【閑話】総親和内閣
平沼騏一郎。
慶応3年(1867)9月28日生まれ。岡山県士族。
明治21年(1888)、帝国大学法科大学(現東京帝国大学法科大学)主席卒業。
同年末に司法省参事官補任として登用され、以降33年間奉職。
明治末期から大正期にかけて司法次官(1911)、検事総長(1912-21)、大審院長(1921-23)、司法大臣(1923)を歴任。
帝大卒の検事出身者として、司法行政と司法権の頂点を極めたのは平沼が初である。
大正2年(1913)、当時の松室司法大臣は裁判官と検察官合わせて233人以上を一斉に更迭。
実際の人事案を手掛けたのは検事総長の平沼であり、その辣腕ぶりから「司法省に平沼あり」と恐れられた。
検察官として大型疑獄事件を多数手掛ける一方、職務権限を通じて関係各方面に「政治的な借り」をつくることに長けていた。
それを裏付けるように、政友会内閣と非政友会内閣の双方で要職を歴任。
政治との繋がりを背景に、司法省内に「平沼閥」を形成する。
現在でも検事総長人事は平沼の了承が必要であるとされるが、本人は否定している。
検事総長在任中の大正10年(1921)、国家主義団体「国本社」を主宰。
同団体は、世界大戦後の社会主義や共産主義に代表される過激思想に対抗することを主な活動目的としていた。
討論会や出版活動を通じて各界有力者との人脈を深めるが、現職の検事総長が政治団体を主宰することを危惧する声が上がる。
この頃より政党政治に懐疑的な立場からの発言が目立つようになるが「時代に逆行する生きた化石」として物笑いの種であった。
元号が昭和になり、枢密院顧問官に列する。
倉富勇三郎議長の右腕として、憲政会-民政党系内閣に批判的な立場から同内閣を批判。
同時に枢密院と政党勢力が決定的な対立に至る事態は慎重に回避した。
犬養総理遭難により政党内閣が終焉すると「先見の明がある憂国の司法官僚」として有力な総理候補に取り沙汰される。
副議長(1926-36)を経て、本年3月より枢密院議長に昇格。
議長就任にあわせて、空手形を振り出してまで平沼昇格を渋り続けた西園寺公望の要請を受け入れる形で国本社を解散している。
正二位勲一等男爵。法学博士。
独身。結婚歴と離婚歴が一度ずつ。子供はいない。
「後継総理に平沼男爵を奏薦したいと考えています」
内大臣の湯浅倉平の発言に、西園寺はポカンと口を開ける。
御年87歳の老公爵が惚けていたのは束の間のことであり、我に返るや否や顔面を朱で染めた。
「ならん!!」
宮中における穏健派勢力の後ろ盾として隠然たる影響力をもつ老人の平沼嫌いは、もはや理屈では語れない嫌悪感に近い。
癇癪球を破裂させた勢いのまま「時代遅れの国粋主義者」だの「身長に反比例して見識は地を這う」だの「俗悪かつ邪な人格の驢馬面男」だの「眼鏡を掛ける奴に碌な奴はいない」だのと罵詈雑言を並べ立てた。
ちなみに寸詰まりで小太りな体形をしている湯浅内大臣は、平沼と同じく丸眼鏡を掛けている。
思うようにならない政局に対する憤りが滲む怒号を聞き流しながら、湯浅は老人の矛先を如何にして逸らせるかについて思考を巡らせた。
「誰かほかに、もっとましなのはおらんのか!」
「おりません。諦めてください」
次の瞬間、湯浅の顔面に西園寺の杖が投げつけられた。
かわせない。現実は非常である。
*
『人国記』なる奇書がある。
鎌倉から室町時代の何処かの時期に執筆された著者不明の風土記であり、全国各地の県民性を解説した冊子である。
内容の妥当性よりも特色溢れる誹謗中傷の多様性で知られており、噂によれば甲斐の陰険因業坊主こと武田信玄の愛読書だとも。
さもありなん。
平沼騏一郎の生家は旧津山藩士の家系であり、旧国区分だと美作の出身になる。
『人国記』の美作から抜粋する。
「百人のうち九十人は万事の作法卑劣にして欲心深し」
いきなりこれである。
「例えば借物をして夫を返納せず手柄のように覚る風儀」
俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの精神。
「片意地強く我は人に勝らんことを思い」
根拠もなく他者より優れていると思い込む。
「過ちありても夫に教訓を加うる人あれば、却而夫を邪智を以て過ち無きが如くに云い」
間違いがあったとしても、とにかく理屈をこねて自分が正しいと開き直る。
「似たることなれば我の過ちを人の過のように仕なして、我が意地を可立とすること上下皆風俗なり」
どさくさに紛れて自分の失敗も他人に纏めて押し付けてしまう。
簡単にまとめると、美作人は「性格の悪い検事」「意地の悪い判事」「質の悪い弁護士」を煮詰めたような性格ということになる。
興津の老人が聞けば「その通り」と膝を叩くこと請け合いである。
さて平沼騏一郎である。
四半世紀近くも司法界に君臨する69歳の官僚政治家を想像してほしい。
おそらく今、貴方の頭の中には厳めしく愛想の欠片もない風貌が思い浮かんでいることだろう。
貴方が想像した顔をダラダラと縦に引き伸ばしてから安っぽい丸眼鏡を掛けさせれば、平沼騏一郎という老人が出来上がる。
平沼の雅号は機外。
「機」は仏教用語で能力素養の意味があり「外」は否定の意味。
「自分は能力素養に欠けておりますよ」という一種の謙遜なのだが、実際の平沼はどうか。
頭の先から爪先まで貫かれた謹厳さは、驚くほどに気位が高い自己を守るためだけの鎧に過ぎない。
仕事に臨んでは準備万端で用意周到、相手を蹴落とす陰湿な執念深さは他に並ぶものがない。
無欲恬淡を装いながらも処世術に長けており、金銭には潔癖だが権勢欲の塊である。
そんな面倒極まりない平沼の政治的スタンスは日本主義や国粋派に分類されるが、その根幹は西欧思想嫌いに依拠しているとされる。
平沼本人に言わせれば、それは間違いではないが正確でもない。
検察官として社会の溝さらいを続けてきた平沼は、自由主義であれ共産主義であれ国家社会主義であれ「外来思想というだけで有難がり、疑義もなく妄信する主義者」に国家と民族を託すべきではないと確信している。
「皇道」を唱える平沼が、国体を頂点とした伝統的価値観を重視していることは間違いない。
逆に言えば、それ以外ならば幾らでも妥協する用意があるということである。
その平沼騏一郎が第34代内閣総理大臣に登板するまでには、紆余曲折が存在した。
3月の馬場蔵相演説による閣内不一致で広田弘毅内閣が総辞職に追い込まれると、政局は半年近く空転を続けた。
西園寺老公が第一線を退きつつある中、後継総理を調整するのは内大臣の湯浅倉平の双肩に託されていた。
湯浅が念頭に置いていたのは、近衛文麿、平沼騏一郎、宇垣一成の3人である。
広田内閣発足当時も有力候補であった彼らは、それぞれ政治的な基盤を有している。
元貴族院議長の近衛、彼は国民的人気があるし。宮中勢力と革新派勢力の支持が見込める。
枢密院議長の平沼、これは平沼閥と呼ばれる司法省関係者と国本社人脈、あとは政友会の親平沼派か。
朝鮮総督の宇垣、これは元陸軍大臣としての実績が申し分なく、民政党内閣の陸相を歴任したことから同党の支援が見込める。
ところが、だ。
近衛は「持病の腰痛が悪化した」という理由で逃げ回り、面会にすら応じようとしない。
平沼は「枢府議長に就任したばかりであるし、議長から総理への横滑りはよろしくない」と尤もらしく聞こえる屁理屈を繰り返す。
やる気満々で手を上げようとした朝鮮総督の宇垣一成は「陸軍の引き起こした不祥事の後に、予備役陸軍大将はどうなのか」という古巣の陸軍からの圧力により潰されてしまった。
ではほかに候補はいないのかと湯浅は政界をぐるりと見渡す。
政党内閣を除いて、これまで最も多くの総理を輩出した官庁は陸海に大蔵と内務、そして外務省である。
陸軍の本命は「虎にでも猫にでもなる」元陸相の林銑十郎であったが、宇垣に反対したために自分の手足を縛っている。
政治嫌いで政治巧者の海軍は「陸の連中は馬鹿だなあ」と嗤いながら、前内閣の置き土産である台湾総督の地位を確保するだけで満足している。
大蔵省。これは馬場鍈一前大臣が広田内閣を潰した当事者であることから謹慎中である。
ちなみに当の本人、全く反省していない。
大蔵省はこれ幸いと大臣方針を否定。物価上昇と失業率を睨みながら段階的に公債発行の縮小に移行する前大臣路線に回帰する道筋をつけつつある。
面の皮の厚さは大臣と良い勝負である。
警察を抱える内務省は大蔵省と正面から喧嘩が出来る唯一の省庁であるが、帝都不祥事件の当時の大臣が醜態をさらけ出したことは政界関係者の記憶に新しい。
外務省。人脈豊富とされた広田が政治音痴を見せつけたあとでは、到底無理だ。
それ以外の省庁では、一つどころか二つも三つも格が落ちる。つまり政治力に乏しいということだ。
霞ヶ関の序列と無縁でいられるのは政党所属の代議士であるが、まだ政党内閣の復活は時期尚早であろう。
そもそも広田内閣の後始末という時点で、貧乏籤の色合いが強い。
帝都不祥事件の処理を誤れば陸軍の不興を被りかねず、蔵相発言により東京夏季五輪大会の招致は敗色濃厚。
近衛の「各方面から睨まれるだけの短命政権は御免被る」という本音の軽口は西園寺老公の耳に届き、興津には季節外れの落雷が落ちた。
後継総理が半年近くも決まらず、湯浅は業を煮やす。
帝都不祥事件に際して即座に武力弾圧を支持した剛直な元警察官僚は、正面突破を図る。
「逃げ回るというのなら、逃げ回れないようにすればいい」
当初から湯浅の本命は、腰の引けた華族政治家や陸軍が反対する朝鮮総督でもない。
まずは興津の老人の支持を取り付けるため「このままでは第2の金融恐慌が発生しかねない」「最優先されるべきは憲政の維持」「再度の不祥事を防ぐ為には、司法界に睨みが利く平沼男爵が適任」と説いて同意を取り付けた。
枢密院議長公邸を訪問した湯浅に対して、平沼は「横滑りはよろしくない」として固辞しようとする。
しかし湯浅も今回は引かず「国家の危機に尻込みするものは、断じて愛国者ではない」と詰め寄る。
本物と鍍金が衝突すれば禿げるのは後者であり、平沼の仮面は容易く剥がれ落ちる。
虚をつかれて口籠る平沼に、湯浅は広田内閣総辞職により先送りされている思想犯観察保護法の見通しを尋ねた。
治安維持法検挙者を対象にした同法案は新聞各紙でも否定的な声が強く、衆議院多数派にしてリベラル色の強い民政党は慎重姿勢を崩していない。
その気になれば緊急勅令なり押し通す方法はいくらでもあると嘯く平沼であるが、湯浅が「下手に政党勢力に配慮する人物」が後継総理になろうものなら「政権運営への協力見返り」を条件に廃案となる可能性を指摘すると顔を強張らせた。
「政局の材料に使われるべき問題ではなかろう。司法省には受け入れがたい」
「他のものに任せられないというのなら、男爵がやられるほかにありませんでしょう」
「……致し方ありませんな」
「おぉ!それはありがたい!」
驚くほど簡単に持論を撤回した枢密院議長の手を包むように握りながら、湯浅は内心呆れていた。
思想案観察保護法をだしに頑迷な老人を丸め込んでしまうというのは、湯浅の発想ではない。
全ては、興津の老人が書いた脚本に従ったまでのこと。
『頑なな一徹者を演じておるだけで、あれは案外とちょろいからの』
そう嘯いて見せた西園寺の人物眼に、湯浅は改めて感服する。
平沼は口元だけを歪めて奇妙に哂いながら、枯れ木のような胸を叩いて断言した。
「そうとあれば平沼騏一郎。全身全霊で職務を全うする覚悟です」
「なんと頼もしいお言葉か」
湯浅は「せめて来年度予算案が成立するまでは持ってほしいものだ」と値踏みするような視線を向けながら、次の総理候補の人選に思いを巡らせていた。
*
かくして8月22日に大命降下を拝した平沼は、組閣本部を枢密院議長公邸の大会議室に設置した。
通常、組閣本部前には各新聞社によるテント村が立ち並び、組閣本部に出入りする人物を取り囲んで人事情報を聞き出す。
ところが議長公邸は宮城内の桔梗門近くに位置しているため、テントを乱立することなど許されない。
取材を制限されたに等しい記者団からは不平不満が噴出するが、平沼は歯牙にもかけない。
組閣とは文字通り内閣を組織することであり、閣僚名簿を宮中に提出しなければ平沼内閣は発足しない。
つまり、ここで躓いてしまえば新内閣の鼎の軽重が問われる結果になる。
これから起こる事態を考えれば、記者団を排除した選択は適切であったのかもしれない。
組閣参謀は人事の調整を行うための舞台装置であり、組閣参謀は調停役である。
新内閣において重要な地位に就くであろう組閣参謀にとり、本番前最後の予行演習という趣が強い。
今回、平沼の組閣参謀は司法省関係者と国本社人脈である。
平沼が組閣本部の責任者に選んだのは、名古屋控訴院検事長の塩野季彦。
自他ともに認める平沼の後継者として日本共産党を壊滅に追い込んだ鬼検事には、司法大臣のポストが予定されている。
とはいえ現職の検事長を政治的な機微に触れざるを得ない交渉に派遣するわけにもいかず、塩野は組閣本部で平沼を相手に茶を飲んでいる。
平沼と塩野に代わり交渉役となるのは元大阪府知事の田辺治道と弁護士の太田耕造
平沼側近である彼らは、番頭役である内閣書記官長と総理秘書官への起用が内定している。
全くの余談であるが、塩野と田辺と太田は3人とも眼鏡を掛けている。
興津の老人に言わせれば「眼鏡を掛ける奴に碌な奴はいない」ということだが。
そして、やたらと眼鏡の着用率が高い組閣本部の主である平沼本人は。
「どいつもこいつも、儂の話を聞こうともせん!」
遅々として進まない組閣人事に対する不満を爆発させていた。
二大既成政党のうち、リベラル色が強い民政党は平沼を嫌っている。
平沼としても民政党にこびへつらうつもりはなかったが、組閣参謀のほぼ全員から反対されたことで渋々と交渉に応じる。
「いやぁ、平沼しゃんは話が分かる人で助かったでおじゃりまする」
妙な語尾で話しているのは大麻唯男。
内務省から政界入りし、政党を渡り歩いて民政党幹事長まで上り詰めた名うての寝業師である。
やはり眼鏡を掛けている大麻と平沼は交渉に臨むが、気が付けば民政党からの閣僚受け入れを飲まされていた。
平沼は地団太を踏み「こうなれば政友会が頼みだ」と思考を切り替える。
政友会の総裁は鈴木喜三郎。
鈴木は元検事であり、かつて「平沼さんの前に大臣にはならない」と啖呵を切った平沼最古参の子分として知られている。
ところが、先の総選挙で落選した鈴木は党内の突き上げに苦しんでいた。
勢いづく党内の反鈴木派は、当然ながら平沼と相性がよろしくない。
何でもありの政党の流儀に苛立ちつつも、平沼はなんとか反鈴木派と交渉することで協力を取り付けた。
「私達を無視するというのなら、政友会は一切協力しませんぞ」
鈴木の義弟は啖呵を切ると、回答を待たずに踵を返す。
「そもそも党内をしっかりと掌握していないのは貴様の責任だろうが!」と癇癪球を炸裂させる平沼を塩野が宥める。
田辺は民政党と、太田は政友会反鈴木派との再交渉に飛び回る羽目になる。
そうしているとカーキー色の軍服を着た坊主頭集団が「粛軍の精神を何と考えているのだ」と組閣本部に怒鳴り込んできた。
普段は陸軍に親和的な発言を心掛けている平沼であるが、この時ばかりは違った。
「貴様ら、軍人勅諭を読み直してこい!」
陸軍省軍務局の佐官連中を、平沼は苛立ちにまかせて一喝する。
すごすごと退去する坊主頭の集団を見やりながら「情けない前任者と異なるところを見せたであろう」と自慢気な平沼。
田辺が「左様でございますな」と合わせている間に、太田が三宅坂に謝罪のために飛び出していく。
この段階で陸軍に横を向かれてしまえば、大命辞退に追い込まれかねない。
そうなれば平沼は枢密院議長続投はおろか政治生命も絶たれかねないのだが「当人の意識が乏しいのが困り者だ」と組閣参謀は額を寄せ合う。
太田と入れ違いで組閣本部を訪れたのは、海軍省軍務局長の豊田副武中将。
こちらは陸軍とは違い海軍の全権委任を受けており、平沼は嬉々として面会する。
「同じ軍務局でも陸軍とは大違いですな」と平沼らしからぬ世辞を口にするが、これは陸軍を罵倒する語彙にかけては海軍随一とされる豊田には逆効果であったらしい。
にこりともせずに本題を切り出す。
「広田前内閣時代、馬場前大臣と海軍予算案について一定の合意を確認しております」
「この点につきまして、新内閣においても善処を願う次第です」
言葉は丁寧であるが、予算案を丸呑みしなければ大臣を出さないという脅迫に、平沼は絶句する。
「白いのは軍服だけで、腹の中身は真っ黒ではないか」と愚痴る平沼を、何故かげっそりとやつれた太田が我慢強く聞いている。
「ご苦労であった」と肩を叩いてきた塩野に、太田が小声で報告する。
「陸軍次官と面会出来ました。次官からは今回の一件は問題にしないと言質を」
「陸相人事は?」
「事後処理や戒厳令解除を考えると、寺内陸相続投が望ましいと」
「よし、これで懸案が「あの腸の腐った糞野郎どもが!!」
塩野と太田があっけにとられて視線をやると田辺が怒鳴り散らしている。
短命政権を見越した各省庁が「謹慎中」の大蔵省に右を倣えと洞ヶ峠を決め込み、まともな人員を組閣本部に出向させないことに激怒しているのだ。
こんな具合に各勢力が互いの足を引っ張るのだからたまったものではない。
気分が滅入り始めた平沼は、止めておけばよいのに新聞各紙を広げてしまう。
組閣本部から締め出された意趣返しか「第二の清浦圭吾」として悪玉扱いした記事が目に飛び込む。
「どうして近衛公爵ではないのだ」と露骨に書く政局記事に、平沼の額に青筋が走る。
平沼の後任として枢密院議長に転じた華族政治家は、最近はゴルフ場を梯子しているという。
抑えきれない殺意を漂わせた平沼が「腰痛は如何ですかな」と嫌味をぶつければ「リハビリテーションというやつですよ」とちょび髭を撫でて笑い返してきた。
思い返すだけで胸糞が悪くなってきた平沼は、新聞をぐしゃぐしゃにして投げ捨てた。
少しでも腹立ちを抑えるために、平沼は紫煙に頼る。
何のことはない。今の自分が置かれた状況は広田内閣と何も変わらない。
前内閣の外務省が司法省に置き換わったということだ。
だからこそ陸軍省の煩い連中もいったんは大人しく引き下がったのだろう。
それでも頼り過ぎれば「司法ファッショ」と批判を浴びかねない。
とてもではないが、長年温めていた経綸を実行するどころではない。
とはいえ権勢欲だけは人一倍ある平沼は、むざむざ地位を明け渡すつもりなどない。
平沼は組閣参謀と合議を重ねた。
*
平沼が内閣名簿を宮中に提出したのは、大命降下から半年近くが経過した9月10日であった。
議会対策のために政党閣僚を受け入れ、政務次官と参与官における各勢力のバランスに気を使い、財界に配慮しつつも陸軍にも受けのよい賀屋興宣を大蔵大臣に抜擢して清新さを演出しつつ、霞ヶ関の日和見連中を引っ張り出す。
この半月にも及んだ悪戦苦闘の末にたどりついた、平沼と組閣参謀達による渾身の人事である。
新聞社説では「第二次清浦内閣」「革新の欠片もない反動連立」と散々に叩かれたが、最早知ったことではない。
「私の内閣の最大の使命は、先の帝都不祥事件の再発を防ぐことである」
「万民輔翼の精神を基礎とした政治、そのためには分裂した国民輿論の統合が肝心である」
「悪戯に互いの違いをあげつらうのではない、つまり総親和の精神が肝要である」
記者団に不愛想に言い捨てた平沼の態度は、総親和とは程遠い。
その直後の9月15日、ベルリンでIOC臨時総会が開催される。
事前の予想通り、東京は夏季五輪大会招致を逃した。
予想に反していたのは、開催権を獲得したのがローマであったということだ。
どういうことだと詰め寄る記者団に、平沼は「複雑怪奇な新状況が生じた」などと適当な言葉で煙に巻く。
多くの日本国民はローマが三度立候補するとは予想だにしておらず「イタリアの裏切りを許すな」と激しく反発。
日比谷公園を皮切りに、全国各地で反イタリア国民大会が相次ぐ事態となる。
お陰で、発足間もない内閣の政治責任を追及する声は殆ど見られない。
旧国本社の報道関係者を通じて、各方面に根回しをしておいた甲斐があったというもの。
「御調子者が立候補してくれたお陰か。むしろ感謝せねばなるないよ」
思惑通りに事が展開したことに、平沼は執務室でほくそ笑む。
臨時会で行う施政方針演説原稿に赤鉛筆で訂正を入れていると、太田秘書官が飛び込んでくるのが見えた。
「外務省欧州局から緊急です。オーストリアで内戦勃発」
総親和は遠い。