雨
洗濯物の匂いがする。石けん、カビ。孝平さんは部屋の中で乾すなとよく文句を言う。
最近雨が降り続いていることを孝平さんは知っているだろうか。
砂嵐ばかりを映すテレビからぼんやりとした明かりが部屋に漏れる。カーテンを閉めてあるこの部屋は薄暗い。初夏独特のじんわりとした暑さが身体に染み込む。
嫌な夢から覚めたときの気分に似ている。深い不快。
「…孝平さん」
ざあざあと砂嵐の音。
呼び掛けた声は彼に届いただろうか。隣に座っている、孝平さん。
少し間が開いてから小さく、なに、と返事があった。
「…なんでもない」
あ、そう。孝平さんはあまり興味がないのか素っ気なく相づちを打った。
ぼんやりと前を見つめたままの横顔は影に犯されている。青白い。
「…いつ子」
「なに?」
孝平さんはゆっくり瞬きをする。灰色の目が隠れ、現れ、隠れる。
「今日は、晴れてる?」
まぶたを伏せ、深く酸素を吸い込んで、また、孝平さんは小さく私の名前を呼んだ。
「…晴れてるよ」
ざあざあと砂嵐が音を強める。ざあざあ。
あ、そう。孝平さんは吐き出す二酸化炭素に乗せてそう言った。
私は、嘘をつく。彼を、守らなくてはならないから、嘘をつく。
ある日、彼は失明した。両目ともほぼ全ての視力を失った。
雨の日だった。
その日から、彼をこの薄暗い部屋に閉じ込めている。彼が傷付かないように、ひどいひどい外の世界とは関わらないように、二人きりで生きている。
今年の梅雨は例年より長いそうだ。
孝平さんが雨の音を聞くことがないように、あの日のことを思い出すことがないように、一日中テレビを付けている。電波の入らないガラクタは砂嵐しか映さないために買い替えようとしたが、孝平さんがそのままで良いと言った。安心するのだという。
身体を傾けて孝平さんの肩に頭を乗せた。孝平さんは身動きもせずに受けとめてくれた。
ざあざあ、ざあざあ。
私は彼から聴覚を奪った。
彼を全ての物から守ろうと思う。ひどい雨から。ひどい世界から。
「洗濯物の匂いがする」
今日も雨が降っている。