02 狐と天狗とスネコスリ
さほど広くない路地の奥、目前に薙刀を突き出された男女、歪んだドラム缶、それを仕出かした自分。
「え、ていうかドラム缶……それ模擬刀だよな? それがこんな、え? 待って何事?」
そんなシュールといえばシュールな状況の中、ポカンとした青年の緊張感のない声が頼りなく宙に浮いた。
女性、薙刀、凛花とあちこちに視線を巡らせる様は落ち着きがない。
しかし当たり前だと凛花は思う。
突然見知らぬ少女に薙刀を突きつけられて落ち着いている方が異常というものだ。
――凛花だって、ドラム缶を凹ますほどの力を出すつもりはなかったのだけれど。
「いきなりごめんなさい。だけど逃げて」
「え」
短く言い、青年側に立った凛花はキッと目の前の女性を睨みつけた。
女性の背丈は青年より少しばかり低いくらいで、百五十台半ばの凛花ではやや威圧感に負ける。
それでも、気合いで負けるわけにはいかない。
「……男の人がその胸に惹かれるのは分かります。うっかりデレデレしちゃっても仕方ないかもしれません」
「いや、あの」
「だけど騙されちゃダメ」
「えぇと」
「信じてもらえないかもしれないけど、この女性は人間じゃありません。きっとこの胸も姿もあなたを騙すためのニセモノです」
「あぁら、嫉妬? でもお嬢ちゃんもそれなりにはあるじゃない。まだまだ見込みはあるから安心おしよ」
「そういう話をしているんじゃありません」
腕を胸の下で組み――胸を強調するためだ!――ニヨニヨと笑みを浮かべる女性を、一層強く睨む。
相手は随分と手慣れていそうだ。
この姿で何人の男共を手玉に取ってきたのだろう。
「あなたは狐? この人に何をするつもりだったの」
「何って。そうねェ、強いて言うなら……」
にっこり。
いっそ無邪気なまでに、九つの尾を広げた狐は笑みを深めた。
「デェトかしら」
「デ……?」
「つーか! コン姉!」
凛花を押しのけ、青年が前に出る。
危ないからと凛花は止めに入ろうとしたが――彼の勢いの方が強かった。
「だから耳とかシッポとか出さない方がいいって言ったっしょ!? どうせ誰にも見えないなんて嘯いてたケドこのザマじゃん! どうすんの!?」
「んふふ、ごめんねシュウ坊。やっぱ隠すのは窮屈なもんだからさァ。万一バレても、せいぜいコスプレさせられてるカノジョに見える程度かなァ、って思ってたのよ」
「それはそれでオレが変態だな!?」
「男の勲章さね」
「冤罪なのに!?」
カラカラと笑う狐に、ぎゃあぎゃあと喚く青年。
その雰囲気は非常に親しげだ。
それをポカンと眺めていた凛花は、一拍遅れてハッとした。
「あなた、この人が狐だと分かってて……!?」
「あ。ヤベ」
不穏な呟きを残した青年は――場違いにも、ヘラリと笑う。
そしてチャキ、と敬礼の形で手を上げた彼は、不自然なほど爽やかな笑みに切り替えた。
「まあ、そーゆうワケだから……」
「待って、何一つ分かってないのだけど」
「オレは大丈夫なんでご心配なく! それじゃあ!」
「あ、ちょっと!」
青年が背を向けて走り出す。
ヒラリと身軽に薙刀を飛び越えた狐が併走する。
凛花は困惑した。
あの青年は狐に化かされていたのではないのか。
あの狐は青年を手に掛けようとしたのではないのか。
だって。
あれは、化け狐だ。
「待って……!」
追いかけようとし、視界に映ったドラム缶に二の足を踏む。
謝るなり片づけるなりしなければ。
しかし、モタモタしているとあの二人を見失ってしまう!
逡巡。
申し訳なさに拳を握り、それでも結局、凛花は二人の後を追った。
ドラム缶については後で謝ろう。何度だって謝ろう。
自分の追走に気づいたのだろう、前を走る二人の速度が上がる。
「ちょおおお! 追ってきてる! 女の子怒ってんじゃん! コン姉のせいだぜ!?」
「やぁねシュウ坊、そんな怒るもんじゃないよ。愛の逃避行だなんてスリル満点じゃないのさ」
「呑気っすね!? ――ってスネコ! 待て待て今出てくんな危ねーから! やめてマジやめて!」
突然現れ、青年の足元にすり寄り始めた、黒い影。
青年の悲鳴じみた声に反応してか、それは青年の足を絡みつくように這い上がっていく。
器用に足の間を蠢きながら徐々に姿を現したのは、丸々とした柔らかそうなフォルム。
「しゅー」
「後で遊んでやっから! 今は無理ゲーだから! 待て! ハウス! こら危な、踏んじゃうって、ちょ、ホント、危な……あっっ」
「ふぎゅ」
「スネコー!?」
「あら。シュウ坊、ナイスシュゥト」
青年に蹴り飛ばされてしまった丸い物体はコロコロと転がって、無駄に並べられていた空き瓶をなぎ倒していく。まるでボーリングだ。
そんな茶番じみたワンシーンに、凛花は目を丸くした。
(あの人、スネコスリまで見えてる……!?)
【スネコスリ】。
雨の降る夜に現れ、人の足の間をこするとされる、犬のような猫のような姿形をした妖怪だ。
当然こすられた人間は歩きにくさを覚えるが、それ以外に特筆した危害はないとされている。
何かあるとすれば、せいぜい転んでしまうくらいだろう。
凛花は一層混乱する。
青年が狐を認識していたのは、狐に憑かれているからではないかとも考えた。
しかし、スネコスリまで見えているとなれば話は別だ。
彼は、本来見えざる妖怪の姿を全て認識できるのかもしれない。
――凛花と同じ、なのかもしれない。
ますます話を聞く必要がありそうだ。
そう勢い込み足を早めると、狐がチラと振り向いた。
「根性のあるお嬢さんだこと」
呟いた狐は、その柔らかそうな胸元に手を突っ込んだ。
何やらまさぐり、取り出したのは――ワイフォン?
無機質なソレはあまりにも場違いだ。
だというのに、狐はいとも容易く操作する。
指先がなめらかにディスプレイの上を行き来する。
それから、それを当たり前のように狐は大きな耳にあてがった。
「もしもしテンさん? 今どの辺りかしらね。……んふふ、それならちょうどいいわ。今シュウ坊と逃避行中でねェ。こっち来てちょうだいな」
次の瞬間聞こえた、大きな羽音。
一際強く風が巻き起こる。
吹き荒れる。
その風の強さに、凛花は思わず腕で顔を覆った。
足も止めてしまう。
「く、なに……っ」
「――何をしておるのだ」
目を開ける直前、頭上から低い声が降ってきた。
風が止む。
静かに姿を現したのは、赤くて鼻の長い仮面を頭に乗せた、山伏姿の男。
(今度は天狗……!?)
一見無骨そうなその男は、存外丁寧な動きで青年たちの前に降り立った。
「秀殿、大丈夫か」
「ぶはっ、テンさん早ぇえええ! コン姉の電話から一瞬じゃん!」
「む……」
「実は待機してた?」
「茶化すな。褒められこそすれ、揶揄される謂われはなかろう」
「あは、サーセン。でも助かったよ」
青年がカラリと述べると、天狗は満足げに一つ頷いた。
しかし次の瞬間には眉間にシワを寄せ、狐へジトリと目を向ける。
「全く……コン殿がついていながら」
「あら、説教は後にしてちょうだいな。口うるさい男はモテなくってよ」
口を尖らせながら、狐が天狗と青年の手を掴む。
掴まれた天狗は二人まとめてぐいと引き寄せ、一瞬。
三人の姿はその場から見えなくなった。
――え。
「消え、た……?」
凛花は呆然と辺りを見回した。
どこにも人影は見当たらない。
透明になっただけかとアホなことを考えたりもしたが――姿が消えるのだって十分非現実的で馬鹿らしい展開だ――三人がいた場所に立ってもぶつかる気配はない。
多少薙刀を振り回してみるが、やはり手応えはない。
本当に忽然と消えてしまったらしい。
どうしよう。見失った。
と、いうよりも。
「神隠し……?」
――最近起きていた事件が脳裏をよぎる。
今までの被害で男性はいなかった。
だが、男性が今後も狙われないという理由も保証もない。
何よりあの青年には謎が多すぎる。
被害者にせよ加害者にせよ、何らかの関係はあるのかもしれない。
(どうしよう……)
気になる。
諦めきれない気持ちが胸の中で渦巻く。
しかし、彼らの姿を見失ってしまった今の凛花にはどうすることも――。
「ふぎゅぅ」
「……」