17 決裂
扉を開けると、狐がいた。
カウンターに胸を預けていた狐は、音に反応してか顔を上げる。
そしてこちらに視線を向け――一度大きく見開くと、すぐにそれを細めた。
ぼんやりとしたオレンジ色の灯りの下では、その美しい顔は奇妙な迫力がある。
しかし今の凛花には気にしてやる余裕もなかった。
「お嬢ちゃん。ここは曲がりなりにも繊細なものを扱ってるお店だからねェ。そんなびしょ濡れで来られても困るんだけど」
「……秀さんは、どこ」
「シュウ坊? シュウ坊なら奥にいるさね。しかし何の用だい? コトによっちゃあ――あ、ちょっと!」
凛花は進む。
細い通路に続く扉をガラリと勢い良く開く。
すると声が聞こえていたのだろうか、丁度向こうから秀がやって来るところだった。
「コン姉、お客さんでも……あれ、凛花ちゃん? どしたん、水も滴るいい女になっちゃって……おわ!?」
勢い余って飛びかかれば、不意打ちに耐えきれなかった秀はそのまま凛花諸共後ろに倒れ込んだ。
とっさに凛花が怪我しないように抱え込んでくれたようだが、その分、彼はもろに背を打ったらしい。目を白黒させている。
「いったたた……」
「……」
「凛花ちゃん!? 随分過激なお出迎えっすね!? でもちょっと危なすぎっつーかお兄さんはもう少し穏やかな方が好みっつーか。ていうかほんとびしょ濡れだな! 女の子がそんな身体冷やしてどーすんの、風邪引いたら困るっしょ……、……凛花ちゃん?」
「……どう、しよう……」
「……何が、あった?」
「美晴がっ……」
その名前を口にするだけで言葉が詰まった。
凛花は拳を握る。きつくきつく握りしめる。
「美晴が、産女に……どうしよう、美晴に何かあったら……!」
「凛花ちゃん、えっと、落ち着いて」
「巻き込んじゃダメだったのに! 私、どこかで油断してたっ……本当は一人でやらなきゃいけなかったのに、それなのに私……!」
「凛花ちゃん」
震える手を握り込まれる。
案外大きな手だった。
それほど体温は高くないようなのに、凛花の身体が冷え切っていたからだろうか、ほんのりと温もりが伝わってくる。
「凛花ちゃん、深呼吸」
「でも……」
「深呼吸して、落ち着いて。まずはオレらにも分かるように説明」
「……」
「できるな?」
「……は、い」
ゆっくりとした声音に、徐々に頭が冷えてくる。
凛花は少しだけ全身の力を抜いた。
強張ってしまった身体はなかなか素直に言うことを聞いてはくれないが、それでもある程度は自由を取り戻し始める。
「もっ回確認な。はい、まずは深呼吸してみ? ひっひっふー?」
「何を産ませる気ですか」
「いや違うよ!? オレはただ和ませようとしただけで!?」
「……。深呼吸しました」
「はいじゃあ次は?」
「……説明……」
「の、前に」
ヘラリ、と秀は笑う。
やはりふわふわと、羽毛布団よりも軽そうな笑みで。
「一旦オレから降りましょうか」
「……あ!」
「うん、年頃の娘さんがこの体勢はちょっとね、何ていうかオレとしても目のやり場にも手のやり場にも困るっつーか、ちょっと刺激が強すぎるんじゃないかなぁなんて」
「な、何ですか、それ!」
「そもそも服もほら、その、濡れてるワケで……透け感がちょっとね、ハイ、見てない、見てません! オレ紳士だからさ! チョー紳士! スーパー紳士! な! 凛花ちゃんちょっと落ち着こうか? その傘どうする気かな? やめよ? オレに穴開いちゃうからね? 穴ぼこはちょっとカッコ悪いからね? あとタックルの勢いはともかく体重は軽すぎな気がするからもう少し食った方が――ごめんなさいやめてくださいそれで突かれたらマジで死んじゃう」
相変わらずよく回る口だ。
羞恥に震えながら、凛花は秀の上から退いた。
自分が悪いとはいえ、ちょっとした屈辱だ。
ヘラヘラと気を遣われているのが余計に居たたまれない。
「痴話喧嘩は終わりかい?」
扉の向こうから狐が呆れた口調で声を掛けてくる。
「まあ、そこで話すのもなんだろうからね。向こうのテェブルにおし」
「あ、すみません……」
「んふふ。あたしだって狐であって鬼じゃあないよ。お茶くらいなら出してやるさね」
***
いつの間にか秀や狐だけでなく天狗とスネコスリも席についていて――スネコスリは秀の膝の上だ――凛花は、途端に気まずくなった。
勢いで来てしまったが、随分と情けない姿を見せてしまった気がする。
狐が本当に淹れてくれたお茶は湯気が立っていた。
身体が冷え切ってしまった今の凛花には随分とありがたい。
――お風呂に入ったらどうかと秀には勧められたが、それはさすがに辞退した。
代わりに、せめてこれだけは、と貸してくれたタオルはかなりの大きさだ。
それはフカフカとした肌触りで、こんなときなのに妙な感心をしてしまう。
「それで……――」
未だに混乱が抜けきってはいないのだろう。
凛花の説明は、自分でも呆れるくらいたどたどしいものだった。
そもそも分かっていることが少なすぎるせいでもある。
凛花が分かっていることといえば、つい先ほど産女が出てきたこと、「警告」だと言い美晴を連れ去ったこと、それくらいのものだった。
「……それ、ほんとに産女だったの?」
「え?」
真剣な顔で聞いていてくれたはずの彼から最初に出てきたのは、意外な言葉だった。
凛花はポカンとしてしまう。
何を言っているのだろう。
なぜそんなことを――言うのだろう。
「産女、だと思います……。髪が長くて、女性で……赤ちゃん抱えてて。下腹部が真っ赤で……」
「うーん」
「秀殿? 凛花殿の証言と見た目は一致していると思うが」
「うぶめ、いっしょ、すねこ、知ってる」
「うーん」
「まあ、見た目はそうねェ。でも、あたしもシュウ坊に一票かしら。何だかふわふわした話じゃないか。テレビでも産女を例に出しているところはあったけど……それにしちゃ産女にメリットがなさすぎさね。こじつけもいいとこだよ」
気怠げに狐は言ってのける。
その言葉に、天狗とスネコスリもまた一様に頷いた。
「それは確かにだな」
「すねこも、思う」
「うーん」
「……信じて、くれないんですか」
声が震えないようにするのが精一杯だった。
それと同時に広がる、苦い後悔。
いくら混乱していたとはいえ――なぜ、ここに来てしまったのだろう。
「あ、いや」
凛花の様子に気づいたのか、秀が慌てた様子で笑みを取り繕う。
「あのな、凛花ちゃんが嘘ついてるとかじゃなくて」
「それなら何だと言うんですか」
「いや、ただ、産女ってそーゆう妖怪だっけ? と思って。あれって確か死んだ妊婦の霊が~ってやつでしょ。人攫いとは分野が違うっつーか……」
「秀さんがそれを言うんですか。そんなこと言ったら、オリーブオイルにハマっている油取りなんてどうなるんですか! ネトゲにハマってるそこの天狗だって!」
「えっと……」
秀が眉を下げて頬をかく。
それでもヘラヘラと笑みは残したままで、それが無性に癪に障った。
馬鹿にされているのではないか。
信用、されていないのではないか。
そんな猜疑心に胸が苦しくなる。
「現に美晴は連れていかれたんですよ……!」
秀は、答えない。
他の妖怪たちも難しい顔をしたまま口を開かない。
凛花は独りなのだと、唐突に気がついた。
ここに味方はいない。
――そもそも、凛花が勝手に彼らの中に飛び込んだのだ。
あまりにもあっけらかんと接してこられたため、どこかでそれを忘れそうになっていた。
(美晴……)
彼女は、凛花が唯一心を開ける友人だった。
妖怪が見えるせいで、時には周囲から変な目で見られることもあった凛花を、彼女だけは明るく受け入れてくれた。
いつだって慕ってくれた。
そんな彼女が連れさらわれて――どうして、冷静でいられようか。
雨に打たれた身体以上に、心が急速に冷えていく。
凛花は立ち上がった。
ゆらりと湯飲みの中が波打つ。
そこに映る自分の顔は、ひどく歪んで見えた。
「……妖怪は、やっぱり妖怪の味方なんですね」
「凛花殿、それは違う」
「秀さんも……妖怪の、味方なんですね」
「凛花ちゃん」
俯く凛花に、狐が眉を跳ね上げる。
「あのねお嬢ちゃん。そりゃあ違う。妖怪は基本的に馴れ合わないもんさ」
「でも、じゃああなたたちはどうなんですか。いつも一緒に行動してるじゃないですか」
「あたしらかい? そりゃあだって」
んふふ、と狐は笑った。
うっそりと、口元を綻ばせて。
「ファミリィ、ってやつだからねェ」
「……」
それは、明確な拒絶なのかもしれなかった。
それとも宣戦布告か。
凛花は顔を上げる。なけなしの気力を振り絞る。
「もう、いいです」
そのまま凛花は店を飛び出した。
相変わらず叩きつけてくる雨は冷たく重苦しい。
しかしそんなもの、今の凛花には気にならない。
――きっと、裏切られたなんて思うことすら烏滸がましい。
(美晴は、私が助ける)
水たまりを思い切り蹴り上げながら、凛花は一心に足を動かした。