王城内の宿屋よさらば
「問題は客が来ないということじゃ」
鍾乳洞温泉計画に最初に反対したのは、獣人の村長だった。初老の彼の耳には白いものが混じり、かなり高齢だということが分かる。
「何度か来ていただいて分かったと思いますが、中心部からは徒歩二時間以上がかかります。獣人の足でならまだしも普通の人間ではそれ以上です。とてもではありませんがこんな森の奥まで誰も来てくれませんよ」
獣人の運動能力は、魔物や動物に準じ人と比べるとはるかに能力が優れているらしい。ここから二時間の距離にある貧民街にパウラ達が毎日元気よく通えるのも獣人の子供だから……という理由が大きいようだ。
「じいさん、それなら大丈夫だ」
そう言ってディランは地図を取り出す。
「ここには書いてねぇが、ここら辺がこの鍾乳洞だろ?」
地図の右上当たりをぐるりとディランは丸で囲む。それを覗き込んだ獣人らが反論しないので、おそらく正しいのだろう。
「で、この森を突き抜けた先に街道がある」
今度は街道に向かって真っすぐ線を引く。この道ができれば街道沿いの森……という見方もできる距離感だ。
「道を作っちまえば、十五分程度でたどり着ける。王都内の住民はターゲットじゃねぇ。街道を使って旅行してきた商人を相手に商売すんだ」
この世界では人が長距離を移動する場合は転移魔法を使用する。ところがディランらのように商人が積み荷を運ぶ際はその魔法を使うことができない。勿論、使用しようと思えば可能だが、費用の方が高くついてしまうのだ。
「俺達商人が一番困るのが、身なりなんだ。王都で生活している人間の多くは土やホコリとは無縁で、少しでも身なりが汚れていると汚物でも見るような目で見やがる」
私もぬかるみを歩いた靴で高級店に入ろうとしたら、入店を拒否されかけたこともある。
「だから街道を移動してきた商人は宿屋で一泊してから、身なりを整えて商売を始める。それでも身なりが悪いと宿屋にも門前払いされるなんてことは、ザラさ。各都市に商会が宿泊施設を持っているケースもあるが、まぁ、そんなのは稀だ」
「つまり商人相手に宿を開けと?」
ディランの説明により少しばかり気持ちが軟化したのか、村長は身体を前に乗り出す。
「宿屋なんて大層なもんは、いらねぇんだよ。寝る所と風呂に入るところ、荷馬車を保管できる場所があればそれでいい。おそらく機能しだしたら王都内の大半の宿屋は潰れるだろうな」
「グレイス様も同じお考えで?」
村長はディランから私へ視線を移す。私は苦笑しながら首を横に振った。
「ここまで大それたことは考えておりませんでしたわ。でも私の祖母は体調が悪い時、長期間宿に泊まり定期的に温泉に入るという方法を実践しておりました」
いわゆる『湯治』だが、この世界では温泉施設は一般的ではなく一部の王族や貴族らの娯楽としての側面が強い。
「多くの方々が利用できる場所があればな……とは考えております」
「さすが『医者の嫁』だね!」
末席で事の成り行きを見守っていたパウラが私の発言に勢いよく加勢してくれるが、隣にいたマリアさんに頭を殴られ涙目になる。
「医学的にも有益だということですか……」
「一定期間入浴を続けることで、血行がよくなり体調を改善するという研究結果もございます。薬剤などを混ぜればさらに効果が期待できるかと」
『医学的』というワードに反応したのはユアンだった。薬剤とはいかなくても、入浴剤を変えて様々な湯を楽しむというのは温泉ならではの楽しみ方だ。
「なるほど……。ただ、大浴場を建設するだけの費用が……」
『それならば儂が出そうではないか』
その声に全員が振り返ると、そこにはいつの間にか森の主・クリムゾンが現れていた。森の主らしい登場の仕方に全員が息をのむ。
「わが主よ……。こんな場所に……あぁ……申し訳ございません」
村長はクリムゾンを前にすると椅子から飛び降り、地面にこすりつけんばかりに頭を下げた。おそらく普段はこれだけ人が集まる場所に現れないのだろう。
『儂こそ、そなた達獣人のことを考えてやれなんだ。そこの商人。渡したい鉱石があるのでついてこい』
「はっ!」
クリムゾンの言葉に、これまで見たこともない程俊敏な動きでディランはついて行く。おそらく商人の勘か何かが、彼をそうさせたに違いない。
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第二部は『モフモフ温泉編』でございます。




