ノビムの歴史の始まり
改稿しました!
蒸し暑い鍛冶場で汗だくになりながらも、自らの暮らす国を守る為に『ノーブフ』の主武器たる戦斧を鍛えている鍛冶師がいた。その動きは一切のムダを削ぎ落とした、長年の経験が見て取れた。
それを黙って見つめる男がいる。『ノーブフ』としては異端な赤茶色の髪、黒く立派な真っ直ぐな角を額より生やした痩躯の男だ。名はチット。このチット国の国王である。
しかし、その国王がいくら見つめていても鍛冶師は視界にすらその姿を入れずに、一心に戦斧を鍛えている。魂を込めた、匠の仕事である。だが、それを待つチットは痺れを切らして自らの願いを口にした。
「親方。俺の生まれてくる子のために、一つ頼まれてはくれないか?」
その声を無視しているのか、気づいていないのか。作業の手を休める様子は見られない。眉一つ動かす気配もなく、そこには自らの職務に真剣に打ち込む女の誇りが窺えた。
男と女に仕事の違いはない。子を身ごもった時ですら女は仕事に精を出すほどに『ノーブフ』は責任感の強い種族だ。それは、生きることに必死だとも言えた。
「うぁち!」
親方の横で助手をしていた男が、何か失敗をやらかしてしまったのか大声をあげて申し訳なさそうな目をした。しかし、親方はそれでも動じることなく作業の手は止めず、助手の男の失敗を叱りもしないで修正を加えていく。
「……今日もダメか。早くしないと生まれてくる時に、わが子に見せてやれないんだがなぁ」
腕を組み、チットは天を仰いだ。初めての子である。張り切ってしまうのも無理はないだろう。
「仕方ないですよ。出直しましょうよ。チット様」
チットの肩に手を置いて、そう声をかけた男は年嵩のいったノーブフだった。額から生えた黒い角は捻れていて、チットのものよりも太かった。髪は赤く、筋骨隆々の偉丈夫である。
名はニヘト。チットが以前に仕えていた国から一緒についてきた臣下である。これだけ年をとったノーブフは、隠居するのが普通だ。しかし、チットはニヘトほど信頼出来る男はいないと氏族--人間の国などでいう王族--の権限で連れてきたのだ。
チットが仕えていた国は、マット国である。国王の名がそのノーブフの国の名前に冠されることになる。それだけ、国王は支族--平民--に愛されているという象徴の意味もある。
「しかしなぁ。そろそろ、人間が子供を攫いに来る時期が来るしなぁ。なんで、幸せなことと重なるように面倒事も舞い込むのかね?」
「人間の考えることなんかわかりませんよ。それこそ、ドルビに食わせて捨てろですよ」
ドルビとは、なんでも食べることで知られる雑食を極めたような魔法生物である。ノーブフのことわざで、考えるだけ損、時間の無駄という意味だ。
魔法生物と言っても、様々で元が同じ生物でも全くの別種になる者もいる。分岐の原理はわかっていない。
「まぁ、ドラゴンたちの縄張りを荒らされないうちにご退場願うがね」
ノーブフが暮らす地域は山に囲まれている盆地だ。さらに、ドラゴンが棲む領域が含まれているような魔境である。しかし、ノーブフからしてみればドラゴンは良き友である。縄張りさえ荒らさなければ、友誼を結べるほどなのだ。
「まぁ仕方ない。とりあえず今日はもう城に帰るか」
「お供いたしましょう。しかし、エナト様も、もうすぐ生まれそうだと仰っていらっしゃいましたし。もしかしたら、今日にでも……」
「いやいや、流石に今日ということはあるまい」
「それはわかりませぬぞ? 男というのは何もできなくて歯がゆいものです。心の準備をしていてください」
ニヘトは言葉に重ねるようにして鍛冶屋の扉を開ける。冬特有の、呼吸をすると肺が凍てつくかのような心地を感じ。二人はブルりと身体をかき抱いた。
「それにしても、エナト様もやはり働き者ですね。女達にはかないませんよ。子供をみごもるって、すごく嬉しいことと同時に辛そうに見えますからね。長年生きてきた、俺でも想像できませんよ」
感嘆としているのが本当にわかる声音でニヘトが、そう言葉を続ける。しかし、その声は吹雪の音でかき消えてチットの耳には途切れ途切れにしか届かない。
「エナト様も氏族らしく、俺たちに仕事を任せてくれたっていいんですがね。似た者夫婦ですな」
声が届いていないことを知りながらもニヘトは、話すのをやめるつもりはない。己が主君と仰ぐ者の働きを、その瞳に焼き付けるように見つめる。そして、手助けをするのが役目だと自負しているのだ。
チットは吹雪の中でも元気な子供たちに、早く家に帰るよう声をかけている。しかし、チットはどこか優しい空気を身にまとっているために子供たちは、それをいい事に好き放題に遊び回る。
「おらぁ! さっさと家に帰れぇ!」
代わりに、怒気を発しながらニヘトが声を張り上げる。「きゃー!」と叫びながら子供たちは、各々の家へと走り去っていった。ニヘトは戦士団の団長である。普段から、訓練で声を張りなれているために演技もうまい。ただし、怒る事に関してのみである。
「悪いな、ニヘト。お前さんも早く家に帰りたいよな。ニッケが待っているだろう」
「大丈夫でさぁ。ニッケのことは雇ったもんに任せとりますからね」
「それでも、帰りたいだろう? いつもの演技より怒気がこもっていたからね」
「それは言わぬが花でさぁ。チット様」
二人は笑い合うと、城に向けて歩き出した。城につくまでお互いに無言だ。そこには、お互いへの信頼の空気が窺えた。
親睦を深めるためにも、日々の交流がものをいうこともあるのだ。些細なことでもお互いを信頼もすれば逆に、悪感情を抱くなんてことも珍しくはない。だからこそ、お互いの踏み込んではいけない領域を探り当てるためにも交流は尚更に必要なことだ。
「おっと、到着だな。今日もご苦労さま、ニヘト。また明日迎えを頼むよ。周辺の調査もあるからな」
辿り着いた城は、しかし貧祖な見た目であった。とても一国の王の暮らす城には見えない。高床式の木造の家であり、一般市民である支族の暮らす家と何ら変わらない。少し広さがあるくらいな物である。
「はい。承りましたよ。では、また明日」
ニヘトがそう言い残して立ち去るのを見送ると、チットは我が家である城の扉を押し開けた。
「ほら! 急ぐんだよ! 湯を沸かして持ってきとくれ!」
チットの母であるチェルが声を大にして、女中たちに指示を飛ばしていた。その意味するところをチットは瞬時に悟り母に駆け寄る。しかし、チェルは鋭く睨めつけるとチットに吐き捨てるように言い放つ。
「あんたは黙って部屋で待ってな! 男の出る幕じゃないよ!」
「そ、そんな。母さん。それはあんまりですよ」
そんな情けない声を出すチットにチェルは呆れるようにため息をつき、それきり言葉を交わさずにエナトのいる寝室へと消えていった。旦那と嫁であっても、子ができたら寝室は別になるのがノーブフの決まり事であった。
「はぁ、仕方ない。部屋に引っ込むか」
さみしげな空気を漂わせるチットに、しかし家の者達は見向きもせずに忙しなくチェルの支持に従うのみであった。これが男が何も出来ないということか、とチットはニヘトの言葉を反芻していた。
部屋にたどり着くと、チットは自棄だとばかりに蒸留酒の入った酒瓶を手に取りグラスの半分ほどに注ぐとそれを、一気に飲みほした。
腹の底から酒精で体が温まっていく感覚に、しばしチットは酔いしれると自らの内に眠る相棒に愚痴を漏らした。
「グランティスカよ。こういった時、男は本当に弱いものだな」
しかし、相棒であるグランティスカは何の答えも返してはくれなかった。どうやら、体の中の魔臓で眠っているらしい。
「こんの、相棒だというのに居眠りとは。本当に耄碌したか? 爺さんめ」
『何か言ったか?』
くぐもった声がチットの頭の中に流れ込んできた。グランティスカである。
「都合の良い耳だな」
『呵呵、坊主がよう言いよるわ』
その威厳に溢れた声は、力あるもの特有の自信に満ちていた。当然である。彼は元は亜神である。神の下に位置する存在だ。しかし、それでも現世に生きるものに比べればその力は段違いである。もちろん生きた年数もだ。
「ったく、こっちは子が生まれそうだっていうのによ」
『そんな事はわかっておる。しかし、慌てることもあるまい。待てば良いのだ。どれ、わしも一杯もらおうかね』
チットの心臓の下あたりから青白い光が体中に発せられる。亜神の限界化である。チットの魔力がごっそりと奪われた。
くらり、と一瞬チットの体が揺らぐ。しかしチットもなれたもので、すぐに立ち直ると憮然とした顔をしてグランティスカを見る。
限界化したグランティスカは禿頭の老人であり、体の至る所に傷痕が見受けられた。しかし、それは見た目に厳しさを与えるかと思いきや。赤ら顔であり、どこか愛嬌のある顔である。だからこそ初めて彼を見る者は、その対比に毒気を抜かれてしまうのが大半であった。
「ったく、酒好きな爺さんだ。ほらよ」
チットはもう一つグラスを用意してグランティスカに酒を振舞ってやることにした。
「……安酒を相変わらず飲んでおるな」
「飲みたくないなら、飲むなよ」
「そんな事は言うておらん。酒に貴賎はないのじゃからな」
「……また、国王としてどうのってやつか?」
「さて……の」
グランティスカは酒を一気に呷ると、チットの体の中にまた戻っていった。
「なんだってんだよ?」
そんなチットの訝しむ声は、グラスの中の酒に溶けるかのように誰にも届くことはなかった。グランティスカは気まぐれである。
「チット様! お子様がお産まれになられましたよ!」
その女中は、走ってきたのか息も絶え絶えにチットに報告するとその場にへたり込む。「そうか! 報告ありがとう!」と彼女の肩に手を置いて労うとチットは走り出していた。
息を切らして辿り着いた寝室の前には、やり遂げたという顔をしたチェルがいた。しかし、その目にはどこか憐憫をにじませていた。
「ほら、さっさとエナトを褒めてやりな」
「ありがとうございます! お母さん!」
チットは礼もそこそこに、部屋に勢いよく入るとその目に飛び込んで来た部屋の空気の重さに肝を冷やす。『まさか、死産?』そんな最悪の想像さえした。しかし、対照的にエナトは笑顔である。
「エナト! よくやった!」
「あなた、少し騒がしいわ? 今ようやく寝たところなのよ?」
「あ、あぁ。すまないな。それで子は?」
「ふふ、この子たちよ」
エナトの横に産着を着せられた赤ん坊が、なんと二人いた。一人は真っ赤な髪チットに負けない立派な黒く逞しい角。
「おぉ、逞しい男の子だ」
そして、もう一人は黒髪に真紅の角を生やした『ノビム』であった。玉のように可愛らしい女の子である。しかし。
「……なんてことだ。なんで俺ばかりに試練をお与えになられるのですか。大地母神様……」
「ふふ、大丈夫よ。秘密にすればいいの。幸い、この城にいる者は信用が置けるものだけよ」
「……しかし」
「しかしも何もありません! 川流しなんて許しませんからね?!」
「……それは俺もしたくないさ。そうだな! 皆、秘密に出来るか?」
チットの言葉に、部屋にいるものは重々しく決意に満ちた目で頷くのだった。
「「おぎゃー!」」
「あらあら、起こしてしまったわね。よしよし、いい子ね。さぁ、寝ましょうね?」
赤子は敏感なものである。その場の空気の淀みに反応して泣き疲れて眠るまでその泣き声がやむことはなかった。