「高橋翁の屍を越える覚悟があるのか」賀屋理財局長はいった。
昭和11年(1936年)5月3日。帝都東京は、不穏な空気に包まれていた。
同年2月20日に実施された第19回帝国議会総選挙は、岡田啓介(海軍出身)内閣の与党である立憲民政党が勝利した。
単独過半数には及ばないが、民意が岡田内閣続投を支持したのは明らか。
それを裏付けるように、岡田内閣と対決姿勢を強めていた立憲政友会は議席を大幅に減らし、鈴木喜三郎総裁が落選する歴史的大敗を喫した。
岡田内閣の長期政権化と内閣改造もささやかれ始めた2月26日。雪が降りしきる帝都東京において、軍事クーデターが発生した。
首謀者は岡田内閣続投に反対する陸軍皇道派の青年将校であり、彼らが「君側の奸」とみなした政府首脳や軍高官を殺害。天皇親政による軍事政権樹立を求めた。
反乱自体は早期に鎮圧されたものの、穏健派の有力者が殺害された影響は大きく、日本政治は再び漂流を始めた。
事件の責任を取り総辞職した岡田総理の後継には、貴族院議長の近衛(文麿)公爵や朝鮮総督の宇垣(一成)予備役陸軍大将を有力視する声が高かった。
宮中による各政治勢力の調整の結果、岡田内閣の路線継続という暗黙の了解を背景に、大命は外務大臣の広田弘毅に降下した。
広田は福岡県出身の58歳。東京帝大法学部を卒業後、高等文官試験外交科を首席で合格した生粋のエリート職業外交官である。
見た目通りの朴訥とした人格者として知られる広田は、貧しい石工職人の息子から苦学力行の末に現在の地位に上り詰めながら、苦労人にありがちな人格的な頑なさとは無縁であった。
外務省では亜細亜派の雄であった山座円次郎門下として省外と幅広い交遊関係を築いており「傲岸不遜な外務官僚の中では話せる男」として評判が良い。
外務大臣として陸海軍の対ソ強硬論を抑え、支那大陸との協和外交を掲げた対話派のスタンスを維持したことから宮中の信任も篤い。
広田への大命降下は、誰からも歓迎された。
既成政党と経済界は、広田が岡田内閣の経済財政政策を継承すると予想した。
革新政党や社会主義者達は、苦労人の広田は経済弱者を重視した社会主義政策を実行すると期待を寄せた。
国粋主義者は、欧米列強の苛烈な植民地支配に素朴な反感を持つ亜細亜主義者の広田に共通点を見出した。
不祥事を起こしたばかりの陸軍は「押せば引っ込む」広田は与し易いと考えた。
海軍は、皮肉なことに陸軍と全く同じ理由でロンドン条約失効後の建艦予算が通りやすいであろうと算盤を弾いた。
実際の組閣が進むにつれ、広田への過度な期待は雲散霧消した。
誰からも好かれる人格者の広田は、誰からも強く支持されなかった。
既成政党は、広田が組閣人事で軍部の横やりを受け入れたことに失望した。
経済界は、電力企業国有化を筆頭に「産業統制」を重要課題に掲げた新内閣に対する警戒に転じた。
社会主義者は、広田人事が既成政党に融和的過ぎると不満を持った。
国粋主義者は、協和外交を継承した広田への批判を展開した。
自らの政治的要求を実現させた陸軍は広田の国意識の希薄さに不安を募らせ、海軍は陸軍に対して弱腰な広田の事なかれ主義に愛想をつかした。
広田が信頼を置けたのは古巣の外務省だけであるが、政局音痴の外務省に政治工作は期待出来ない。
「新内閣はきわめて権力基盤が脆弱であり、決断力に乏しい」と結論付けられるまでに、さしたる時間は必要なかった。
紙面では依然として「苦労人広田」を持ち上げる風潮は続いていたが、その努力も虚しい。
そのしわ寄せが最も早く訪れたのは、政治的な庇護者を失った大蔵省である。
明治の御代より日本の国家財政と金融政策の最前線に立ち続け、政界にも財界にも軍部にも睨みが利いた高橋是清(1854-1936)前大蔵大臣は非業の死を遂げた。
各省庁はこの機を逃すまいと、予算要求を次々と突きつけた。
組閣にもたつく新総理に期待出来ないとなれば、市場関係者の注目は新大蔵大臣の発言に集まる。
ところが、新大臣は広田よりも話にならなかった。
大蔵大臣に起用された馬場鍈一は、元大蔵官僚でありながら自他共に認める積極財政論者であり、市場関係者の間でも一定程度の路線変更や修正は織り込み済みであった。
ところが、馬場は就任会見で前年度より高橋前蔵相が実行していた公債漸減路線の転換を明言。
高橋路線の完全否定に等しい行為は、市場関係者のみならず大蔵省当局者の心胆を寒からしめた。
「このままでは、日本経済はとんでもないことになるぞ」
広田内閣発足から約1ヵ月。第69回帝国議会(特別会)の開会が目前に迫る中、霞ヶ関の大蔵省理財局長室において、2人の高級官僚が引継ぎの挨拶をしていた。
1人は賀屋興宣。主計局長から転じたばかりの新理財局長であり、その巨躯を椅子に沈みこませながら苦悶の表情を浮かべている。
もう1人は前任の理財局長である広瀬豊作。すでに賀屋の後任として、主計局長への内示が出されている。
花形部署への大抜擢であるにもかかわらず、広瀬の顔色は賀屋と同じように冴えない。
旧加賀藩士出身の広瀬は、痩身長躯に口髭を生やしていることもあり、どことなく殿様顔をしている。
共に大正6年(1917年)の大蔵省入省組、互いの性格も仕事も知り尽くした間柄であるだけに、言葉に遠慮がない。
挨拶もそこそこに、賀屋は今回の人事に対する懸念を口にした。
「実現したい政策があり、そのために人事を固めたいという新大臣の意気込みは理解する。理財畑一筋の貴様を、主計局長に持ってきた理由もわかる。だが悪戯に弄ればよいというものではないだろう」
「私には主計局長の任は重いというのかね?」
「そもそも貴様は3月に理財局長になったばかりではないか。準備運動もせずに全力疾走をすれば、如何に健康な人間であっても体を壊す」
ムッとして眉を顰める広瀬に対して、喘息持ちの賀屋は荒い息を吐きながら釘を刺す。
「高橋翁が公債の市中消化と海外の債券市場の動向にどれほど細心の注意を払っておられたか、理財局の貴様が知らぬとは言わさんぞ」
省庁の幹部人事は引き継ぎを考慮した上で、数ヵ月前には内示が出るのが慣例である。
3月付で高橋前蔵相の人事が行われたばかりなのに、すぐさま人事に着手した馬場新蔵相の意気込みは評価するが、事の成否とは別であると賀屋は断じた。
馬場新蔵相の長年の持論は「国防拡充と地方振興」である。
表向きは高橋路線の継承を掲げて公債発行乱発に反対する姿勢を示してはいるが経済界も債券市場も、足元の大蔵省内ですら大臣の言葉を信用していない。
例えば大臣の掲げる看板政策に「一県一行主義」、すなわち都道府県単位の銀行再編計画がある。
資本増強による経営基盤強化という尤もらしい理由とは別に、新規公債発行の引受先として念頭に置いていることは明らかだ。
現状、日本銀行引き受けを除けば、国内債券市場で流通する公債の大部分を消化しているのは財閥系の5大銀行(三井、第一、三菱、住友、安田)である。
彼らは既成政党と密接に結びついており、馬場蔵相の金融財政政策には批判的な姿勢を崩していない。
馬場としては大蔵省銀行局主導の銀行合併を後押しすることで、財政政策の自由度を高めるねらいがあるのだろう。
理財局は国有財産の管理を主な仕事としており、その中には政府発行の金銭債務である公債の管理業務も含まれている。
また金融機関を監督することで、金融行政全般にも幅広い影響力を持つ。
それを踏まえれば、国債課長も務めた理財畑一筋の広瀬を、理財局長就任から1か月もたたない短期間で予算編成を担う主計局長に据えた馬場人事は、わかりやすいといえばわかりやすい。
「確かにわかりやすさは大切だろう。だがな、丸裸でジャングルに飛び込むとあらかじめ予告するのは、無謀というよりも自殺行為だ」
賀屋の不満は、自らが理財局長に「格下げ」されたことばかりが理由ではない。
一連の馬場人事では、広瀬の前任の理財局長である青木一男の対満事務局次長への移動を皮切りに、主計畑の多くが大蔵省中枢部から外されている。
確かに高橋路線の維持を求める彼らは、馬場体制の不穏分子たりえる存在である。
だが同時に「泣く子も黙る主計官」として、各省庁と渡り合ってきたのも彼らなのだ。
積極財政を掲げる新大臣の下、政治の意思に基づいた予算の優先順位を定める能力を有するのは誰か。
政策的一致を優先する馬場人事は、大蔵省全体の政治力と発言力低下につながるのではないか。
賀屋の懸念は、つまりそこにあった。
「金本位制問題を始め、これまでの主計局に問題がなかったわけではない。算盤勘定は重要だが、それ自体は何も生み出さないという馬場大臣の批判にも一理あるだろう。だからといって、ブレーキのない車が使い物になるか」
「貴様にしては、随分と情緒的な物言いをするな」
「茶化している場合か。この機会に予算要求を飲ませようと他省庁は手ぐすねを引いているというのに、肝心の此方の方針が固まっていないのだぞ」
「いや、方針は決まっている。国防拡充と地方振興を優先して……」
「理屈と名分はどうにでもなる。頭に国防と地方がつけば、中身を精査せずに予算措置を講じるつもりか?」
賀屋の反論に、広瀬は口を閉ざして黙り込む。
ここで反論しないのは職務に対する誠実さではなく、政治的な弱さとして評価されるだろう。
人間としては好感が持てるのだがと、賀屋は独りごちた。
「このままでは来年度予算編成は取られるものだけ取られて、相手の言い分を一方的に飲まされるだけに終わるぞ。債券市場に巣食う沖仲仕のやり口は、貴様が誰よりもよく知っているだろう。悪性インフレーションにより国民経済が窮乏した場合、新聞から悪者にされるのは無能な大蔵省ということになるぞ」
「しかし、これは新大臣の看板政策だ。今更方針の撤回は出来ない」
「貴様の自己弁護など聞きたくはない。高橋翁の屍を乗り越える覚悟があるのか。それを問うているのだ」
論難を続ける賀屋に、広瀬も色をなして机を叩いて反駁する。
「賀屋、私も国債担当者として高橋翁の薫陶を受けた人間だぞ!言うに事を欠いて、それはないだろう!」
喧々諤々の議論を繰り返す賀屋と広瀬であるが、既に馬場蔵相は高橋前蔵相を支えた主計局中心の人事体系を、政治の意思として否定している。
組織の方針が人事を通じて固まった以上、官僚機構は新たな方針のもとで予算を作らねばならない。
それを承知しているが故に、2人は互いの議論の虚しさを感じてもいた。
国防拡充や地方振興が不必要であると2人が認識しているわけではない。
実際、高橋前大臣時代にも両分野には多くの予算が投入されている。
問題は、日本企業の債券が海外市場に依存している割合の高さである。
例えば民間電力企業の大型発電所や港湾設備改修などの大規模な事業計画における債券発行は、ニューヨークやロンドンなどの海外市場抜きには成り立たない。
産業活動に欠かせない屑鉄や石油も、輸入に依存している。
債券利払いや代金支払いのために貴重な外貨を費やし続ける中で、現行を上回る公債を前提とした大型予算を編成するとなると、外国為替市場への影響は避けられない。
ひいてはそれは、高橋翁の残した遺産を否定する事になりかねない。
「とにかく新大臣も明言しているように、歳出削減の努力は続けるつもりだ」
「蛇口をひねりながら底の抜けた風呂に水を注ぎこむようなものだが、どこをだね?」
「ただでさえ粛軍でピリピリしている陸軍か?またぞろクーデターを起こすとでも言いかねないぞ。海軍?山本五十六に話が通じるとでも?農林省か、鉄道省か、内務省土木局か。どこでもいいから新規公共事業をやめろと大臣に進言するつもりか?それこそ地方振興を重視する大臣にケンカを売るようなものだ。貴様の首が飛ぶぞ」
「そんなことは百も承知だ!」
歳出改革の政治的なハードルを列挙する賀屋に、広瀬は顔を朱に染めて反論する。
賀屋はふてぶてしい態度のまま、椅子に体を沈めて嘯いた。
「どうせ削ったところで、大臣があれでは焼け石に水だ」
「だが、それをやらねばいかんのが今の私の職責だ」
広瀬は自分自身に言い聞かせるように言った。
「今はどこもかしこも、予算増額の好機という熱にうかされている。だが債券市場の混乱は、間違いなく実際の経済指標に跳ね返る。その時こそ、大臣に高橋路線への修正を迫る好機だ」
「馬場さんがおとなしく聞き入れるタマとも思えんがな。それに一度緩んだタガが、そう簡単に戻るものか。何より悪性インフレで泣くのは貴様個人ではない。自分が血を流さないのであれば、いくらでも耐えろと言えるだろうよ」
「……だからこそ、象徴的なものがほしいのだ」
たとえ自分の首が飛んだとしても、自分の職務を与えられた範囲で全うする。
その覚悟を広瀬の声と表情から感じた賀屋は、それ以上の追及を控えた。
賀屋の視線の先では、広瀬が首に手をあてながら唸るように思考を巡らせている。
「あの時、確かに主計局は警句を出していた。それが国民に伝わるような象徴的な歳出削減があればよいのだが」
「呉海軍工廠で新造ドックをつくっているという、例の海軍の一号鑑とやらはどうだね?」
「それは貴様個人の私怨だろうが」
ロンドン条約会議の遺恨を持ち出す同期に顔を顰めた広瀬であったが、ふと賀屋の背後に置かれていた局長室用の新聞ラックに視線が留まる。
今朝の朝刊。東京朝日新聞と國民新聞の間に挟まれた東京日日新聞の一面には、次のように印字されていた。
- 牛塚東京市長、五輪競技場月島案の撤回を拒否。副島伯爵と再会談へ -
「あった」
「は?」
*
確かに競技場問題について「大会組織委員会への政府支出を見直す材料になるのではないか」と馬場さんに提案したのは私で間違いありません。
あの時は招致レースの最終版、対立都市のヘルシンキに負けまいと最後の大盤振る舞いをしていた時期です。
確か東京大会に参加した国の代表団には、渡航費に滞在費に運営資金まで、総額十数万にも及ぶ金額を援助するいう報道もありました。
帝国大学を出た新入社員の初任給が、せいぜい80円前後の時代ですよ?
それもまったくこちら(大蔵省)に相談もなく次々とぶち上げて、それが新聞報道によって事後報告をされるんですから、たまったものではありません。
大蔵省も、私個人も相当頭にきていました。
嘉納(治五郎)先生を始め、招致活動に関わられた方々の努力を否定するわけじゃありませんがね。
ベルリンの新競技場については、大会開催前から大変な話題になっていました。
それまでの大会では、10万人が収容可能な競技場なんて必要ありませんでした。もっとのどかな、こう牧歌的なものでしたからね。
それをヒトラーが、ナチス政権の国威発揚に使おうと金と人員を湯水のごとくに注ぎ込んだものだから。まさに独裁国家ならではの金の使い方です。
アジア初、そしてベルリン大会後の初めての大会。これが最後の最後まで響きましたね。
東京大会の招致は、アジア初の夏季オリンピックということになります。
前回大会よりも規模を縮小するようなことは、政治的にも不可能なんです。
そうすれば「アジア初のオリンピックはあの程度か」と、後世まで指をさされることになりますからね。
競技場迷走の本質は、トップダウンによってヒトラーが推進した巨大プロジェクトを、集団による協議と合意を優先する日本において、短期間のうちにぶっつけ本番でやろうとしたことにあったのでしょう。
そんな大規模大会運営のノウハウは、ドイツを除けばどこにもありませんでしたし。
東京市長の牛塚(虎太郎)さんは、隅田川河口の月島埋立地……佃島と石川島の埋め立て地を拡大した区画です。ここに新競技場を立てるべきだという主張でした。
10万人単位を収容する巨大な競技場を作るならここしかないと。東京市としては月島以外では責任を持てないと、それはもう強硬な姿勢でした。
おそらく埋め立て地周辺の再開発もにらんだ再開発構想があったのでしょう。組織委員会への支出が膨らみ続けていたことに関して、東京市議会から突き上げを食らっていたようですし。
一方、招致活動の実務を担った大日本体育協会事務局と、国際オリンピック委員会の委員であった副島(道正)伯爵は、明治神宮の外苑部に新たな競技場を作るべきだという考えでした。
ここはご存じの通り旧青山練兵場跡地があった場所なので、土地の広さは文句がありません。埋立地ではないので地盤もしっかりしています。
ところが神宮外苑案に、神宮を管轄する内務省神社局がノーをつきつけました。
注文というよりも、ほとんど一方的な中止命令ですね。「そのような建物は、神宮の外観を損ねる」と。交渉の余地もなかったそうです。
あくまでオリンピックは皇紀二千六百年記念式典に付属した記念行事のひとつである。そのために神宮外苑を再開発するのは筋が違うと。こういう理屈ですね。
神宮外苑案には文部省も同様の理由で反対に加わりました。
もっとも文部省には、五輪行政を自分の管轄におきたいという思惑があったようですが。
そんなわけで文部省は競技場についても独自の代替案を出してきたんですが、委託した学者先生の案が、特別会前に新聞にすっぱ抜かれました。
読んでびっくりしましたよ。なんと、代々木の練兵場に立ててしまえという内容でしたから。
これが陸軍省との調整もなしに一方的に出てきたものだから、当時の寺内(寿一)陸相が激怒しましてね。
ああいう裏表のない性格の人だから「余暇を持て余して飛んだり跳ねたりする連中のために、帝国軍兵士が命を懸けて教練している場所を差し出せとは、何事か!」と。本気で怒るんですね。
これがIOCに聞こえて、酷く不興を被ったそうです。「日本はメインの競技場問題も決着をつけられてないじゃないか」とね。
止めが例の馬場演説です。
2・26事件後の特別会として召集された帝国議会は、5月4日から3週間程度の会期予定でした。
冒頭に広田総理の施政方針表明があり、内閣の重要政策を列挙するとともに事件の真相究明について約束をされました。
続いて馬場蔵相の財政演説です。
あの馬場さんのいつもの調子で、進軍ラッパのような威勢のいい演説を誰もがうんざりしながら聞いていましたよ。
「歳出改革の努力」についても触れられていましたが、誰も本気には受け取っていませんでしたね。
そうしていたら突然「大会組織委員会に対する支出を、ゼロベースで見直す」という発言がありまして。私も自分の耳を疑いましたよ。
……私が原稿に書いたんじゃないか?
まさか。そんなことを書けるわけがありませんよ。まったくの馬場さんの独断です。
恐る恐る閣僚席を確認して見たんですが、寺内陸相と潮(恵之輔)内相が怒り狂ってるんです。
前者は赤鬼、後者は青鬼でしたね。
その横では平生(釟三郎)文相と広田総理が、そろって呆然としておられたので「あ、これは事前に相談してないな」と。
言い訳になりますが、私は確かに競技場問題が組織委員会へのけん制材料になると考えてはいました。さんざん大盤振る舞いをした招致活動の後始末を、どうにかしなければという問題意識からです。
寄せ集めの大会組織委員会に嫌われ役となる締め付けが期待出来ない以上、こちら(大蔵省)でやるしかないだろうと。
ところが、いきなり馬場さんが敵の総大将を目掛けてドン・キホーテの如く突っ込んだものだから。
本会議場がしばらく静まりかえりまして、直後にとんでもない騒ぎになりました。
考えてもみてください。3月にIOC委員長が来日したばかりで、臨時会が閉会した後の6月には日本の代表団がベルリンで開催されるIOC総会に出発する予定でした。
その直前で「これ」ですよ。
畏れ多くも天皇陛下にも御裁可を頂いている内容を、大臣がいきなりひっくり返しちゃった。
なのに当の馬場さんは、平気の平左で演説を続けている。
2・26事件の真相究明なんか、どこかにとんでいっちゃいましたね。
- 広瀬豊作先生回顧録より -