新元号「令和」はガチホモである
我らは宣言する。
新元号「令和」はガチホモである。
当然、無垢なる諸君には何事なのか理解が追いつかぬことであろう。
そうした諸君らが理解を深めるよう手助けするのも、我ら至高であるガチホモの使命であることを忘れてはおらぬから、まずは安心するがよい。
さて、「令和」がガチホモであることを示すためには、いくつかの前段を示さねばならぬ。
まず、「令和」の出典である「万葉集」は、現存する日本最古の和歌集とされているが、実は「ガチホモ」の歌が記録された最古の和歌集ともされている。
その根拠となるのが、編纂者の一人とされる大伴家持の相聞歌である。
春の雨 弥頻降るに梅の花 未咲かなく いと若みかも
この歌は一般的には大伴家持が娘の心情を代理で読んだとされる。
それに対して藤原久須麻呂はこの歌を返している。
春雨を 待つとにしあらしわが屋戸の 若木の梅も 未含めり
これらのやり取りは家持の娘と久須麻呂の間でなされているという前提で、次のような解釈がなされている。
家持「春雨の時期となりましたが、我が家の娘(梅に例えている)があなたの求愛に答えるには、まだ若すぎるようです」
久須麻呂「それではあなたの娘が成長するのを春雨とともに待つとしましょう」
ところがこの時代は「自由恋愛」が一般的であり、上記のような娘の父と相手という関係のやり取りは不自然極まりないのである。
ならば家持と久須麻呂のやり取りとして、改めて読みこんでればどうであろうか。
梅の花が家持の娘ではなく久須麻呂本人であったらどうであろうか。
賢明な諸君は家持と久須麻呂の恋慕を読みこめるであろう。
すなわち家持はガチホモである。
また、万葉集は当時の貴族による歌だけでなく、「防人の歌」や「東歌」など、様々な立場、地域の手による歌が残されており、これを評して江戸時代の国学者である賀茂真淵は万葉集をして「ますらをぶり」と評した。
ますらをとはつまり益荒男でありガチホモに通じる道である。
すなわちガチホモの手により編纂され後日ガチホモと評された万葉集は、まごうことなきガチホモである。
ここまでの解説によって万葉集がガチホモであることは理解できたであろう。
それでは次に出典について解説するとしよう。
出典は万葉集五巻に編纂された「梅花の歌 三十二首、并せて序」の一文である。
時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。
この文の現代語訳は一般的に次のように解釈される。
初春の素晴らしい月の元、空気は澄み風はやさしくそよぎ、梅は鏡の前でおしろいを纏う美人のように咲き、蘭は珮に纏う香水のように薫っている。
しかし、我らは知っているのである。
「梅の花」は衆道において「愛人」を示す隠語である。
記録では八世紀ごろから使用されており、いくつかその名残を歴史に残している。
前段の大伴家持と藤原久須麻呂の間でも「梅の花」と表現されているのは代表的なものである。
また、江戸時代に流行した陰間茶屋において11歳~14歳は「蕾める花」15歳~18歳を「盛りの花」19歳~22歳は「散る花」と例えられたが、この花は「梅」である。
それを裏付けることわざが「梅花は蕾めるに香あり」である。
(梅の花はつぼみのころから香りを発する。すなわち才能は幼少のころから発揮される)
現代においてもいくつか事例があるので紹介しよう。
ど根性カエルの梅さんがよしこ先生を振り切り米国の寿司職人の元に飛び立つさまは、まさに梅さんがガチホモであることを示唆している。
ストリートファイターシリーズのガイルには妻と娘がいる。
すなわちノンケである。
また、一般的にガイルは「待ちガイル」としてプレイされる。
しかしeスポーツのフロンティアであるウメハラ氏が操るガイルは「攻めガイル」と評される。
これは「待ちガイル」とは真逆の存在である。
つまりウメハラ氏が操るガイルはノンケの真逆である。
すなわちガチホモである。
このように「梅」とガチホモは切っても切れない関係なのである。
さて、もうひとつ登場する花である「蘭」について、歴史に精通した賢明なる諸君はある人物を思い浮かべることであろう。
そう、「森蘭丸」である。
彼について我らが改めて述べるのは無粋であろうから控えておくとしよう。
また、近年ではかつて新宿二丁目の中核であったゲイバーの店名が「蘭屋」であったことも知られている。
ここまでを前提として、再度元号の引用文を読み解くとしよう。
時に、初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。
まだ風に肌寒き月照らす夜、漢どもが白の締込でその身を飾り、その漢汁を濃密に嗅ぐわせている。
どうだろうか?
この美文から漢達の真摯でありながらも粗野な絶叫と湧きたつ湯気と鼻を刺す漢臭を感じ取れないか?
これはまさしく「漢祭り」のさまである。
つまりこの文はガチホモであり、この文から引用された新元号「令和」もまたガチホモなのである。
さあ、ともに新たな時代に向かうとしようではないか。