『医者の嫁(見習い)』はじめました
「キース様って、公爵家御用達の医師でしたわよね……」
築何十年か計り知れないようなボロ診療所を前に、そう質問するのが精一杯だった。
この世界には大きく分けて三種類の医師が存在する。
・王宮御用達の御殿医
・貴族御用達の貴族医
・庶民相手の町医者
公爵家に出入りしていたので、キースさんは貴族医だと思っていたが、この診療所からはそうは見えない。
「あぁ……知らなかったのか。公爵様には定期的に往診しているが、普段はこの貧民街で町医者をしているんだ」
「お父様、どこか具合でもお悪いの?」
「いやいや健康体そのものだよ。でも俺の診療所は貧民街の住人が相手だから、ほとんど診療代は貰ってない。でも、それじゃ生活ができなくなるからって、毎週往診を頼んで下さっていたんだ」
父親が有り余る財を至る所に寄付していたり、時々才覚のある人間を養子に迎えるなど慈善活動を行っていることは知っていたが、こんなことまでしていたとは……。保険がないこの世界、往診を頼むと一回三十ゴールド(三十万円)前後が必要となる。つまり月四回往診すれば百二十ゴールドの収入が得られるわけだ。さすが医者!さすが公爵父!
「こんな所に嫁に来たって、温室育ちの君は続かないよ。大丈夫、俺は気にしないから帰れ」
おそらくこの診療所を見たら、尻尾を巻いて私が逃げ帰ると思ったのだろう。キースさんの顔には余裕の表情が浮かんでいる。公爵邸で結婚を了承したように見せていたが、とんだ食わせ物だ。
「半年、お時間を下さいませ」
確かにこの状況で普通の公爵令嬢ならば、一日と続かないだろう。だが私には貧乏生活を過ごした二十二年間がある。屋根があって、百二十万の月収があれば生活できないはずがない。ただそれをキースさんに理解しろというのは酷な話でもある。
「半年、私が逃げ出さず、医者の嫁として合格点がいただけるならば結婚していただけないでしょうか」
「なるほど……。これでも帰らないと……」
深刻な表情を浮かべキースさんは、何やら考えているようだったが、少しして諦めたように息をはく。
「分かった。それでは半年間よろしく頼むよ。実はちょうど受付の人手が足りてなかったんだ」
「ありがとうございます!」
私はその日一番の笑顔を浮かべた。
しかし試用期間一日目にして、私は『貧乏診療所』の洗礼を受けることになる。私の想像以上に「医者の嫁」もとい医療事務かつ看護師の仕事は大変だった。午後から開いた診療所には待っていたとばかりに人が押し寄せ、受付にある三人掛けのソファー四脚は直ぐに埋まり診療所の前まで人が溢れかえるほどだ。
「うちの子、何時間も待っているんですが……」
長時間におよぶ待ち時間に、毛布に子供を包んだ母親が泣きそうな顔で訴えても座る場所すらなかった。受付前のソファーに座る人々もやはり患者なのだから。
「もう少ししましたら、お呼びできると思いますのでもう少しお待ちくださいませね」
と優雅に微笑んでみるが、彼女達には何の気休めにもならない。せめてもと、私が座っていた椅子を差し出して座らせるが、それでも数時間も待たされた子供は辛そうだ。医療知識も回復魔法も使えない『医者の嫁(見習い)』の私は驚くほど無力だった。
「キース様、受付番号を導入いたしましょう」
その日の夜、質素すぎる夕食を囲みながらキースさんに私は提案していた。
「受付番号?」
「診療に時間がかかるのは、仕方ありません。そして多くの患者様が来院して下さるのも素晴らしいことです」
「ほとんどタダだからな」
キースさんは当たり前だと言わんばかりに頷くが私はめげずに続ける。
「もし患者様に自分があと何人目に診療してもらえるか分かれば、院外で時間を潰すことも出来ますし、今日のように診療所の外で待たれるという患者様も減るのではないでしょうか」
私の近所にあった内科が取り入れていたシステムだ。スマホから予約すると受付番号が発行され、自分の番が近づいてから来院するため待ち時間がほとんどなく受診してもらえる。
「お子様が患者様の場合、親御様が受付番号を受け取られてから、後ほどお子様と来院していただくこともできます」
「なるほど」
「番号札の準備、面倒な説明や案内は私がいたしますので、試験的に導入してみませんか」
「確かに待ち時間で症状が悪化しているケースも多い気がする。もしお願いできるなら、ぜひ導入していただきたい」
自分の無力さに絶望していた数時間前とは、うって変わり私の心は希望でワクワクしていた。日常のちょっとしたことだが、こうして誰かの役に立てるのが嬉しかったのだ。