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 教え子が目の前で溶けた。

 その衝撃は言葉では尽くせない。

 しかし武山の思考は途切れることを許されない。


 ソレは溶けきりはしなかったようで、奇妙にも蠢いていた。

 ソレは徐々に新たな形を成す。

 武山は凝視する。

 したくもないのに、脳が、本能が、強張ったままソレを捉えて離さない。


 何だ、とは、声にならなかった。


「ねェ――センセ」


 随分と艶のある声がソレから発せられた。

 ソレは女だった。

 目も鼻も口も眉も耳も全てが美しく整えられた顔立ち。

 柔らかさを隠しもしない躰。

 絹糸よりも繊細な黄金色の髪。

 それと同化した耳も、質量を持った大きな九つの尾も、現実感のなさがいっそ芸術性を高めて止まない。

 女という性を全て注ぎ込んだ濃厚な匂いが脳を揺さぶる。


 それらを十二分に理解した上で、女は様々なパーツの角度まで計算し尽くし四肢を操る。

 一挙一動に女であることを叩き込んでくる。

 引き寄せて絞り尽くさんとばかりに微笑む。

 それは、恐怖だった。


 ――食われる。


 内臓ごと、いや、この恐怖という感情丸ごと食い尽くされてしまう。

 武山の細胞全てがそう訴える。

 泣き叫ぶ。


 しかし当の武山は、それらの反応を上手く反映できずにいた。

 馬鹿みたいに突っ立っている。

 それだけだった。

 そんな馬鹿みたいな自身の認識だけがかろうじて武山を支えていた。


「本当はこんなの、あたしの柄じゃないんだけどねェ」


 ソレは含み笑いをしながら近づいてきた。

 武山は震える足で距離を取る。

 しかし不格好な自分の足取りでは、到底離すことなどできやしない。


「でもセンセがいい加減にしてくれないと、あたしとシュウ坊の時間も取られちまうじゃないのさ。それはねェ、ちょっと、どうなんだい。面白くないさね。面白くない。面白くないのは嫌だねェ。ねえ、センセ」


 美しく笑ったソレは、ゆるりと武山の喉に手を伸ばす。

 その手が直に触れた途端――武山は弾けたように奥へと走り出した。


(化け物だ)


 ――化け物だ!


 ようやく、武山は理解する。

 あれが理解できないものだと理解する。

 とにかく逃げなければと一心に足を動かし、地を蹴り、蹴り飛ばし、そして何かに躓いた。

 勢い余り前のめりに転倒する。

 受け身を取れたのは日頃の訓練の賜物か。

 咄嗟に振り返るが、そこには何もない。


(何に躓いた……いや、それよりあいつは……!)


 ドクドクとうるさい鼓動を無理矢理抑えつけ、武山は背後に目を凝らした。

 化け物が追ってきている気配はない。

 耳に届くのは、自分の鼓動と風が木々を揺らす音ばかり。


 ――諦めた?


 そもそもあいつは何が狙いだ?

 何故自分を?

 江中は一体?

 何故――何が――何を――。


「あっれー? どうしたんすかこんなところでー」


 ふいに、路地の奥から飛び抜けて明るい声が飛んできた。

 その明るさは場違いにも程があり、武山はぎょっとする。

 綿埃のような軽さと鬱陶しさを織り交ぜて顔を見せたのは、武山にも見覚えのある青年。

 彼は前屈みになり、笑顔で手を差し出してきた。


「武山先生ってば随分ヤンチャなんすね? こんなとこで転んじゃうとか。大丈夫っすか?」


「君は……」


「やだなぁ君だなんて他人行儀なっ。オレのことは有馬でも秀でも何ならシュウでもお好きに呼んじゃってくださいよ!」


 ケラケラと笑った彼、有馬秀は武山を引っ張り起こした。

 とはいってもあまり力は入っておらず、ほとんど武山が自力で起きただけだ。

 しかし親切心には違いないのだろう。

 それを無碍にするのも気が引けて、武山は小さく礼を述べる。

 いいんすよ、とやはりあっさり笑い飛ばした彼は、ゆるりと首を傾げた。


「武山先生、顔色悪いっすよ?」


「ああ、いや……」


 彼は、軽薄そうな笑みをたたえたまま。


「まるで狐に化かされたみたいな顔しちゃって」


 ドクリ、と脈が大きく打つ。

 武山は笑おうとして失敗した。

 口の端が下手にひきつっただけになる。


 ふいに、武山は彼の格好が少し不思議なことに気づいた。

 いわゆる着流しだろうか。

 紺色を基調としたそれは闇に溶けてしまいそうだ。

 だから突然現れたように錯覚したのだろう。

 それにしても、似合わないとは言わないが、どうも彼のイメージにそぐわない。

 祭りでもあっただろうか。

 自覚があったのだろうか、彼は笑みを少しだけ苦笑じみたものに変えた。


「これっすか? いやーお恥ずかしい。別に深い意味はないんすよー。ただ何となく雰囲気出るっしょ? ウチの奴らみんなお祭り好きなんで、とりあえず着るだけ着とけって感じで半ば無理矢理。でもぶっちゃけ動きにくいんすよねぇこれ。オレはやっぱ苦手っすねー。それ分かっててみんなもノせるんだからタチ悪いっすよ。まあ流されちゃうオレもオレなんですケドね。あ、みんなって誰かって? いやあ一言じゃ説明しにくいというか本当に色々っつーか。これでもオレ交流広いんすよー。まあ薄っぺらいかもしれませんケド。あはは。でも色んな奴らと話して遊べんのは楽しいっすからね、まあいいかなって」


「……悪いが、今はそんな話を聞いている余裕はなくてね」


「ああすんません、つい喋りすぎちまう。いやあ悪い癖ですね。武山先生もお忙しいでしょうに。いやいやほんと感心しますよ。朝から遅くまで働いててほんとスゲー。超カッケー。実はオレも先生目指してるんすケド、あ、らしくないって思いました? オレこれでもスゲー子供好きなんすよ! たまに公園でみんなとサッカーしたりバスケしたりしますし。秀お兄ちゃんと結婚するーなんてプロポーズされたこともあったりしてうははは今の子ってばマセてますね! お兄さん困っちゃう! 武山先生もモテるでしょ。絶対モテますねオレ確信してますよ。もーイケズぅー。よっ、色男! ニクいっすね!」


「……本当に悪いが」


「ああっ、またつい。サーセン。すんません。違うんですよ悪気があるワケじゃなくって。ただつい武山先生をリスペクトする余り色々お話したくなっちゃって。うーん本当にすんません。先生、帰らなきゃですもんね。帰って……先生って帰ったらお一人で何するんです? 参考までに聞きたいなぁなんて!」


「……君との会話は頭が痛いな。それに一人じゃない。私には娘が」


「娘さん、亡くなってますよね」


 武山は動きを止めた。

 呼吸も、思考も、何もかもが止まったかのようだった。


 武山の視線を受けても、彼はやはり笑っていた。

 紺色の着物が、風ではためく。


「何を」


「あれあれ? 雨の日。事故で亡くなってますよね。武山みのりちゃん。まだほんの赤ちゃんだったのに痛ましいです。本当に本当にスゲェマジで。しかも奥さんはみのりちゃんを産んで亡くなってますもんね。先生のお気持ちお察しします」


「黙れ……」


「でもですねぇ先生。だからっていけないっすよ。みのりちゃんはみのりちゃんなんです、代わりなんていないんです。寂しいかもしれませんが、つらいかもしれませんが、代わりをどこかから取ってこようだなんてそんなの罷り通りませんよ。あまつさえ言うこと聞かなくて殺しちゃうとか本当にダメです。先生。ダメなんですそれは。本当は分かってるでしょう先生なら」


「黙れ!」


 声を出すというのは、こんなにも難しい作業だっただろうか。

 思うように働かない自分の体が忌々しい。腹立たしい。

 それ以上に目の前の存在が――憎たらしい。


「何なんだ君は! 不愉快なことをベラベラと! 君の妄言を聞かされる俺の身にもなってみろ! あろうことか俺が殺しただと? それはつまり神隠し事件が俺のせいだと言いたいのか? 名誉毀損で訴えられたいのか!」


「先生。先生は本当に奥さんとみのりちゃんが大好きだったんですよね」


「――っ」


 尚も止めないその口に激昂しそうになる。

 しかし彼の眼差しがいやに慈しみに満ちていたものだから、そのタイミングを逃してしまった。


「もちろんオレの憶測もありますケド。……みのりちゃんが亡くなって、……初めは出来心っつーか、まあ、魔が差したんでしょうね。とにかく先生は赤ちゃんを誘拐しました。殺す気はなかったんでしょうケド……その子は結構聞かんぼで、……うん。みのりちゃんはこんなんじゃない、本当のみのりちゃんはもっといい子だ、ってカッとなっちゃったのかな。しかもそれだけじゃ済まなくなった。先生はみのりちゃんの成長が見たくなったんですね。だから次々と狙う子の年齢を上げてった。それをみのりちゃんの成長に見立ててね。……あはは、先生、いくら何でも気が早すぎっしょ。一、二ヶ月で高校生までって」


「だからっ……何を根拠に……!」


「先生の日記とアルバム」


「……!?」


 武山は混乱する。

 なぜ。

 ――それは、部屋に隠してあるはずだ。


「どうやって知ったかは企業秘密っすよー。あは。でもまあそうっすね、例えばこんなんはどうです? 武山先生は酔ってたんです。きっとね。先生お酒強いです? 今度飲みに行きましょっか? やだなそんな睨まないでくださいよ。コエーコエー。それでですね、えーと何でしたっけ。ああ、とにかく酔っちゃった先生は帰り道、幻覚でも見たんですよ。例えば狐に化かされたようなね。それで錯乱しちゃった先生はうっかりその大事なデータをオレのワイフォンに送っちゃった。誤送信あるある。ボタン一つですもん、いやはや怖いっすねぇ。そしてうっかり間違われたオレは衝撃の証拠にあーらビックリ。これは大変だ」


「何を馬鹿なことを……! 大体、江中は俺の目の前で消えたんだぞ! 他の奴らだって!」


「途中からはそうっすよね。でも先生。それでもですよ先生。みんな狙ってた子たちでしょ」


「……っ!」


 つらつらと流し込まれる言葉の弾丸は本当にふわふわしていて吐き気がした。

 彼は馬鹿にしているのだろうか。

 ニコニコとした表情からは考えが読めない。

 どんなに探ろうとしても、全て笑顔でシャットアウトしてくる。


 ワイフォンをヒラリと揺らし、彼は小首を傾げた。

 微笑む。


「言いましたよね先生。オレ、交流広いんすよー。警察のお偉いさんなんかにもコネがあったりして?」


 ――それは。


「その人たちにコレ見せたら……どうなりますかね」


 武山は動いた。

 彼に対する得体の知れない不気味さはあったが、先ほどの化け物に対するような恐怖はない。

 ここまで一方的に畳みかけられて事情もまるで分からないが、一つ分かっていることがある。

 知られたのであれば――始末しなければならない。


 彼に接近し拳を振るう――が、突風が吹き荒れた。

 たまらず数歩距離を取れば、幾分風が止む。

 それを見ていた秀がことさら明るい声を上げた。


「やだな先生! 怖いじゃないっすか!」


「黙れ……!」


「オレなんて先生と比べたらてんで弱いんすから。弱い者いじめはダメっすよ? 武道にも反するでしょ?」


「黙れえええええ!!」


 怒りに任せ、もう一度掴みかかる。

 彼は避けたりはしなかった。

 そのまま殴るなり絞めるなりすれば今度こそ終わりだ。

 武山と彼では体格も腕力も経験も違う。

 片付けは後で考えよう。

 とにかく今は終わらせる。

 終わらせなければ――。


 しかし、どこからともなく現れた炎が武山の身を襲った。

 咄嗟に払いのけるが、すぐに消えない炎は痛みとなって余裕を削り落としてくる。

 肉が焼ける。感覚が焼ける。理性が焼ける。

 何故上手くいかない。

 どうして!


「ああああああ!!」


「先生。オレはまあ、全然強くないですケド」


 彼の目には、憐れみが混じっていて。


「オレの周りの奴らは、強いですよ」


 そのとき、武山は彼の背後にぼんやりとした人影を見た。


 こちらを睨む異形の者。

 山伏姿の大男。


 ソレは、あの化け物と同じものを漂わせていて。

 武山の恐怖を引き戻すにはあり余るほどの力だった。


「ひっ……!」


 武山は逃げ出す。

 身体的にも精神的にも限界だった。


「その中でも強くてオススメなのはですねー」


 後ろから不釣り合いな明るい声が飛んでくる。

 しかし武山は振り返らなかった。

 彼の対処は後で考えなければならない。

 しかし今は――生きてこの場から逃げなければならない。


 肌で感じる空気はどんどん重みを増している。

 今にも降り出しそうな様相がこの場の不気味さに拍車をかけ、武山の心を掻き乱す。


 必死に走り抜けると、いくらか広い場所に出た。

 しかし行き止まりで、そこが今は使われていない空き地なのだと知る。


 そこに、一つの人影があった。

 凛と佇む小さな影。

 薙刀を構えた相手に油断も隙もないことは一目で分かる。

 何せそれは、よく見慣れたフォームで。


「武山先生」


「……咲坂……」


 薙刀を握り直した彼女、咲坂凛花は、真っ直ぐとこちらに目を向ける。

 彼女の瞳に迷いはない。

 強く、確かに、武山を射抜いている。

 それは敵を見る目であった。


 武山は彼女の実力をよく知っていた。

 知りすぎていた。

 教える立場でありながら、真摯に打ち込む彼女の勢いに食い殺されそうな恐怖を密かに覚えていたほどだった。


「とても、……残念です」


 そのとき武山は、自身の敗北を悟った。


 雨は、とうとう降らなかった。

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