第九十五話
ヘンリー大司教の屋敷を出て私とオスヴァルト殿下は馬車に乗り込みます。
しばらく私たちは無言で外の景色を眺めていました。
「なぁ、フィリア殿」
「あ、はい。殿下、どうかいたしました?」
しばらくお互いに無言でしたがオスヴァルト殿下に声をかけられました。
「いや、さっきの発言だが。珍しいと思ってな。エリザベス殿の話を出せばヘンリー大司教が怒るのは読めていただろう?」
あのときの物言いに違和感を抱かれたのか、オスヴァルト殿下はトーンを少し抑えて私の心のうちを聞き出そうとされます。
自分もあのような態度というか、言い回しは出来ればやりたくはありませんでした。
「言い方は良くなかったと猛省しております」
「そうか……」
「しかし、あのやり取りで私はヘンリー大司教が遺言を書き換えたのは、間違いないと確信しました」
「なんだって!? それは真か? フィリア殿」
嫌な言い回しを敢えてしたのも、すべてはこのため。
ヘンリー大司教の感情を引き出して、真実をあぶり出すためです。
彼は私との対話で何度かミスをしました。今日まで私は僅かにですが遺言は書き換えられてなどおらず、聖女を辞めて教皇になる他は選択肢がなくなる可能性についても視野に入れていたのです。
ヘンリー大司教の演技や嘘が完璧ならば私はその僅かな可能性への恐怖と未だに戦い続けねばならなかったでしょう。
この恐怖が取り除かれたことは私にとっては大きなことを意味しておりました。
もう迷わずに前にだけ進むことが出来る。その精神的な余裕が出来たのです。
あとはヘンリー大司教に動かぬ証拠を突きつけるだけでした。
「ヘンリー大司教はあの会食のときに失言をしています」
「うむ。俺もフィリア殿に対する物言いには腹を立てたが、そのことか?」
「いえ、そうではありません。自分が書き換えたという自白にも等しいお話をされていたという点についてです」
「うーむ、そんなことを言っていたかな? まるっきり覚えがないぞ」
まず、私はヘンリー大司教の犯したミスについてオスヴァルト殿下にお話することにします。
彼は巧みに私のことを煽りながら不快感を抱かせようとして、話を終わらせようとしていました。
ですが、それに夢中になりすぎていたのか自分のことを指摘されるとその返答は些かお粗末になりがちでした。
「まず、私が教皇様の遺言はヘンリー大司教に書き換えられた、と指摘した際。彼は自分の名前を私の名前に書き換えるなどするはずがないと返答しました」
「ふむ。それって何か変なことか? それだけじゃヘンリー大司教が嘘を付いているか分からん気がするが」
「いえ、本当に書き換えていないなら、“自分の名前を私に書き換えた”とは言わないはずです。ヘンリー大司教は知っていたのですよ、本物の遺言状には自分の名前が後継者だと書かれていたことを」
「――っ!? ん、だってそれはフィリア殿が……、いや言っていないな。フィリア殿は“ヘンリー大司教の名前を書き換えた”とは言ってない!」
遺言にヘンリー大司教の名前が本当は書かれているというのは憶測でしかありませんでした。
なんせ、遺言状が渡されてそれが発表されるまで、その内容を見ることが出来る人物はヘンリー大司教しかいないのですから。
ですから、私も遺言にあった「フィリア」という名が書き換えられたとしか彼には言及していなかったのです。
なのに、彼はその返事をする際に「ヘンリーをフィリアに書き換えた」という事実を否定されました。
なぜ、そんなことが言えたのか。それは彼が本当は遺言状には自分の名前が書かれているということを知っていたからに他なりません。
「そして、彼はもう一つのミスを犯しています。私がエリザベスさんの名前を口にしたときです」
「あ、あのときか! あのときはヘンリー大司教が怒っていて……。そっちに気を取られたから何といったかよく思い出せないな」
「あのとき、彼は“エリザベスは関係ない”と仰ったんですよ」
「あー! そうだった、そうだった。んっ? それが何か変なことか? ヘンリー大司教は妹のエリザベス殿のことを愛していたし、巻き込まれるのを嫌がったんじゃ……」
殿下の仰ったようにヘンリー大司教は妹を愛するがゆえにそんな言い回しをしたのでしょう。
しかし、その言い回しを裏返すとある事実が浮かび上がります。
「オスヴァルト殿下、“エリザベスは”関係ないと言われたということは、逆に言えば“ヘンリー大司教”は関係ある、と言っているように聞こえませんか?」
「んっ? あ、ああ。言われてみれば確かに! 本当に事実無根のことを問われれば“自分もエリザベスも関係ない”と怒りそうなものだ」
つまりあのとき、咄嗟にヘンリー大司教は溺愛するエリザベスさんを庇ってしまいました。
真実として遺言を書き換えたこと自体が事実無根ならば、その事実を否定すれば良いのにも関わらず、エリザベスさんが関わっていないということを強く主張したのです。
これは過剰反応ということでしょう。遺言を書き換えた彼だからこそ、エリザベスさんを庇いたいという気持ちが強く出たのです。
「ヘンリー大司教のこの二つの発言によって私は彼が遺言を書き換えたのは間違いないと確信しました。つまり、私が教皇にならなくてはならない、という命令が不当だと胸を張って主張が出来るようになったのです」
「驚いたな。あの短い会話でそこまで推理するとは」
「リーナさんに借りた推理小説が役に立ちました」
論理的な思考で相手の矛盾点を探るには、まずは相手に語らせて、そして感情をさらけ出させる。以前、私に趣味がないという話をしたときにリーナさんが面白いと勧めてくれた小説の描写を思い出しながら、私はヘンリー大司教との会話を進めました。
「ああ、あれか。あの“号泣探偵シリーズ”か。泣きながら犯人を捕まえる探偵が出てくる。リーナ、俺にもあれを勧めていたな」
「ええ、それです。一度読むと止まらなくなってしまいまして」
「そっか。フィリア殿が面白いと言うなら俺も読んでみるかな。……あれ?」
リーナさんのオススメの本の話をするとオスヴァルト殿下はポンと手を叩いた後に、不思議そうな顔をして首を傾げました。
そして、ジッと私の目を見つめます。久しぶりにこんなにじっくりと顔を合わせたような気がしますね。
「……もしかして、フィリア殿はわざとヘンリー大司教を怒らせたのか?」
「ええーっと、はい。わざとです」
「はっはっは! そこまでフィリア殿の手のひらの上とはやはり凄い! そうとは知らずに諌めるようなことを言ってすまなかったな!」
「いえいえ、オスヴァルト殿下が諌めてくれたからこそ。ヘンリー大司教は違和感を抱かなかったのだと思います」
オスヴァルト殿下が自然に振る舞ってくれたからこそ、あの場面でヘンリー大司教は私の質問に何の疑問も抱かずに殿下に叱られた私に勝ち誇ったような表情が出来たのです。
「怒りというのは思考を鈍らせます。その感情を引き出せて良かったです」
「そうか、そうか。俺もすぐに感情的になるから気を付けないとな」
「いえ、オスヴァルト殿下は素直な感じの方が素敵だと思います。少なくとも私はその方が好きです」
「えっ? それは何か照れるな。はは、子供っぽいところが好かれているみたいで」
頭を掻きながら目を逸らして笑うオスヴァルト殿下。
殿下のことは子供っぽいとは思ってはいません。ただ、どこまでも真っすぐで私を引っ張ってくれるところに惹かれていましたから、それをお伝えしたかったのです。
揺れる馬車の中でいつの間にか互いに手を握りしめていた私と殿下。
私の素直な気持ちはこの幸せを誰にも邪魔されたくないということです。ですから、ヘンリー大司教にどんな事情があろうとも、ここで引くわけにはいきません。
彼がこのようなことをするのには悲しい動機があることは何となく分かっています。私に対して憎悪に近い感情を抱いていることも。
互いに譲れないことがある。だからこそ、今回の戦いは一筋縄にはいかないと私は思っていました。
「意地の張り合いになりそうです」
「それなら俺たちは負けないだろう? お互いに意地っ張りじゃないか。今日までずっと自分を曲げずに生きてきた」
「ふふ、それもそうですね」
オスヴァルト殿下、あなたの言葉に何度勇気を頂いたでしょうか。
あなたのおかげで私はどんなところにも行けそうな気がします。