牛小屋のカマキリ (早贄・はやにえ)
第・一章
朝方より吹く風が止んだのは、昼も過ぎ、柔らかな日差しが包み込むこの縁側に、どっこいしょと腰を下した頃だった。辺りの木々達も、その枝に落ち着きを見せ始めていた。
骨線の如くか細い枝先に、いつ舞い降りたのだろう一羽の百舌鳥が、その曲がり尖った口ばしの先に捕えた獲物を誇らしげに咥え、鋭い眼差しでこちらを覗き見ている。
逆光が見せる頭の産毛模様に愛おしさを感じたその時だった。枝先の尖がりから、顔半分捻りながら、その咥えた獲物を刺し通した。
はやにえ・・・独特な習性だ。
屋根から落ちる滴が背に入り、ひゃっ、と、言った。
屈んだまんまの少し猫背になっている姿が、母屋の窓ガラスに写りこみ、丸まった団子虫の様だと彼女は思った。
背丈の余る頭のてんこちょが、低い天井へとぶつかりそうになりながら、決して短くない細身の首をひっこめ歩いてゆく。
この背丈はいつも彼女を悩ませた。ひょろりと伸びた体と相まって、整った顔立ちが少々良い分目立った。
御多分にもれず、小学校から一番後ろだ。
いつの頃からだろうか、すくすく伸びたはいいけれど、まさかここまで伸びるとは。
大学へは行かなかった。
長い休みに入る度、都会の耀に呑み込まれていったクラスメート達が、眩しいくらいに輝きながら帰って来る姿を見ると、少しだけ羨ましかったりもする。
経済的理由もあるけれど、元々が勉学に励むタイプではなかったし、それに、祖母一人を置いて此の土地を後にするわけにもいかなかった。
花江が鳴いている。それにつられてみんなも鳴いた。
立て掛けてある一輪車を慣れた手付きで引っ張り出すと、大騒ぎしている隣の小屋へと向かった。途中、藁束と一緒に置かれている飼料置き場に寄ると、何袋も山積みされている中から一袋取り出し、封を切った。
糠臭い配合飼料の匂いは、未だ慣れない。
浅く息をしながら、手早く袋の耳を掴み一気に持ち上げると、一輪車の中へザカザカと入れた。
壁に寄り掛けたスコップを手に取り、中の配合飼料をまんべんなく均す。
一輪車の縁ツラツラに入った皆の食事が、か細いながらも、少しだけ筋肉質となった彼女の腕によって操られ、運ばれてゆく。
「今年も・・・終わるな」
握りしめたハンドルの手前、絡みつく前掛けのほころびを見つめながら呟いた。
テレビでジングルベルが流れているのだろう。この小さな牛舎の中まで聞こえてくる。
耳の遠くなった祖母が、音量を上げたに違いない。
それにしても今年の冬は早かった。支度の行き届かぬ内、あっと云う間に辺りの景色が一変したのだ。いつもだったら風よけの藁束が、母屋の西側に面して打ち込まれた杭に沿って通された竹垣に行儀よく整列しているのだが、そんな合間もくれなかった。
配り終えた一輪車から手を離すと、おもむろに軍手を外し、隣の光江さんがくれた切り干しを、極端に浅い前掛けのポケットから一つ摘まみ出すと、かじかんだ唇に気を付けながら奥歯まで運んだ。
干し芋なんて呼ばなかった。子供の頃から切干だ。
地元から少し離れた高校に入り、他の地区から来たクラスメートがそう呼んでいるのを聞き、初めて知った。
光江さんが作る切干は物凄く美味い。
此の地は十一月に入ると、遠州の空っ風と呼ばれるとても強く乾いた西風が吹く。その風に吹かれた芋が、切干になる。
蒸かした人参芋を薄く切り揃え、庭に広げたムシロの上に並べ天日干しにするのだ。
糖分が立ち上がり、少しだけベタつく、夕日のような色をした切干は、毎年、空っ風の吹く冬が来ると、強まる風の中、光江さんが庭先で被った手拭いを気にしながら干してゆくのだ。
数日後、おすそ分けを頂くちょっぴりうれしい冬の風物詩。
くちゃくちゃと口の中で味わいながら、耳を澄ました。相変わらず聞こえて来るジングルベルは、彼女の溜息と混じり合いながら、この牛舎の住人達が発する咀嚼音に消されていった。
配り終えた一輪車を元の場所へ返すと、今度は柄の長いブラシを取り、もう一度牛舎の中へと入ってゆく。右肩に乗っけたブラシの柄が、とても小さく見えた。
壁の抜けた奥まで来ると、先に広がる外の景色を眺めながら、通学路になっている道端の枯草に目を止めた。
「明日は、刈らないと」
一人呟いた。
「今日は、来るかな」
柵越しに体半分覗かせ、道の向こう先に目を見張る。
遠く、冬枯れた山間に落ちてゆく夕日が、幾つかの影を長く伸ばし、こちらに近づけた。
この先にある小学校から、授業の終わった子供達が集団下校で帰って来る姿だった。
笑みを浮かべその様子を眺めていた彼女だったが、突然、ひょろりと長い体からは想像もつかない速さで素早くしゃがみこむと、ブラシの柄を握りしめ、背の高さを隠すように増々猫背になっていった。
「来た」
ふざけ合いながら近づく小学生数人の後ろから、一台のバイクが来る。その音は、彼女が屈んでいる牛舎の柵へと近づいて来るのだった。
「こんにちわぁ」
陽気な子供達の声が聞こえる。
「やあ、気を付けて帰れよ」
バイクの音に負けないようにと、少し張り上げた声が届いた。
赤いバイクに乗った若い郵便屋さんは、挨拶を交わした子供達を追い越し、この牛舎とは反対方向へ曲がり、その姿を消した。
彼女のどきどきが止まらない。それでも時を数え立ち上がると、思いっきり背伸びをし、走り去るその音を聞こうと顔ごと耳を傾けるのだった。
「出たぁー カマキリだぁ」
彼女の長い両腕が牛舎の低い天井にある張を掴み、細長い体をまるでカマキリのようにシュッと伸ばし、ユラユラと揺れる姿が子供達にそう言わせるのだろう。
この通学路を登下校する子供達の間では、牛小屋のカマキリと呼ばれるお姉さんは有名なのだ。
茶化され、はやし立てられても彼女は怒らなかった。それどころか、にっこりと笑い、
「おかえり、飛び出しちゃ駄目だぞ」
「わあー カマキリに喰われるぞぉ。逃げろー」
「ほらぁ 前をよく見て」
本気で心配するのだった。
そんなお姉さんをからかいながらも、子供達はこのカマキリが大好きだった。
日常となり繰り返される風景は、彼女にとっても、子供達にとっても、こんなやり取りが何となく楽しい、ゆったりとした時合なのだろう。偽りの無い、心からの優しさは通じるものだ。
夕暮れのオレンジ色が、高揚を隠すように彼女の横顔を染めている。平凡だが何事も無く、静かな今日が終ろうとしていた。
白熱球に明かりを灯すと、疲れた腰を両手で押さえ、牛舎を背にした体が背伸びをする。外した軍手を扉横のバケツに放り込み、前掛けのほころびを気遣いながら入口の柵にそ
っと引っ掛けた。
「ばあちゃん、今夜はカレーって言ってたな」
昼間の内に、玉ネギとジャガイモを庭先の畑で取り、大きな笊に入れ台所まで運んで行く途中、
「妙子、今夜はお前の好きなもんだぞ。あははは」
言っていた。
彼女の好物はカレーなのだ。
祖母が作るこのカレー、沢山の野菜達と一緒に厚揚げが入っている。お肉は無しだ。ある事がきっかけでお肉を食べなくなった彼女の為に、カレーの主人公はいつも厚揚げになった。
母屋の玄関脇に通してある水道の蛇口を回し、ちょろちょろと流れ落ちる水玉の真ん中へ手を突っ込むと、爪の中まで入りこんだ汚れをたわしでゴシゴシと洗い落しながら、今日も郵便屋さんの彼に会えたことを、神様に感謝した。
今年の春、町の郵便局に新人さんがやって来た。
それまでは、牛舎がある横の道をいつも通る赤いバイクの郵便屋さんは、ちょっと太めな歳の多いおじさんだった。
止まらないお腹のボタンが、入り込む風によってまるでマントの様に上着をなびかせ、さっそうと走りゆく姿が妙に滑稽で、彼女の中では赤バイマントと呼んでいたのだ。
その赤バイマントもついに定年を向かえ退職したのかは分からないが、代わりに若い彼の姿がこの町で見られるようになった。
最初は気にも留めなかったのだが、ある日、この牛舎から一頭の牛を市場に出す日がやって来た。とうとう来たXデー、この日ばかりはさすがに憂鬱だ。
小さな頃からそうだった。何も知らない彼女にとって、この牛舎の住人達は家族であり、友達だった。名前も付け、可愛がった。未だにその癖が抜けていない。
全ての真実を知ったのは、小学校に上がった時。
「お前んち、肉うし飼ってんだよなぁ。一匹いくらするんだぁ?」
何の事なのか、彼女には理解出来なかった。
その日の夜、家族に尋ねると、同級生の言った意味が分かった。朝早く寝ている間に市場へと出していたらしい。幼い彼女を傷つけないようにとの配慮だったようだ。
次の日から、会話が少なくなった事を覚えている。
「あーあ、やだなあ」
言葉と共に溜息が漏れた。
それでも、この現実を受け止めなければ生活が成り立たない・・・
農協からやって来たトラックの荷台から長い板が降ろされ、その端が柵の外れた地面へと刺さった。鼻輪に通された太いロープに引かれながら、掛けられた橋板の所まで来た牛が立ち止まると、不思議な事に分かるのだろうか、そこから先一歩も前に進もうとしないのだ。
「それ、それ、よーいしょ」
屈強そうな男達が、前で引っ張り、後ろで押しながら、声を張り上げ荷台に乗せようと必死だ。
繰り返される光景。唇を噛み締め、只、黙って見ていることしか出来なかった。
「大丈夫ですか。手伝います」
突然だった。慌てて声のする方へと顔を向けた先、ヘルメットのあご紐を取りながら、若い郵便屋さんが立っていた。
配達用の赤いバイクを牛舎の柵に立て掛け、制服の上着を脱ぎ白いワイシャツの袖を捲ると、おもむろに牛のお尻に近づき両手を添え、踏ん張った足を少し滑らしながら、掛け声の響く調子に合わせグイグイと押した。
暫く繰り返す内、ようやく荷台へと乗せることが出来た。
「やれやれだな。兄ちゃん、ありがとよ」
若い郵便屋さんにお礼を言うと、農協のおじさん達は荷台の後ろを閉め、駄々をこねて困らせた牛のお尻を叩きながら、前へと繋ぐのだった。
「あ、有難うございます」
はにかみながら、彼女が言った。
若者の額から汗が滴り落ちている。気付いた彼女が、すかさず手に持っていた手拭いを彼に渡した。
「あ・・・」
彼女の小さく開いた口元から漏れた。土だろうか、手渡した手拭いの片端が少しだけ汚れている。困惑しているであろう表情を隠すように急ぎ下を向いた。
そんな事はおかまいなしに、真っ白な歯を見せながら、
「ありがとう」
そう言うと、受け取った手拭いでゴシゴシ、若者は何の躊躇いも見せずに顔の汗を拭った。そして、拭き終わると丁寧に折り返し、また、にっこりと白い歯を見せ、彼女に返すのだった。
直視出来ない目線は上目使いのまま、綺麗にたたまれた手拭いを握りしめ、彼女はその若い郵便屋さんを見送った。
その日の夕飯が喉を通らない。
それからと云うもの、寝ても覚めても彼の真っ白な歯を見せながら笑う顔が、瞼の奥に焼き付き離れない。決して背は高くないのだが、色白のはっきりとした目鼻立ちはまるで芸能人のようで、短く刈られた髪が少しツクツクと立ち上がっている様も、さわやかで好感が持てた。ほんの少しだけ上がった目尻が、顔立ちをきつく見せるのだが、それも、凛々しさだと思うと、微笑んでしまう。
今まで異性を意識した事なんてまるでなかった。女子だけの高校生活は思春期の真っ只中でも、彼女にとっては縁遠いものだったからだ。
日を追うごとに増してゆく胸のどきどきは、彼が走るバイクの音にも負けてはいない。
彼女の日課に新しい項目が増える。牛舎の横を通る通学路、毎日の様に子供達の登下校を眺めながら、時折走りゆく郵便屋さんのバイクを、この牛舎の隅で隠れながら目で追うことだった。
見ているだけで良かった。いつも通る牛舎の横道、決まった時間ではないけれど、彼が走る姿を見つければ嬉しかった。
「やっぱり、彼女はいるんだろうなあ・・・」
肩思いは重々承知している。あれほどのイケメンさんなのだから、きっといるに違いない。この思いが、彼女の溜息の犯人だ。
バイクで走る彼の顔立ちは、ヘルメットのひさしで隠れてしまう鼻から上半分が目立たず、最初は分からなかった。
「幾つくらいになるんだろう?おんなじくらいかなあ?」
今年五月で二十六になった彼女。やはり、年齢は気になるのだろう。
午後も遅くになって吹き始めた西風は、その始まりへと沈んでゆく夕日に連れられ、ゆるやかに凪いでいった。
「明日は、天気崩れるのかな?」
西方の山間へと隠れ始めた日が夕焼けを拒むように辺りを暗くすると、止んでゆく西風が南東からの風と変わり、雨が近い事を知らせている。
彼がカッパを着る事がないようにと、彼女は祈る。
首に掛けた手拭いを右手で引き外すと、濡れ弾く両手を拭いた。
蛇口を閉め、母屋の引き戸になっている玄関を半分ほど開けた時、、彼女の大好きな匂いが漂ってきた。
「やっぱり、カレーだ」
急いで脱いだ長靴が片方だけ倒れたことを気にしながら、玄関から真っ直ぐに続く短い廊下を小走りで進むと、低く掛けられたのれんをくぐり、台所のテーブルを覗き込む。
真ん中に鎮座する小ぶりな鍋が、直ぐにでも上蓋を開けろと言わんばかりに思えた。
洗い桶の水を流しながら、丸めた背をこちらに向け、顔だけ振り返った祖母が笑っている。
「あっはは、そんなに泡あ喰わんでもええに。逃げやあせんよ」
今年、七十八になった祖母はまだまだ元気だ。曾祖父が始めたこの牛舎を継いだ祖父に、まだ、十八と云う若さで嫁いで来た。何もかもが初めてだった若い娘は、さぞ、苦労した事だろう。
初孫で生まれた彼女が、やっと伝え歩きが出来るようになった頃、連れ添った祖父が他界した。牛舎の前で倒れ、そのまま帰らぬ人となったのだ。元々が高血圧だった祖父、その頃には、食べる物にも気を配っていたらしいのだが、人の死と云うものは分からないものだと、よく、祖母が言っていた。
跡を継いだ彼女の父親は、元々がサラリーマンだった。東京の大学を出てから此の地に戻り、地元の印刷会社へ務めたのだ。そこで彼女の母となる人と出逢う。
決して順風満帆とはいかなかった。だけど、この頃が彼女にとっては何物にも変え難い大切な時となった。
桜の蕾もまだ膨らまぬ早春、同窓会で東京へと出向いた父の帰りを、駅まで迎えに行った母。
雨が降っていた。母が運転する車中では、きっと楽しい会話が弾んでいただろう。
彼女が高校二年生になる時だった。スリップした車はガードレールを突き破り、崖下へと落ちた。大破した車の中で、父と母は二人、固く手を握りしめていたそうだ。
泣きじゃくる彼女を、祖母はいつまでも抱きしめていてくれた。
「ああ、そうだ。妙子、今度の日曜日、墓参り行くかあ?」
毎月一度、此処から東へ行った小山の中腹、陽当たりの良い丘に、みんなが眠っている墓がある。そこへ祖母とお参りに行くのだ。
「うん、いいよ」
「軽トラの油、あるだか?」
「明日見とく、無かったら入れとかないとね。でも、雨だったらスタンド行かないよ」
雨の日、彼女は車を運転しない。
「そんじゃあ、晩飯喰ったら行って来んとな」
「うん」
金曜日の夜、祖母と二人で食べる大好きなカレーは、瞬く間に彼女の胃袋へと押し込まれていった。
次の日、やはり雨になった。夜半から降り出したのだろうか、しとしとと降る勢いは決して強くはないのだが、随分とあちこちに水溜りを作っている。
緑色した厚手のジャンパーは、襟の部分が立ち上がり、彼女の細く長い首をすっぽりと包み込んでいた。この時期の雨は昼になっても朝方と変わらず、いつまでも薄ら寒さを残している。
「嫌な感じの雨だなあ。降るんだったら、ザーってね、やっぱりさ」
一人、中途半端な降り方をする雨に文句を付けながら、牛舎の中へと藁束を運んでゆく。
小学校が半日で終わる土曜日。色とりどりに咲いた季節外れの紫陽花を見る様に、幾つもの傘が近づいて来る。
「今日は寒いねえ。ちゃんと厚着してる?」
牛舎の中から柵に肘を突きながら、帰ってゆく子供達に声を掛けた。
「あ、おねえさん。うん、大丈夫、いっぱい着てるから」
黄色の傘が少しだけ上を向き、その中から小さな女の子がニッコリと笑いながら言った。
御揃いの長靴は、まるでひよこの様に黄色で可愛かった。その長靴でわざと水溜りに入ると、ぴちゃぴちゃと足踏みする音を聞いては楽しんでいる。
「みったん、やめろよ。こっちに飛んでくるからあ」
水色の傘を差し後から続いた男の子が、飛ばされた水滴の着いた上着の前をはたきながら言った。
「ごめーん、よっちゃん」
すぐに水溜りから飛び出すと、みったんと呼ばれた女の子がぺこり、謝った。
へー、よっちゃんて言うのかあ。いつも彼女の事を、牛小屋のカマキリと呼んでは茶化す代表格の男の子だ。
「べーだ」
そのよっちゃんが、彼女の顔を見るなり、アッカンベーをしながら走って行った。
「まってよう」
その後を追いかける様に女の子も走り出した。二人が差した黄色と水色のコントラストが、小さな体を包み込み、まるで雨滴の妖精に見え、微笑まずにはいられない。
相変わらず雨は強くなるでもなく、止む気配を見せるでもなく、しとしと降り続いている。
「何年生だろう。去年からだっけ、じゃあ、二年生かな」
一人ぽつんと、遠ざかる二つの傘を眺めながら呟いた。
「あ」
遠くから聞こえるバイクの音が、彼女の視線を振り向かせる。
「え、うち?」
近づく音と共に、紺色のカッパが雨粒を弾きながら、母屋の玄関先へと赤いバイクが入り込み、ぬかるんだ地面に気を配るとスタンドを立て、止まった。
バイクの前籠に括られた大きながま口のような黒いバッグ、降る雨が入り込まない様に気を付けながら、慣れた手付きで引っ張り出した手紙らしき物を、玄関横に吊り下げられた郵便受けへと押し入れた。
牛舎の奥、たたずむ彼女には気付かず、くるりと向きを変えたバイクが走り去った。
「来たんだ」
急いで駆け出す彼女の心音が、この小さな牛舎いっぱいに響き渡ったようで、牛達が一斉に鳴き出した。
両手を頭のうえに掲げ、いつまでも降り止まない雨を恨めしいそうに睨みつけながら、勢いよく牛舎から飛び出すと、母屋の玄関先に張り出している軒下目掛けて力いっぱい走った。長靴の踵から蹴上がった泥しぶきが、彼女の高い腰の辺りにまで飛び掛っている。
バイクの音が消えた玄関、引き戸に持たれた体がゆっくりと郵便受けに向き、彼女の長い腕が伸びたかと思うと、今着いたばかりの手紙を取り出した。
「村田恵子様、ばあちゃん宛てか」
差出人は父の弟、鎌倉に住む彼女の叔父さんだった。多分、今年も正月には帰省出来ないと云う文面だろう。彼女の両親が亡くなってから、少しづつ疎遠になってゆく。
「由紀ちゃん元気かな」
二つ下の従妹だ。小さな頃は、冬休みに入り、ひと足早くやって来る彼女と二人、大好きな北山へ遊びに行った。この牛舎がある裏山だ。北にあるから北山と彼女が勝手に呼んでいる。
小さな足で一時間くらいの所に在る滅多に人が入らないこの山は、空っ風が吹くその前辺りから、小さな生き物達が、一生懸命冬籠りの準備をする姿が良く見られる所なのだ。
子ぎつねを見つけた従妹の驚き喜ぶ顔が浮かんできた。
「あの頃は、楽しかったな」
ひとつ、大きく息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出した。
「妙子、そこに居るんかね。昼飯だぞ」
少し勢いを増した雨音と混じりながら、母屋の中から祖母が呼んだ。
「うん、分かった。ばあちゃん、叔父さんから手紙来てる」
引き戸を開き、にっこりと笑いながら立っている祖母にその手紙を渡し、彼女が後ろ手で戸を閉めようとした時だった。
「おねえさーん! おねえさーん!」
彼女を呼んでいるのだろうか、子供の叫ぶような声が、牛舎の向こう、通学路の方から聞こえてきた。嫌な感覚だ。
引き戸を全開にすると、顔の斜め上に置いた両手で、強くなる雨を防ぎながら牛舎を前り込み、声がする通学路まで走った。途中、ぬかるんだ地面に何度か足を取られ転びそうになりながらも、急いで走った。
頭から足先まで全身びしょ濡れになった先程の男の子、そう、よっちゃんと呼ばれた男の子が、泣きじゃくりながら通学路の真ん中で何やら叫んでいる。
「どうしたの!」
男の子がいる通学路まで着かないうち、大声で聞いた。
「みったんが、みったんがあ」
「その子がどうしたの!」
彼女の声が強くなる。すると、泣きじゃくりながら吸い込み続ける息の中、
「落ちた・・・」
「え、何処に? まさか」
男の子が指差す方向へ振り向くと、ここからその先、十字路の右折方向に沿って流れる用水路の道路側に、黄色い傘だけが雨に打たれ揺れている。
「いやあー 何んで、」
彼女は叫びながら走った。ここからでは、十字路の右側に立ち茂る竹藪で先が見えない。
「大丈夫だ! 大丈夫」
その声と一緒に、女の子の泣き声が右の方から聞こえてきた。
勢いの付いた体を必死で止めると、すかさず声のする方へと向いた。
「お兄さん!」
泣きじゃくる女の子を強く胸の中に抱え込み、やさしく頭を撫で、にっこりと笑いかけている郵便屋さんが、そこにいた。
近寄る彼女を見つけた女の子が、
「お・ねえ・さん・・・」
小さな肩を揺らしながら、泣きべそに変わった顔が彼女を求めた。それに気付いた若者が、抱き上げた女の子を彼女に預けると、もう一度にっこりと笑った。
「良かった。ちょうどここを通り掛かった時、この子が必死に用水路の蓋にしがみついてた。落ちたばかりだったんだろうね。増水して、道との境が分からなくなっちゃたんだろう」
無理も無いと云う顔をした若者が、今度は彼女に抱かれた女の子に笑いかけながら、
「よく頑張ったね。本当に良かった」
「ありがとう、有難う御座いました」
深々と頭を下げた彼女の横で、前掛けの端っこを握りしめ、水色と黄色の傘を脇に抱えながら、ヒクヒクと泣いている男の子がいた。
「ほら、早く体拭かないと大変。君も来なよ」
抱きかかえた女の子をもう一度抱え直すと、横で半べそを掻いている男の子の手を取った。
「怪我は無いと思うけど、すぐに親御さんまで連絡してやってね。じゃあ、僕は」
そう言うと、掛けっ放しで止めてあったバイクに跨り、小さくお辞儀をしながら強くなる雨の中を走り出した。
「さあ、行くよ」
胸の中で小刻みに震える小さな体が、力いっぱいしがみついている・・・愛しい。この子だろうか、それとも・・・
冷たい雨の筈なのに、彼女の頬から湯気が立ち昇っていた。
「おばあちゃん。タオルいっぱい持って来て」
「やあやあ、何てこった。ほれ、早く入れ。今タオル持ってくるで。妙子、ストーブ点けてやれ」
大騒ぎの中、程なくして連絡を受けた二組の両親と、この子達の担任だと言う男の先生がやって来た。彼女が事の成り行きを説明すると、両親たちは何度も何度も頭を下げてお礼を言いい、この後、郵便局に寄って行こうと相談しながら、個々の車で帰って行った。
「やれやれ、とんでもない日だなあ、今日は」
曲がった背を少しだけ伸ばしながら、祖母は首に巻いた手拭いで顔を拭いながら言った。
「うん、とんでもない日だった」
そう言う彼女の口元が優しく笑っている。
次の日、世間様は日曜日だが、この牛舎に休みは無い。
「晴れたねえ。いい天気になったあ」
小春日和となった本日、彼女の心にも春が来たようだった。
ここの住人達の面倒を見るいつもの手際が、今日は一段とスムースに見える。
「早お昼にして、行くかあ」
墓に供える花を庭の畑で摘みながら、祖母が言っている。
「いいよ、午前中の仕事は片づけたから、今からでも」
「そうかあ、んじゃあ、今から行くかあ?」
「うん、早めに出て、帰り、買い物して来よう。あ、そうだ、隣の光江さんにも声かけないと」
いつも買い物で町まで出るときは、ついでに光江さんの頼まれ物も買ってくるのだ。
摘んだお供え用の花を大事そうに抱えた祖母が、彼女の運転する軽トラの横に座り、邪魔にならない様にと体を小さく屈めている。
舗装されてはいるが、やたら狭い農道は彼女の神経をかなりナーバスにしているに違いなかった。その証拠に、この道へと入ってから一言も喋ってはいない。
「妙子」
「・・・何?」
「しょんべんが出たい」
「もう! 我慢してよ。もうすぐ着くから」
握り絞めたハンドルが今にもひしゃげてしまいそうな勢いで、彼女が筋立てる両腕の筋肉が、小さく盛り上がっている。
狭い農道を抜け出した軽トラが、山間へと入っていった。
すっかり落ちた落葉樹の葉が、つい、この前まで、冬枯れた山々に色とりどりの絨毯を敷つめていた事が嘘のように、今は枯れ果て、その面影も見せてはいなかった。
「こっちの林道の方がよっぽど広いよねえ」
少し安心したように、誰に言うでもなく呟いた。
暫く行くと、すれ違いの為にある少しだけ広くなった道端に軽トラをゆっくりと寄せ、停めた。
「ばあちゃん、早くしてきなあ」
「漏れっちまうとこだっけぞ」
そう言うと、抱えていた花の束を彼女に渡し、車から降りた体が近くの茂みへと消えて行った。
大きな杉の木が取り囲む此の場所は、お日様の日が気持ちよく通り抜けて来ない。
「息苦しいな」
少し窓を開けながら呟く彼女の横顔が、少ない光を吸い込んで憂鬱な影を作っている。
昨日の事件以来、彼女は何をしていても、彼の事が頭から離れなくなった。片思いと諦めている自分が惨めでしょうがない。
「いつでも、会いたいなあ」
緩んだ風が、少しだけ開けた窓から、彼女の頬を滑って行った。もうすぐだ、此の地にも冬の寒さがやってくる。
「もういいぞ、さあ、いくか」
用を足した祖母が乗り込み、彼女が渡した供えの花束を受け取ると、力いっぱいドアを閉めた。
セカンドギヤに入ったチェンジを確認すると、彼女の左足がゆっくりとクラッチを放して行く。
「あ、車来た」
脇端から山道へと戻ろうとした軽トラを急いで止める。対抗して来た車をやり過ごそうと云う訳だ。
正面から近づく車が、彼女の運転する軽トラを見つけると直ぐ横に停め、運転している男が窓を開けてにっこり笑った。
「何だあ、玄ちゃんかあ」
「よう、妙子。あ、ばあちゃんも、今から墓参りか?」
陽気な顔で声を掛けて来た男は、遠縁の関係で昔から行き来のある、年の離れたお兄さんの様に彼女が慕っている、玄司と云う四十程になる人物だった。
「うん、玄ちゃんはどうして?」
「ああ、墓の枯草取りだ。びっくりするなよ、すっげえ綺麗になってるから」
「朝から行ってんの。まめだねえ、相変わらず」
「おい、聞いたぞ。昨日、人命救助したんだって」
窓越しに乗り出した体が、今にも外へと飛び出しそうな勢いで彼女に近づいて来た。
ヤニだらけの前歯を見せ、煙草臭い息を吹き掛けながら、にっこりとほほ笑んでいる。
「違うよ、それは。助けたのは私じゃあないよ」
「えー、もう朝から評判だぞ。村田んとこの娘が川に落ちた小学生を、通り掛かった男と飛び込んで助けたって」
「ちょっと待ってよ。全然違うよ、それに、川じゃあなくて用水路だよ。助けたのは郵便屋さんだし、飛び込んでもいないし。私は只、家の人に連絡しただけだから」
「そうかあ、俺も聞いた時変だと思ったんだ。昔から妙子は泳げなかったしなあ。それでも飛び込んだって言うから、思い切った事しやがってって、心配したんだぞ。これから寄るつもりだった」
「もう、困る。そんなんじゃあ、郵便屋さんに悪いよう」
「あっははは。困ることじゃないだろ、助けたには違いないから。とにかく、無茶するなよ、じゃあな。あ、そうそう、餅突いたらまた、持ってくからな」
勘違いを分かってくれたのか、くれないのか、男の車は山道を下って行った。
「どうしよう。私じゃないのに」
眉尻を下げた彼女がハンドルに顔を埋めた。
「大丈夫だら、あの子らの親が、ちゃんと言うからな」
にっこりと笑う祖母の言葉を聞いて、
「だと良いんだけど。でも、そうだよね、お礼に行くって言ってたし」
気を取り直そうと、わざと笑顔で祖母に返事をし、ゆっくりと軽トラを進める彼女の心中は、決して穏やかなものではなかった。
その心とは裏腹に、墓の群れに当たる日差しが柔らかかった。
「ほんとに、ええ日になったなあ」
目を細めた祖母が、供えの花を墓の両側に置かれた筒に刺している。彼女が手に持つ線香の束が、大きくゆらりと煙ってその花を霞ませた。
「もう、十年か。あっと云う間だねえ。ばあちゃん」
「うん」
祖父に先立たれ、たった一人の息子も、その連れ添いと共に亡くなり、そうした悲しみを繰り返した祖母の心の中は、どれ程のものだっただろう。泣いていれば良かった彼女とは違い、父になり、母となってくれた祖母。花を手向けるその丸くなった後ろ背が、彼女の目頭を熱くさせた。
玄司が取り残した枯草を、墓の前でしゃがんだ祖母が摘み取りながら、
「妙子、お前もいい歳だでえ、ええ人が出来たら俺の事はええでな。気にせんで嫁に行け」
穏やかな祖母の顔が、まるで野仏の微笑む顔のように見えた。
「何言ってんの。まだまだ先だよ」
言うのが、精一杯だった。彼女の持ち上げた顔が、澄み切った青空を眺めている。
祖母を乗せた彼女の軽トラが、町の外れにあるショッピングセンターの駐車場に停まっている。最近、歩くのがおっくうになった祖母は車の中で待つ事にした。
預かった財布の中身と相談しながら、ショッピングカートの中へと入れてゆく。
必要な物だけで一杯になったカートを押しながら、隣の光江さんから頼まれた物を探しながら買い込んだ。
「えーと、後は、これだけだな」
頼まれた買い物の終わる事に、ほっとしながら呟く。
文具コーナーへとやって来た彼女は、最後の品物を入れた。その、便箋と封筒は、懐かしい匂いを感じさせながら、彼女の胸をきゅんとさせるのだった。
「手紙、書いてみようかな」
見つめた先、綺麗に整えられた棚の上の便箋を手にしながら、ぽつりと呟いた。
祖母を乗せ、済ました買い物を光江さんに手渡すと、一袋の切干を差出し、丁寧にお礼を言いながら光江さんが笑った。
夕食の後、大好きな刑事ドラマを見ながら、祖母がこたつで横になっている。
「ばあちゃん、お風呂は?」
「後でええで、先に入れ」
「じゃあ、行くけど、こたつで寝たら駄目だよ。わかった」
「はいよ」
彼女には目もくれず、真剣な眼差しでテレビに向かっている祖母が、生返事をしながら、こたつのうえに置かれた菓子盆に手を伸ばした。
台所を抜け、風呂場の引き戸を開けると、彼女には明らかに狭すぎる湯船に、右足からゆっくりと入った。肩まで沈めぬ体は、自然に半身浴となる。
ぴちゃり、ぴちゃりと、手の平ですくった湯を細い肩先に掛けているその姿が、前屈みとなり、ここでも猫背となった彼女の体をダンゴムシの様にしていった。
なかなか温まらない膝を抱え込みながら、こうして時は、季節は、過ぎて行くのだろうと思うと、少しだけ悲しくなった。
「もう、二十六かあ」
呟いた。つい、この前までは、まだ二十六だし。と、言っていた事が、随分、昔のように思えた。
ふと、見上げた先、小さな裸電球に纏わりつく湯気が、ぼんやりとした頭の中を、現実から少しだけ逃避させてくれているようで、心地良かった。
案の定、風呂から上がった彼女の目に、こたつで猫が昼寝をするように丸くなり、小さくイビキを掻きながら眠る、祖母の姿が映った。
「テレビ点けっぱなしでえ、しょうがないなあ。ほら、風邪ひくよ」
入り過ぎた綿でパンと膨らんだ祖母の半纏を、小さく丸めた背に掛けると、まだ続いている刑事ドラマを横目で見ながら、消した。
温まらない彼女の心は、今、机に向かい、何かを決心したのだろうか、そこに広がった便箋をじっと見つめている。
「よし!」
右手に握られたボールペンの先が、真っ白な便箋の中へと吸い込まれてゆく。
拝啓・・・
「ちょっと、古いかな。ははは」
照れくさそうに笑った。
書き始めた文章は、思いのほか滑らかな文体となって、白い紙の上を転がった。
翌日、荷台の横に、村田牧場と小さく書かれた軽トラが、隣町の郵便局前に停まっていた。
「妙子、居るんかねえ。妙子」
庭先へと滑り込んだ軽トラのドアが開き、息せき切った彼女が運転席から飛び降りた。
「お前、何処へ行って来ただ?」
「うん、ちょっと、スタンドまで」
言うが早いか、彼女の足は牛舎に向かっている。
「お水、やらなきゃ」
軍手をはめた手が、バケツを持った。
数日後、牛舎の奥、ブラシを担ぎ通学路側の柵にもたれながら、家路を急ぐ子供達を、相変わらず見送る彼女の姿があった。そんな中、一人男の子が駆け足で、彼女の視線を避ける様に走り去ってゆく。
よっちゃんだ。あの日以来、照れくさいのだろうか、牛小屋のおねえさんを見つけると、その場を急ぎ走り過ぎて行くようになったのだ。
「何か、わかるなあ」
柵に肘を突き、頬杖を付きながら、声は掛けず見送った。
掃除が終わった牛舎の狭い通路を抜け、大きく張り出した出入り口の軒下に立ち、担いだブラシを横の壁に立て掛けた時だった。昼を少し回った午後一番、緩やかに流れる西風に乗って、軽やかなバイクの音が、母屋の玄関先へと入ってくる。
「来た」
小さく呟くと覚悟の顔で、意を決したのだろうか、外して丸めた前掛けを小脇に抱え込み、走った。
ぐっと噛み締め、一文字となった唇が思いっきり開いた。
「ご苦労様です」
何処にこれだけの勇気が在ったのかと、驚く自分がいる。
がま口バッグから取り出した白い封筒を持ちながら、掛けられた声の方へと顔が向く。
「あ、こんにちは。この前は大変でしたね。色々と」
若い郵便屋さんが、相変わらず真っ白な歯を見せ、手に持った封筒を手渡そうと、彼女に近づいた。
下へ下へと向きたがる真っ赤になっているであろう顔を、必死の思いで持ち上げると、若者の正面に立ち、ぎこちなく笑った。
「何か・・・話が・・・変な風になっちゃったみたいで・・・ごめんなさい」
この前の雨降り事件での事を彼女は謝った。
「ああ、そんな事、気にしてませんよ」
若者は彼女の顔をまじまじと見つめながら微笑んだ。
あまりにも近づき過ぎた距離に、彼女の全身が小刻みに震えている。差し出された封筒を取ろうと伸ばした手が、その震えを止めてはくれず、直ぐには掴む事が出来ない。
「あれ、手かじかんじゃった? はい、どうぞ」
小刻みに震える彼女の手を、そっと握った若者の手が封筒を渡した。
彼女の顔が微笑むまま固まってゆく。何も考えられない頭の中で、これだけは思った。
時間よ・・・止まれ。
勇気を出したご褒美を、この一瞬、神様がくれたのだと彼女は感謝した。
この夜から眠りに就く少し前、ほのかに色づく頬を見せながら、敷かれた布団の横にある小さな机に向う彼女がいた。
聞こえなくなったジングルベルに代わり、強くなった西風が鳴らす電線の音が年の瀬を知らせるように、この小さな牛舎の回りでいつまでも鳴り響いていた。
何日か過ぎたある日、赤いバイクが牛舎の出入り口に停まっている。
そこからほんの少し離れた庭先に、天板が切り取られた一斗缶に薪が燃やされ、その火に手をかざしながら、楽しそうにお喋りしている若い男女の姿があった。
あれから幾度となく配達された手紙は、若者と彼女を結ぶ縁となった。
若者の名は、岸部洋平と言った。市内で生まれ育ち、県立の大学を出て、今の仕事に着いたそうだ。年齢は偶然にも彼女と同じ二十六歳。誕生月も同じ五月と云う。
「偶然じゃない。必然だよ」
そう言った彼の言葉が、彼女の胸に深く刻まれた。
等々、年を越した。何事も無く過ぎて行った去年の正月とは、今年は違う。
元旦早朝の境内、参拝する人で賑やかな森の鎮守に、二人の姿があった。
少しだけ、おめかしする彼女は、いつものカーゴパンツではなく、今日のために買ったリーのスリムなジーパンを、丈を詰めることなく履いている。薄茶色のパーカーを着こみ、その上にグレーのダッフルコートを羽織った姿は、背の高い彼女をまるでモデルのように見せるのだが、彼女はそれに気付いてはいない。すれ違う人達の視線が、すぐに溜息へと変わる。
少しだけ引かれたグロスリップが、微笑む度に彼女の口元で光っている。その回数は、どんどん増えていった。
「洋平さん、あたし、ちょっと派手かなあ?」
お参りを終え、神社の石段をゆっくりと下りながら、彼女がぽつりと言った。その横を歩きながら首を横に振ると、彼が答える。
「ううん、派手なもんか。背が高いから目立っちゃうと思ってるみたいだけど、そうじゃない。妙ちゃんは、格好良いんだよ。もっと自分に自信もって良いんじゃない」
「そ、そうかなあ?」
「ほら、また背中丸めて、背筋はすっと伸ばす」
笑った顔で肩の前に左手を置き、右手で彼女の背中をグッと押す。
「でも、そんな風に言ってくれるの、洋平さんだけだよ」
真っ赤になった耳たぶを押さえながら、彼とは反対方向を向きながら彼女が言った。
「だからあ、洋ちゃんでいいよ。僕は妙ちゃんて言ってるし」
彼の微笑んだ顔が、彼女の顔を覗き込んだ。
彼女は願った。神様、今もお願いしましたが、この時が長く続きますように。
次の日、彼は市内に在る実家へと帰って行った。この休みが終ったら戻ってくることを約束して。
玄司が置いていった伸し餅を、祖母が菜切り包丁で四角に切り揃えると、雑煮の準備を始める。
だし汁を張った鍋に千切り取った白菜を入れ、その上に餅を並べると、醤油で味を加減しながら煮込んでゆく。ほどよく餅が崩れ始める頃を見計らって火から降ろす。
幼い頃から慣れ親しんだ味は、一年待つほどの価値がある。と、彼女は正月が来る度思うのだった。
「彼、お餅食べたかな」
止めた箸が、お椀の中で名を書いた。
それから数日後、休み明けの午前中に赤いバイクがやって来た。
「妙ちゃん、これ、お土産」
そう言うと、恥ずかしそうに紙袋を手渡した。
「え、何。いいの?」
「妙ちゃん好きかなぁって思って。開けてみてよ」
言われた彼女が、おもむろに袋から取り出すと、小さく声を上げた。
「あ、こっこ」
市内では有名な、ひよこの形をしたお菓子だ。
「あたし、これ、大好き」
父母が生きていた頃、市内に用事で出掛ける度、このお菓子を買ってきてくれた。たまにだが、一緒に出掛けた時は、彼女からねだったりもした。
「わー、本当に有難う。嬉しい」
大好きなお菓子と云う事もあるのだが、それ以上に、彼の気遣が嬉しかった。
「そんなに喜んでもらうと、こっちが嬉しいよ」
彼の細めた目が、彼女の視線と交わった。
その日の午後、夕焼けには少しだけ早い母屋の縁側に座り、祖母が入れたお茶をすすりながら、彼のくれた こっこ を祖母と二人で食べた。
気配を感じ、ふと、庭の枯れ木に目をやった。一羽の百舌鳥が、尻尾の切れた小さなトカゲを咥え、こちらを覗き見ている。
逆光を浴びた頭の産毛が金色に光、愛おしくも思えた。と、その時だった。いきなり捻った口ばしが、咥えた獲物をその尖った枝先に刺し通した。
「え、うそ」
右に左にと小刻みに頭を傾けながら、刺し通した獲物を暫く見ていた百舌鳥が、小さく羽音を立てると、その獲物を置いて飛び去った。
「はやにえだあ」
見ていた祖母が言った。
「はや・・・にえ?」
「そうだよ。捕まえたもんを、食べるでもなく、ああやって枝に刺してなあ、そのまんまにするだよ。そんでな、そうした事も忘れっちまう」
「えー、ひどい。わざとやるのかなあ?」
「そんなこたあ、わからん。あいつらも、わからんかもしれんな」
不思議な光景を目の当たりにした彼女は、残酷な現実を受け入れなければならなかったトカゲの事を思い已んだ。
待ちわびる春は遠く、未だ木枯らしが此の地を席巻している中、かじかんだ手に息を吹き掛けながら、牛舎から彼女が出てきた。
「やあ」
「え、いつから?」
突然彼が目の前に現れたのだ。
「配達は?」
「今日はもう終わった」
屈託なく笑う彼が、停めたバイクに寄りかかり、寒そうな顔をしてジャンパーの襟を立てた。
「今日は寒かったねえ」
近づきながら彼女が言った。
「ほんとに寒かった。こんな日はバイクだとめげるよね。早く春が来ないかなあ」
「風邪、引かない様に気を付けないと」
薄着の彼を心配そうに見ながら言った。ジャンパーの下は、いつもの薄いトレーナーだったからだ。
「あのさ、ショッピングセンターの横に、新しく喫茶店が出来たんだよ。それで、今度、行ってみないか」
初詣以来のお誘いだった。
「うん」
「じゃあ、今度の日曜日、店が開くの十時だから、九時半頃来るよ」
「わかった。待ってる」
「じゃあ、そう言う事で。あ、そう云えば、最近手紙来ないねえ。前はしょっちゅう来てたのにね」
掛けたエンジンを軽く吹かしながら、バイクに跨り、向きを変えている。目で追う彼女が答えた。
「最近、忙しいみたい」
「へー、忙しいんだ友達。寂しいね。何やってる人?」
「隣町で・・・看護師さん」
「あー、じゃあ、大変だ。まあ、その内また来るよ。きっと」
「うん」
「じゃあ、日曜日の九時半にね」
後ろ姿となった彼の左手が上がり、小さくバイバイをしている。
バイクは軽やかな排気音を残し、彼女の視界から消えて行った。
この牛舎に、日曜日は無い・・・
待ち遠しさで募る思いが、時の歩みを遅らせる。それでも、朝に夕にと睨めっこするカレンダーが、少しずつ彼を近づけた。
「妙子、なーにしてるだ。もう、十時だぞ。早く寝んと」
「気にしないで。明日出かけるから、今の内にやっとかないと。ばあちゃん、もう寝なよ。あ、そうそう、玄ちゃんに頼んだから、お昼の仕事」
「ほうか、玄司にか。遅くなるだか?」
「大丈夫だよ、夕方には帰るから」
藁束が積み上がっていく。
日曜日の朝、まだ明けきらない夜明け前、彼女の姿が牛舎に在った。
珍しく止んでいる西風が、牛舎に集う住人の臭いをこの場に漂わせている。
牛糞で一杯になった一輪車を裏庭まで押し転がしてゆくと、三方をコンクリートブロックで仕切られた定位置に、思いっきり挙げた両腕を細かく揺らしながら、一輪車の中身を空けた。何往復しただろう。冬の朝だと云うのに、彼女の額が汗ばんでいる。
「さあ、もう少しだ・・・」
第一章 終わり