【1/8ゲシュタルトの絶望④】
梅雨真っ只中の今日この頃ではあるが、幸いなことに天候に恵まれた。
今日は体育祭、である。
快晴とまではいかないものの太陽が仕事を開始する。
そして長尾家も行動を開始する。
普通のサラリーマンである父親と、ネコババされているとは思ってもいない母親が朝から騒がしい。
忙しなく歩く音が二階まで聞こえる。
まぁ無理もない。
体育祭は虎之助の真骨頂だ。独壇場と言ってもいい。
虎之助に走らせれば右に出る者は何人かしかいない。
蝶よ花よと育ててきた虎之助の勇士を見たくなるのも当然だろう。
その虎之助はというと結構いつも通りだ。
体育祭では給食は出ないので弁当を詰め込んで、大きい水筒も持参する。
経済的、である。
最近の中高生は水筒を持参しないでペットボトルを買ったり、学校に宅配ピザを頼んだりする。
そういう観点から見ると長尾家は、
経済的、である。
「二回も言わなくていいんじゃないかしら」
「私の愛も経済的! この愛は奈央ちゃん以外に使わないもんっ」
「……」
なにはともあれ出発。
今日は通学鞄ではなくスポーツバッグだ。
俺たちが一斉に飛び込んだのを確認して虎之助がファスナーを閉める。
と思ったら少しだけ開けてくれた。
俺はこっそりバッグの奥を探って昨日入れておいたモノが入っているか確かめる。
「じゃあ行こっか」
俺が確認したのと同時に、虎之助がバッグを肩に担ぐ。
そのまま玄関まで下りて靴を履く。
この前の靴とは違い、なんかこう小さい穴がたくさん空いていてソールがやけに薄い。
虎之助本気モード、である。
最後に靴ひもをしっかりと締めると玄関扉を開けた。
「いってきまーす」
そして待ち受ける最初の難関。
スポーツバッグがごそっと揺れるとアルマゲドンの雄叫びが聞こえた。
俺たちはバッグの中で思わず身体を縮ませる。
「アルマゲドン、いってきます」
何度か鞄が揺れると、まるで呼応するかのようにアルマゲドンが咆哮する。
その声も徐々に遠くなり、俺たちは安堵のため息を一つ吐いてバッグから顔を出す。
「朝っぱらから容赦ねぇな」
「水筒が足に当たったぁ。いたーい」
ユピテルが言うと虎之助ははにかみながら「もう大丈夫だよ」と諭すかのように言う。
ここは僕がみんなを守るよ、僕が小太郎を守るよ、そんなニュアンスが含まれているように感じた。
「まったく持って気のせいよ」
会長から鋭い指摘があったが気にしない。
直射日光を全身に浴びながら虎之助は歩く。
なるべく日陰を歩いているのか木漏れ日がいちいち眩しい。
風はない。だが、虎之助の歩みに合わせてわずかな風が頬を撫でる。
学校前の最後の直線道路まで来ると人の往来も激しくなる。と言ってもほとんどが霊長中学の生徒だ。 会話に花を咲かせている者、それとは逆に黙々と歩を進める者、しかし一様に表情は明るく見えた。
「ねぇねぇ奈央ちゃん、あれ見て」
と、突然ユピテルが口を開く。
視線の先に目を遣ると霊長中学の女子が意気揚々と会話をしながら登校していた。
その面々を見て我知らず身体が固まる。
作戦のターゲット、北条帰蝶。
彼女は今日も今日で取り巻き三人と和気藹々としている。
彼女らの常日頃は知らないが、まるで体育祭の熱を欲しがっているような、それでいて非日常のイベントを待望しているような、そんな印象を受けた。
「北条帰蝶……」
知らず知らずのうちに彼女の名前を口にしていた。
ニコニコしながら軍団の最後尾を歩いている。
全自動八方美人は今日もオートでしっかり発動しているように見えた。
「あら、彼女と通学路が近いのね。……でも今は何もできないわ」
「あぁ、別にここで行動を起こす必要はない。そもそもこんだけ人がいたら起こせない」
虎之助的に、という言葉は言わないことにした。
それでも俺は北条帰蝶から目を逸らさない。ばれないように最大限の警戒を敷いて彼女を観察する。
今日はリベンジマッチだ。今日こそは成果を上げて見せる。
俺の中の闘志が沸々と熾火のように燃え滾る。
不思議と自信が漲っていた。
太陽は少しずつ高度を上げる。それと比例して気温もぐんぐん上昇してきた。
今日は人の行き来が常よりも激しい為、俺たちは極力頭を出さないでいた。
普段の退屈な授業のうっぷんを爆発させるかのように人間たちは騒がしい。
「さすがにうるさいわね……」
バッグの中で会長は辟易する。
まだ体育祭は開幕していないのにこの熱気だ。始まったらどうなるのか想像もつかない。
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ様子を見るため顔を出す。
すでにホームルームは終わり生徒たちはグラウンドに椅子だけ運んで待機していた。
トラックを囲むように着々と椅子が設置されていく。
虎之助が最後尾に陣を敷いているのに対し、北条帰蝶はクラスのほぼ中心、真ん中に席を置いていた。
どうやら体育祭では席の場所は自由のようだ。
生徒たちが落ち着きを取り戻す様子はない。
こういう非日常の空間に当てられると、スクールカースト上位の人間たちはここぞとばかりにはしゃぎはじめる。
往々にして彼らは自分が主人公であると思い込んでいるのだろう。
勘違い、である。
この体育祭は虎之助の、虎之助による、虎之助のための体育祭だ。
主人公は虎之助であり、いま隣でやいやい言ってるお前たちは脇役でしかない。
ぶっちゃけ身の程をわきまえて欲しい。
「体育祭はみんなのものよ」
そんなことは知らん。
それに見て欲しい、虎之助のこの余裕。
これは決して大人しい男子が集団に溶け込めていない構図ではない。単なる余裕だ。
キョロキョロと視線を動かしているのは、周りの人間のコンディションを確認しているだけ。
ちょっとモジモジ手を動かしているのは紛れもなく指先の準備運動。
すでに虎之助は臨戦態勢だった。
他の人間とは意識そのものが違う。この覇気だけで脇役を失神させられるだろう。
「なんか緊張してきたね」
「……」
訂正、である。
これは間違いなくただの緊張だ。知己の俺が言うんだ、真偽を問うに値しないだろう。
「全然虎ちゃんのこと分かってないじゃん」
こういう虚言には無視で対応するのが一番。
居心地の悪くなった俺は虎之助に声を掛けて誤魔化す。
「心配すんな虎之助、お前がやることは二つだけだ。作戦の遂行、それと――――」
「クラス選抜百メートル走で一番、だよね」
虎之助が割り込んできた。どうやら心配ないようだな。
俺が一安心していると急にざわめきが大きくなった。同時にアナウンスが入る。
時は満ちた。
体育祭が開幕する――――。
体育祭はつつがなく進行しているように見えた。
生徒たちの熱狂は静まるどころ増々ヒートアップしていく。
全校生徒がグラウンドに集結しているため、ばれてしまうんじゃないかとヒヤヒヤしたが、その心配は幸いなことに杞憂だった。
ほとんどの生徒は自分の席で応援するのではなく、トラック付近の最前線を陣取って拍手喝采を送っていた。
虎之助は実行委員のため自分の席に戻ってくるのが少ない。
自分が出場する競技前に水分補給をしに来るくらいだ。
俺たちは結構普通に競技を見ていた。
昼飯を挟んで競技も三分の二を消化したとき、ふと得点板に目を向けた。
赤組が一一〇点。白組が一六〇点。
圧倒的に虎之助が率いる赤組が押されていた。
「別に虎之助が率いている訳ではないわ」
「……それもそうか」
虎之助を率いる赤組が負け越していた。
現在行われている綱引きが終われば残りは三種目。
騎馬戦と応援合戦、そして最後にクラス選抜百メートル走だ。
俺がぼーっと綱引きを見ているとあることに気が付いた。
虎之助のクラスの中央、つまり北条帰蝶がいる席に男子生徒が向かっていた。
こともあろうかその男子生徒は北条帰蝶の隣の席に腰を掛けて彼女に話しかけた。
白帽子からはみ出た茶色い髪、長身で線の細い体躯、イケメンと呼んでもいいだろう。
手首にはチャラチャラとミサンガやら数珠っぽいブレスレットが装着されていて俗に言うチャラ男のそれに酷似していた。
いや、はっきり言ってチャラい。
話声こそ聞こえないが、その男子生徒は楽しそうに会話を続けている。
チャラ男のにやけた顔を見て、少し嫌な予感がした。
そしてその予感はおそらく的中している。男子だからこそ分かるシンパシーを感じた。
俺は立ち上がろうとする虎之助を引き留めた。
「ちょっと待て虎之助、あのチャラそうな男はだれだ?」
「あぁ彼は武田君。武田半蔵君だよ」
「……そうか」
「隣のクラスなんだけどね……」
虎之助の語尾が少しだけ弱くなる。
それを聞いて我知らず俺は武田半蔵を目で追っていた。
隣のクラスの人間がわざわざ北条帰蝶の隣の席に座ってご歓談、か。
俺がしばし黙考していると会長が「そろそろじゃない?」と目で伝えてくる。
俺はそれに頷いて周囲を窺う。
「大丈夫だ、行こう」
そして俺たちは騎馬戦に出場する虎之助を見送って行動を開始した。
紙切れ三枚を手にして。