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ダブルリング  作者: 理湖
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空(アベル視点)

目を覚ますと、遠くの青い空と自分の額に伸びる掌が視界に入った。そのまま顔上の手は布を掴んで遠ざかっていった。握られていた布は自分の額に乗せられていたものらしく、少し風が吹くと額がすっと冷えて気持ちよかった。


「気分はどうだ?」


眠りから覚めてぼーっとしていたアベルだったが、真上で揺れる木の幹から声のする方に視線をずらすと、その先にはかつて屋敷を訪れた黒男、ネロが木陰に座ってこちらを眺めていた。彼は涼しそうな七部丈の紺色のTシャツを着て動きやすそうな黒いズボンを履いていた。


くそ、ラフな格好でもさまになるな。


(…夫人の供物は!?)


直後、ばっと起き上がり、辺りを見回す。しかし、すぐそばに置いてあるぱんぱんの買い物袋に気づき、ほっと胸をなでおろした。


だが、ネロの存在の不自然さに首を捻った。なんで彼はこんなところに座ってるんだ?これではまるで自分のそばにいてくれたみたいだ。


「お前、市場で歩いてて倒れたんだよ。多分熱中症だ。こんな暑い中そんな長袖長ズボンで外を出歩くな。…具合はどうだ?」


不機嫌そうに眉を顰めこちらを見下ろしながらネロは前半ぶっきらぼうに声をかけたが、後半は眉の力を抜きこちらを気遣うような言葉をかけてきた。


(この人が倒れた自分の看病をしてくれたのか。)


こんなふうに他人の面倒になるのはいつぶりだろうか。


先ほど倒れる寸前の光景の中、すぐ近くを歩く人々の足は自分がいないかのように通り過ぎていたのを思い出すと、ネロの行動は親切すぎて逆に信じきれないものがあった。倒れた人間に駆け寄るなんて普通ならしない。そいつが感染症の可能性だってあるのだ。その中で助けに来るのは医者くらいじゃないか?


アベルは買い物袋に載せていたスケッチを胸に抱き、上半身を起こした状態で文字を写す。


『あなたが看病してくださったんですね。ご迷惑おかけしまして、申し訳ありませんでした。私は仕事がありますのでこれで失礼します。』


と起こした上半身を折りたたむようにぺこりと頭を下げる。


そう、こういう怪しい人に会ったときはすぐに離れるのが一番。


そのままゆっくりと優雅に立ち上がろうとして、、、ごろんと後ろに倒れた。


思いの外足に力が入らなかった。立ち眩みもしてバランスを崩したらしい。


(思ってたより足がグラグラする。でも次は立てる気がする。)


怪しいというのもあるが、前回の別れ際の事もあり、ネロの謎の問いかけがアベルの中でまだわだかまりとなって残っていた。それもあってアベルは早く立ち去りたかった。


アベルがまた起き上がろうと上半身を起こそうとすると、おでこに人差し指一本で押し戻されてあっけなく再び寝転がされた。


アベルはたかが人差し指一本で抑え込まれたことに、びっくりしてすぐに反応できず呆然としてしまった。


「お前、まだ本調子じゃないだろ。大丈夫じゃないなら大丈夫じゃないって言えよ。」


ネロが溜息をつきつつ、呆れた声が降ってくる。そして彼は黙り込み何か考え込んでいる。


(指一本で押さえ込まれるなんて…。)


はと我に返ったアベルはなんだかカチンとして自分を押さえる腕を両手で掴み引き離そうと躍起になるが、腕にも力が入らず引き剥がせない。全く歯が立たない自分の筋力のなさにも苛立った。


(こいつ、いったい何がしたいんだよ!?)


アベルは心中で悪態をついた。意味はないが足もジタバタさせてみたが、下ろした拍子に地面を打った足の痣が痛んだのでそれはすぐに諦めた。


どうしたらこの状況を脱せるのか考えているとネロが上から声をかけてきた。


「お前、買い物これで全部か?あとは屋敷に戻るだけ?」


(急に何だ?)


訝しみながら恐る恐る掴んでいた手を離し、その腕から彼に視線を移すと口に笑みを浮かべる彼が目に入った。


(まぁ、ここで嘘つく必要ないよな…。)


ひとまずアベルはこくと軽く頷いた。


「わかった。お前1人だとまたどっかでくたばりかねないから送ってってやる。」


(送って、くれる?)


「荷物は俺が持つからお前は俺の背中におぶされ。」


と言い終わるとアベルの返事も聞かず、アベルの額から指を離して何やらゴソゴソし始めた。


アベルがゆっくりと身体を起こすとネロは言っていた通り、アベルの買い物袋やスケッチなどを自分の腰のベルトにくくりつけている。


本当に送ってくれるのだろうか?信用していいのだろうか?と思いつつアベルはゆっくりと今度はふらつかないように両足と腹筋に力を入れて立ち上がる。今更ながら商店街ではべたべたしていた服の気持ち悪さがなくなっているのに気づいた。


不思議に思う間もなく、ネロが「いつでもいいぞ。」と声をかけてきた。


しゃがんでこちらに背を向けるネロはもう準備ができたようで自分が来るのを待っている。


彼に一歩近づいて、不安がよぎった。


もしかしたら、どこか知らない場所に連れて行かれるかもしれない。


どこか人目のない場所に連れてかれて殺されるかもしれない。


奴隷として売買されるかもしれない。


アベルは自分の考えうる最悪の結末を考えてみるが、しかし、どこかで「それでもまぁいいか」思ってることに気づいた。


どこかに連れ去られても心配してくれる人はいない。そこでこき使われても今と変わらないし。殺されるのは怖いけどこの虐待を受けている状況を考えて今でもいつ暴力がヒートアップして殺されかねないことに思い当たり、現状以上に悪いことにはならないだろうという結論に至った。


今より悪いことがあるだろうか?


自問に対して心の中で小さく首を振り、今までネロのことをいぶかしみ、不安や怒りや恐怖を感じていたことを自嘲した。そこから迷いはなくなった。


だが、別の問題が浮上した。


彼の背中におぶさろうと思って、今まで誰かに”おぶさった”ことがないことを思い出した。


(おぶさるってどうするんだ?背中に乗るんだよな。どうやって?倒れこんだらこの人潰れない?線細くて僕なんか背負えるように思えないんだけど。てか百歩譲って背中に乗れたとして、背負われている間、足はどうなってるんだ?手は、こう、首に回ってるような、いや、肩に当てるくらいか?)


おぶさった経験がない自分にとって、おぶさるという行為はわかるがそれは街中ですれ違う親子がおんぶしている光景を見たことがある程度で、自分がまさかすることになると思ってなかったのでやり方がわからない。


ああでもないこうでもないと腕を上げたり下げたり昇降を繰り返していると、


「ほら、早く。」


と背を向け、ネロがしゃがんだ態勢はそのまま首だけくるりとこちらに向けた。


彼はアベルのおかしなポーズに一瞬ぽかんとした顔を浮かべた。


ネロは何かを告げようと口を開いて、しかし何かに気づいたように一言も発さず口を閉じた。そして、ネロは黙りこくったまま急に立ち上がった。


(え、おぶられるんじゃないのか?)


もしや待たせすぎて怒っただろうかと混乱してしまい、すぐに動き出せなかった。するとこちらに向き直ったネロは徐ろにアベルの頭上に手を伸ばす。アベルは先程の指ストップが思い出されて思わず両手で自分の額を隠した。


しかし、手はそのまま彼の額を超え、頭の上にポンと乗せられた。


(!もしかして髪を鷲掴みにされるのか!)


と当初の想像とは違ったが、次は普段の暴力を思い出して身体を強張らせる。訪ずれるだろう痛みに対してぎゅっと目を瞑ったが、いつまでたってもその痛みは訪れなかった。


代わりにネロの大きな掌はアベルの髪を撫でつけた。


一瞬意味がわからなかった。


(これはもしかして親が子供にやってる…?)


物心ついた頃から親のいなかったアベルはこんな風に誰かによしよしされた思い出はない。もちろんあの好々爺にだってされたことはない。


でも、なんで?


不思議に思いつつ別段嫌な気持ちにならない、むしろ一瞬でも考えた老爺があけた心の穴が埋まっていくような気がした。


(なんでこんな気持ちになるんだろう?)


なされるがまま撫でられていると、そのままするりとネロの手がアベルの額の両の手に重ねられた。


今度はなんだ?と思ってネロを見つめると彼の目がキュッと細められ唇が綺麗な弧を描いてそこから「ふっ」と笑い声が漏れた。


面白そうに笑う彼の顔は初対面の時の淡い微笑みよりも好きだなと思った。


(好き?好きってなんだ?)


するりと溢れた言葉の選択に自分自身不思議に思ったが、考える暇は与えられなかった。


重ねられた手でぐっと両手を握り込まれ、そのままネロの方へ引っぱられる。


不意をつかれたアベルはバランスを保てずネロの方へそのまま傾ぐ。このままだと彼の胸に…慎重さを考えるとお腹に抱き着く形になる。


が、そこからネロの動きは早かった。


こちらにくるりと背中を向けてしゃがみながら倒れこむアベルを背中全体で受け止めた。

繋げたままの腕をネロがくぐり、彼の首に腕のリースがかけられたようになった。ほぼ全体重をかけているというのにネロは気にせず両手でアベルの足を抱えて前かがみのまますっと立ち上がった。


「どうだ、これがおんぶだ。」


後ろを振り向いて背中に乗せられたアベルにニカッと自信満々に笑いかける。


その笑顔を見た瞬間とくりと心臓が跳ねたのを感じた。


(!)


至近距離で彼の笑顔を目にして、ばっと勢いよく彼の背中に顔を伏せてしまった。


人の醜悪に疎い自分でさえあの笑顔を見続けることはできなかった。閉じた瞼の裏に再び心臓に悪い笑顔を思い浮かべそうになり、慌てて額を彼の背中に押し当てて軽く頭を振った。


(あ、いい匂いがする。)


ってそうじゃない!

思わず全身に力が入った。


(あ、思ったより鍛えてるんだな。)


って、これも違う!もうこいつと一緒嫌だ!!調子狂う!


アベルの頭の中は軽くパニック状態だった。最初の恐怖などどこへやらだ。僕って意外と現金な奴だ。


「あ、」


ネロは何かに気づいたらしく言葉を漏らしたが、その続きの言葉はすぐに出てこず、少しの間沈黙が降りた。


「そういえば、お前名前は?俺の背中に指でなぞれ。」


何を気づいたのかと思ったが、そういえば自分は自己紹介をしていなかった。そもそも他人に名前を名乗る習慣がなかったので、すっかり忘れていた。


少しでも今の自分の気が紛れてくれるならそれでいいと、顔を伏せたまま素直に言われた通り背中に文字をなぞる。


『アベル』と


「よし、アベル!これからお前の屋敷まで連れてってやるから、しっかり掴まってろよ!あと、舌噛まないように歯はしっかり閉じろよ!」


舌噛まないよう?自分は馬か何かにでも乗っているのかと訝しんでいると、ぐっと全身に重力を感じ、アベルの体はネロの背中におしつけられた。思わぬ重力に息が漏れたが、声にならず掻き消えた。


顔も伏せたままだったので辺りの様子がわからず、ただネロに身を任せていると、ふっと体を押さえていた重力が消え、急激な浮遊感を感じ自然と顔が上がった。


ゆっくりと目を開けると、驚くことに先ほどまでの木や商店街の光景は既になく、ただただ同じ目線に空だけが広がっていた。


(空?)


見上げずに空を眺めたのは初めてだった。


目の前の光景に心を奪われていると、ネロの足を抱えていたアベルの両手が離れた。滑り落ちるかと思ったがネロはしゃがむように体を前屈させていてそんな心配は杞憂に終わる。下の方でトンと音がして、ネロの膝の裏に再びアベルの手が回り、きちんとしたおんぶの態勢に戻った。


ちらりと下を向くと、赤錆びた傾斜のついたトタンの上に乗っかっているのが見える。後ろを振り向くと先ほどまでの自分たちが木陰に入っていたと思われる木のてっぺんが目線と同じ高位に見える。


(ここは屋根の上?)


もう一度視線をあげ、首の回る限り見渡す。遮るもののほとんどない空が広がっていた。


(空が…)


空が、広い。青くて、綺麗。


思わずネロの背中に人差し指を当て、「空って広いね。」と文字を綴った。


彼はちらりとこちらに顔を向けて「あぁ、大きいだろう。」と返事をくれた。彼の顔は見てないがきっと穏やかな顔をしているに違いない。


心臓に悪い彼の顔は見ないほうがいいから今は見たくない。


『それと、今まで見た中で一番きれい』


「うん、そうだな。それに、アベルの瞳と同じ色だ。綺麗だ。」


(僕と同じ色…?)


あまり鏡を見ないから自分の瞳がこんな色かはわからなかったが、彼が自分の瞳と似ている空を「綺麗」と言ってくれるのは、自分の瞳が綺麗だと褒めてくれたみたいでなんだかこそばゆくて嬉しかった。


「アベル、日が暮れるまでに帰ればいいか?」


『うん』と彼の背中に文字を書く。そう、送ってもらう予定だったんだ。


「よし、じゃあ行くぞ!スピード出すからしっかりつかまってろよ!」


ネロはそう言い、アベルを背負ったまま商店街の屋根の上を駆け抜けていった。

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