが就任する。
1897年生まれの39歳であり、こちらも政治指導者としては異例の若さであるが、ドルフース政権の法務大臣として政敵粛清に辣腕を振るった強権政治家として恐れられていた。
副首相のシュターレンベルクは37歳。シュシュニックと共にドルフースの有力な後継候補と見なされていた。
家名からもわかるように、彼は1683年の第2次ウィーン包囲におけるウィーン防衛軍司令官として帝都を死守したシュターレンベルク元帥の子孫である。
共和制移行と同時に貴族称号が廃止された後もフュルストを名乗り続けた生粋の王党派は、先の欧州大戦において過酷な塹壕戦を経験した「塹壕貴族」でもある。
オーストリア国内の復員兵により結成された反共義勇軍「護国団」に参加し、瞬く間に頭角を現す。
議会政治勢力としては弱小の護国団は、キリスト教社会党と連携することで発言力を確保していた。
シュターレンベルクはドルフース体制に協力することで、護国団の勢力を拡大。
そして護国団を合流させる見返りとして、祖国戦線の政治指導者に就任。治安担当の副首相の地位を与えられた。
ドルフース時代、穏健保守派と急進右派と民族派によるトロイカ体制は機能していた。
ところがシュシュニックが首相に就任すると、同国内のナチス党の後継組織である「ヒトラー運動」を巡り、シュターレンベルクとの間で亀裂が生じ始める。
旧中央同盟諸国の反共義勇軍は、共通の敵と戦うために横の繋がりを維持していた。
シュターレンベルク自身も政権就任前のヒトラーと面識があり、幾度か面会している。
ヒトラーは名門貴族かつ塹壕貴族であるシュターレンベルクを取り込もうと勧誘したが、シュターレンベルクは言下に拒絶する。
シュターレンベルクは確かに王党派のドイツ民族主義者であるが、国家社会主義者ではない。
後者を共産主義のコインの裏表と見なすシュターレンベルクは、両者に共通する暴力主義を嫌悪していた。
「ドルフース暗殺事件により外交的に孤立したドイツであれば交渉に応じる」と判断したシュシュニック首相に対して、シュターレンベルクは「そもそも首相を暗殺したのは奴らではないか」「ナチスと外交交渉を進めることは狂気の沙汰である」と批判。
公然と首相批判を繰り返すシュターレンベルクに対して、シュシュニックは司法機関の捜査により旧護国団に圧力をかけた。
両者の関係は1936年5月、ベルリンとの外交交渉が大詰めを迎えていたシュシュニックが、シュターレンベルクを副首相と祖国戦線の指導者の地位から解任したことにより決定的なものとなる。
これはミラクス大統領がドイツとの外交交渉による独立路線を支持したこと、シュターレンベルクが大手保険会社フェニックスの不正会計問題に関与していた疑惑が発覚したことが影響していた。
フェニックス不正会計問題は、簡単に言えば破綻した大手保険会社の会計報告書が改竄されており、巨額の使途不明金が保守系政治家の政治資金として利用されていたのではないかという疑惑である。
真相究明を厳命したシュシュニックの真意が、旧護国団や保守系政治家の粛清にあることはシュターレンベルク解任でも明らか。
かくしてオーストリアがシュシュニック体制に転換しつつあった9月16日。
カール・ブレシュが自殺したことで、事態は急転する。
ブレシュは、北東部のニーダーエスターライヒ州知事から中央政界入りした弁護士である。
旧キリスト教社会党内閣において財務大臣など閣僚を歴任した後、1930年代初頭に首相を務めた。
年齢的にはミラクス大統領に近い穏健保守派であり、フェニックス事件に関与が指摘されたとはいえ特別にシュターレンベルクと親しいわけでもない。
しかし首相の意向を受けた特別捜査団は、旧キリスト教社会党とシュターレンベルクら旧護国団との関係を重点的に調査し、シュターレンベルクの政治生命を絶つべく証拠探しに奔走。
連日の過酷な取り調べに堪えかね、ブレシュは死を選択した。
元首相が自殺しても、シュシュニックは追及の手を緩めるつもりはなかった。
むしろスペイン内戦における反乱軍支援や1940年オリンピック招致におけるベルリン=ローマの連携に危機感を感じていたシュシュニックとしては、国内の反対勢力を抑え込む最後の機会であると判断した節がある。
さて、自殺したブレシュの地元は北東部のニーダーエスターライヒ州である。
そもそも護国団は国軍や警察のように、統一された命令指揮系統があるわけではない。
二重帝国解体後に混乱したオーストリア各州の反共義勇軍による連合体であり、悪く言えば寄せ集めの武装集団である。
社会主義勢力が強いウィーンに対する地方農村部の潜在的な反感を共有していたが、逆に言えばそれ以外の共通点はない。
それをシュターレンベルクの家名と名声により辛うじて纏め上げていたが、それはフェニックス問題により大きく傷いた。
シュシュニックの権威が傷ついた今、護国団を統率するものはいない。
各州の護国団に武装解除を突き付け、大人しく従うならよし。
もし仮に暴発したとしても、所詮は各州毎の義勇軍。
若者の支持を受けるオーストリア・ナチス党のような勢いもない連中を各個撃破することは容易い。
ベルリンに自らが交渉相手に足る存在であると示すことが出来るであろう。
シュシュニックの誤算は、大きく分けて4つ。
ひとつめは、シュターレンベルクの統制力が、予想以上に弱体化していたこと。
ふたつめは、次は自分だと考えた各州の護国団が、3州で同時に蜂起したこと。
みっつめは、蜂起した護国団が、示し合わせたようにウィーン進軍を主張したこと。
よっつめは、潜伏していた社会民主主義勢力が、首都ウィーンで蜂起したこと。
お膝元のウィーンで突如発生した反政府運動は、シュシュニックを動揺させた。
帝政時代から「赤いウィーン」と揶揄されたように、首都周辺は社会主義勢力の基盤である。
短期間での鎮圧に失敗すれば、ドイツ軍が「ドイツ系住民の保護」を名目に北部国境線を突破しかねない。
そして住民が侵略者を歓呼の声で迎えようものなら、オーストリアの解体は避けられなくなる。
ドイツ軍の介入を阻止するためにも、ウィーン首都圏における暴動は早期鎮圧しなければならない。
しかし連邦軍は政治的中立を維持しており、出動を拒否されようものならシュシュニックの威厳が失墜する。
かといって警察力だけでは、到底暴徒に対応するだけの人員を確保出来ない。
「たとえ悪魔と手を結ぼうとも、この問題は国内で決着しなければならない」
総決断したシュシュニックの行動は早かったという。
「ザイス=インクヴァルトを呼び出せ。ナチ党の武装組織を動員して、ウィーンの暴徒どもを黙らせろとな」
かくしてウィーンは焼け落ちた。
*
「北東部のオーバーエスターライヒ州、西部のチロル州、南部のシュタイアーマルク州の各護国団が同時に蜂起したのだな」
「確認された勢力の中で比較的大きなものが、その3州というだけでありまして。小規模な勢力を含めますと30は下らないかと」
「そしてオーバーエスターライヒの護国団の指導者は、ブレシュ元首相と個人的に親しかったと」
総理公邸の執務室。外務大臣の有田八郎からオーストリア情勢に関する報告を受ける平沼騏一郎の表情は、常のそれより陰気なものに見える。
「それが何故、ウィーンが焼け落ちる事態に発展したのか」
「3州の護国団蜂起に合わせて、ウィーン市内で暴動が発生しました」
政党の武装部門は、ナチス党の専売特許ではない。
日本の政党にも院外団なる政界浪人や秘書による実動部隊――選挙の際には運動員となり、他政党との出入りがあれば腕っぷしを振るう輩を抱えており、時には刀や拳銃を持ち出すこともある。
とはいえ敗戦国であるドイツやオーストリアにおける政党の武装部門は、私兵の域を超えた軍事組織としての性格が強い。
オーストリアの社会民主労働党において、それは共和国保護同盟と称していた。
同党は1932年蜂起により弾圧されたが、共和国保護同盟は地下に潜伏して活動を継続していた。
「決起した護国団は地元を固めるのにも苦慮している有様でしたが、護国団がウィーンに進路を向けたという流言が流れたことを好機と見なしたようです。またウィーン市内には約20万のユダヤ系コミュニティが存在しており、ベルリンと外交交渉を続ける現政権に対する潜在的な危機感から、その多くがデモ活動に多数が参加した模様です」
「それで?」
「オーストリア・ナチス党にも派閥が存在します。穏健派を代表するザイス=インクヴァルトは、今回の7月合意締結の立役者であり、ベルリンからもシュシュニック首相からも同国内のナチス党代表として扱われていました。これに対して党内強硬派を代表するのが、ウィーン大管区指導者のヨーゼフ・レオポルト」
「よくある構図だな」
不愉快気に鼻を鳴らした平沼の様子を確認しながら、有田は続ける。
「ウィーンの暴徒鎮圧への協力を求めたシュシュニック首相に対して、レオポルトは同党武装部門による鎮圧を主張しました」
「オーストリア軍と、ザイス=インクヴァルトの中止要請を無視してか」
「はい。そして内閣からの強い要請を受けたザイス=インクヴァルトは、やむなく動員を承諾。自ら暴徒対応を指揮するために現場に赴いたところ」
「流れ弾に当たったか」
かくして「ヒトラー運動」ことオーストリア・ナチス党は、レオポルトら強硬派が実権を掌握。
デモ隊に対する無差別射撃を開始し、共和国保護同盟が主導するデモ隊も対抗。
治安機関では対応不能と見た内閣が軍を投入しようとするも、参謀本部は動員を拒絶。
「以降、ウィーン市内で断続的に市街地戦闘が発生。また旧市街地を中心に火災が多発したことで……」
「もういい。胸糞が悪くなる」
珍しく感情を露わにして吐き捨てた平沼は「2月の帝都不祥事件における、帝国陸軍高官の煮え切らない対応も止む無いものであったか」と考えを改める。
事件当時は「なんと優柔不断な対応であることか」と苛立たしく感じたものだが、下手をすれば東京がウィーンのようになっていたかもしれない。
たとえそれが陸軍上層部の保身から来るものであったとしても、その愚かさが帝国を紙一重で存続させたのなら、何という皮肉なのか。
「1918年の馬鹿騒ぎに乗じて、国家統合の核である帝室を追放した共和主義者の末裔共め。所詮、共和主義者は自分達の利害と理想だけでしか集まれない輩というわけか」
自分達の正義を信じて疑わない主義者に対する不満を一通り言い立ててから、平沼は有田に訊ねる。
「で、三馬鹿のトロイカはどうしたか」
「現在、オーストリアとハンガリーの公使は兼任です。ハンガリーに脱出した谷正之に確認したところ、ミラクス大統領は行方不明。これは生死も分かっておりません。シュシュニック首相は閣僚や軍高官と共に北部オーバーエスターライヒのリンツに逃れました」
「オーバーエスターライヒの護国団はどうした」
「現地の連邦軍に鎮圧されたようです。ウィーンの惨劇を看過した連邦軍に対する批判が高まりつつありますし、北部国境に近い同州の不安定化は連邦軍も看過出来ないと判断したのでしょう」
「まさか、ドイツからの義勇軍を受け入れるつもりか?」
リンツとドイツ国境は十数キロしか離れていない。
平沼が視線を向けると、陸軍大臣の寺内寿一がせかせかとハンカチで頭を拭きながら応じる。
「ベルリンの駐在武官からの報告ですが、ドイツ首脳部の間で見解が一致していないようで。最強硬派はゲーリング元帥ですが、すでにスペインに自派の空軍を中心とした義勇軍を派遣しておりますので、ごり押しをすることが難しい。派遣されるとすれば陸軍からですが、同国参謀本部はジークフリート線の建設に支障が出ると反対の模様」
「ドイツ外務省は、オーストリアへの軍事介入は英仏の介入を招く恐れが有るとして断固反対しております」
寺内と有田が相互に続ける。
「連邦軍情報局はドイツ国境に近いザルツブルグへの臨時首都移転を提案したようですが、シュシュニック首相は拒絶したとか」
「ふん。ヒトラー運動の手は借りても、ベルリンに借りは作りたくないというわけか」
「シュターレンベルク元副首相は、イタリア大使と共にローマに脱出しました」
「今さら貴族の馬鹿息子がどうなろうと知ったことではないが、ドルフースの後継者は自分であると主張したいわけか」
平沼の手元には駐イタリア大使館からの報告書がある。
満面の笑みを浮かべた統領がシュターレンベルクの手を握る写真が添付されており、平沼はイタリア人の顔の部分だけを器用に指で弾く。
有田と寺内の耳には、平沼の言う貴族の馬鹿息子が別の人物を指しているように聞こえたが、賢明にも確認を避けた。
「まさかとは思うが、イタリアの軍事介入はないだろうな」
「同国はドイツよりも兵力に不安を抱えておるようですし」
寺内が首を捻る。
オーストリア政府の後ろ盾を自任するイタリアは、即断即決で知られる統領らしからぬ逡巡を見せていた。
この5月には第2次エチオピア戦争の終結を宣言したばかりのイタリアであるが、現地は旧帝国軍残党が跋扈しており、駐留軍削減どころの話ではない
そもそも黒シャツ隊が義勇軍としてエチオピアに派遣されたのも、正規軍の動員兵力に不安があったためだ。
統領が7月に発生したスペイン内戦への介入を躊躇していたのも同じ理由であるが、イタリア軍情報部長マリオ・ロワッタ少将の提言を受け入れる形で反乱軍の全面支援に転換したばかり。
この状況で軍事介入は考えづらいと寺内は説明する。
「司法を自らのために政治利用するから、このような事態を引き起こすのだ」
総理の発言に、寺内は驢馬面をまじまじと見返す
「俺は寺内正毅の息子であるぞ」という御曹司気質が抜けない癇癪持ちの御仁ではあるが、根は陽気かつ単純であり地頭も悪くはない。
その顔には「帝人事件(※1)の黒幕である貴様が言えた義理か」と書かれてあるが、平沼は気にした素振りも見せない。
面の皮の厚さでは陸軍に引けを取らない有田も、顔色一つ変えずに続ける。
「フランスでは先の総選挙を経て、社会党のレオン・ブルムを首班とした人民戦線内閣が6月に成立したばかり。内政問題に掛かりきりです」
フランスでは社会党のレオン・ブルムを首班とする中道左派勢力の反ファシズム連立内閣が成立したばかりだが、同政権には共産党が閣外協力をしている。
そもそも「人民戦線」という名称と運動方針からして、モスクワの統制下にあるコミンテルン世界大会において提案されたもの。
共産党と連携した左翼政権の発足は保守層と右派を刺激し、対して共産党は自分達を軽視することは許さないと気勢を上げた。
政治的内戦とでも表現するしかないフランスの政局に、新たに放り込まれた火種がスペイン内戦である。
内戦への積極介入を主張する共産党ら左派勢力と、イギリスの不干渉政策に倣うべしとする保守勢力の板挟みに陥ったブルムは「内政問題への更なる注力」を理由に問題を先送りしようとしていた。
その矢先に発生したオーストリア内戦の第一報に、国民議会で演説中のブルムは「私は断固として欧州の平和を支持する」といった。
つまり、具体的には何も答弁していないに等しい。
「欧州の平和云々よりも、国内政局を安定させてから言ってほしいものだな。我が帝国政府が言えた義理ではないだろうが」
平沼が自嘲気味に漏らした直後、総理秘書官の太田耕造がメモを片手に飛び込んできた。
「総理、外務省欧州局から緊急です!オーストリアに軍事介入!」
顔色を変えた寺内と有田に対して、平沼はいつもの仏頂面を取り繕う。
総理に就任してこの方、複雑怪奇な国際情勢に振り回され続けていいるのだ。
今さら多少のことで驚くものかという妙な達観に到達していた老人は、鷹揚な仕草で報告を促す。
「でドイツかね。イタリアかね。まさかフランスだとは言わないだろうな」
「ミラクス大統領の要請を受け、ハンガリー王国が軍事介入を開始しました!」
有田は、平沼の仏頂面に罅が走るのを確認した。
※1:1934年に発覚した疑獄事件。政財官の有力者が数多く逮捕され、時の斎藤実内閣辞職の原因となった。当時から政敵である斎藤を追い落とすために平沼が仕掛けた謀略ではないかと囁かれていた。現在公判中。
「塹壕貴族」は本当に的確かつ使いやすい表現ですね。
他の言葉を考えようとしたけど思いつきませんでした。