召使い
物心つく前から貧民街で暮らしていた。城下街の店から売り物を盗んでは、その日暮らしの生活で、いつ死に絶えてもおかしくなかった。現に何人もの死体を見てきた。
盗んだパンをかじっては、時折そびえる王城を見上げていた。
あの城では一体どれほどの贅沢が尽くされているのだろうか。疑問には思ったが、その時の自分は恨みの念などを抱いたりしなかった。現世と天上ほどの違いがそこにあると思っていたからだ。
劇的な出会いとはある日突然にやって来るものであって、僕の運命はあの日に全て決められた。
なんだか身なりの良い人が僕の目の前に立ったかと思うと、さるお方の側仕えとして僕を召し上げると言ったのだ。
僕は驚きのあまり返事もできなくて、ぼうっと突っ立ったままだった。そんな僕の前に、驚かせることを言った大人を押し避けて、ある女の子が立った。
僕とあまり変わらない年頃の女の子だったが、彼女はとても美しかった。みすぼらしい僕と彼女とでは、汚い虫と宝石ほどの違いを感じた。恥ずかしくてそこから逃げてしまいたかったけれど、僕は彼女から目を離せなかった。
美しいその人の瞳には、多大な侮蔑と、僅かばかりの憐憫があった。その時の僕にはわかった。
わけのわからない間に城に上げられ、僕はあの美しい人のお世話をすることになった。そこまでしてやっと僕はその人が女王様であると知った。
「お前は私の言うことを聞いていればいい。私のためだけにあるのよ?」
「はい。わかりました」
女王様はとても満足げに微笑まれた。その笑みを僕は何日経っても忘れられなくて、僕は女王様に命を捧げることを決めた。
女王様は悪政をなさるとのことで、公に声を大にして言われないが、悪い評判ばかりだった。しかし僕にしてみれば悪評を流す相手は僕に何もしなかったのだから、何を偉そうにとしか思えなかった。
女王様は違った。陳腐な台詞であるけれど、たとえ世界が女王様の敵になったとしても、僕は女王様の絶対の味方であることを決めた。
女王様のためになることだけをしたかった。僕は女王様に全てを捧げた。
あくる日のこと、女王様は僕に本を投げて寄越した。
「こちらは?」
「私の下僕なのだもの。それに相応しい教養でも身につけなさい」
それは教本であるようで、僕には見覚えがあった。女王様がお使いになられていたものだった。女王様はもう使わなくなったものだからとおっしゃっていたけれど、僕はそれでも嬉しかった。
女王様が僕に施しを与えてくださり、そして期待をかけてくださっているのだからと、僕は少しの合間の時間をぬって懸命に勉学に励んだ。
僕みたいな者の努力でさえ報われるらしく、そのうちに僕は女王様が手掛けている難事を理解できるようになった。女王様が手掛けた仕事を盗み見て、首を傾げた僕に対し、女王様は何事かと問い掛けた。僕は答えられなかった。
僕に施してくれた本を、女王様は理解しておられるはずだ。僕は女王様のことを誰よりも知っていたから、明確に答えられた。
悪政をしいていると評されてしまう女王様だ。だが僕は女王様が愚かでないと知っていた。しかし、しかしこれではまるで……。
「それでいいのよ」
僕の心を見透かしたかのように女王様は言った。女王様は笑っていた。
なるほど。僕は納得した。これは女王様の復讐なのだ。ならば僕は女王様の全てに従うまでだった。
僕にとって、女王様に仕えることは何よりも至福だった。しかし、女王様の国はいつまでも続かなかった。
その日も女王様はいつものように玉座に腰かけていた。城の外は騒がしかった。反逆が起こっていたからだ。女王様は特に取り乱していなかった。
家臣は皆逃げていた。僕は女王様のものだから、いつまでも女王様のお側にお仕えするつもりだった。世界には女王様と僕だけだった。
「女王様。逃げましょう」
「どこへ逃げると言うの」
「どこへでも。僕が女王様をどこまでもお連れします」
すると女王様は嘲るように笑った。
「馬鹿なことを言うものね。逃げるなら一人でお逃げなさい」
「何を言うのですか。僕は女王様のためにあるのです」
「私のためでなくとも、お前はもう一人で生きるに十分な素養を持っているではないの。私のためと言いながら、お前はすでに私のために存在する理由も意味もないのよ」
「なぜそう仰るのです! 僕はっ……僕は女王様を愛しておりますのに! だから!」
「わからないようね」
僕が醜くすがりつくのを振り払うように、女王様はピシャリと手のひらに扇を打って鳴らした。
「命じればいいのかしら。ならば命令よ。今すぐ私の前から去りなさい。そして二度と私の前に現れるのでないわ」
「そんな……っ」
僕は女王様のために存在していたから、女王様の命令に背けようがなかった。そして何より、女王様の拒絶の眼差しに耐えられなかった。
僕はずっと後悔している。どうしてあの時命令に背いてでも女王様と共にあろうとしなかったのかを。どうして初めて出会った時同様、女王様の瞳に隠された感情に気づかなかったのかを。