耳鳴りの正体
最初にあの音に気づいたのは、由紀の四十九日が終わって三日目の夜だった。
いや、正確に言えば「気づいた」のではない。無視できなくなった、というほうが近い。布団の中で目を閉じると、右耳の奥で
「キィィン」という高い音が鳴っている。それ自体は珍しいことではなかった。疲れた日にはよくあることだと、これまでは気にも留めなかった。
だがその夜の音は、どこか違っていた。
鳴ったかと思うと、ふっと途切れる。また鳴る。また途切れる。
──ツー、ツー、ツー、トン、トン。
まるで誰かが、耳の奥で指を鳴らしているような、意志を感じる間の取り方だった。
由紀は隣町に住む従妹だった。三つ年下で、子供の頃はよく二人でかくれんぼをした。彼女は隠れるのがうまく、探しあぐねて泣きそうになると、決まって壁の向こうから小さく指を鳴らして居場所を教えてくれた。コン、コン、コン、と。あの音を聞くと、いつも安心した。
由紀が消えたのは三年前だった。ある日突然、隣町のアパートから姿を消し、警察の捜索も虚しく、手がかりひとつ見つからないまま時間だけが過ぎていった。家族はいつしか「もう帰ってこない」ことを前提に話すようになり、先月、区切りをつけるためだけの葬儀が営まれた。骨のない棺だった。
その三日後から、耳鳴りが始まった。
一週間経っても、二週間経っても、音は消えなかった。耳鼻咽喉科を三軒回ったが、どこでも同じだった。鼓膜に異常なし。聴力に問題なし。ストレスでしょう、と医師は判で押したように言い、薬を出した。薬は何も変えなかった。
変わらなかったのは、音のリズムだけが、日を追うごとに規則正しくなっていったことだ。
ある晩、天井を睨みながら、ふと思いついた。この音を、書き取ってみよう。
紙とペンを手に、長い音と短い音を「─」と「・」で写し取っていく。子供の頃、由紀が壁越しに送っていた指の音と、どこか似ている気がした。三十分ほど続けた頃、ノートには意味の分からない記号の羅列ができていた。
それを見せたのは、大学時代にアマチュア無線に凝っていた友人の坂本だった。ノートを一目見た瞬間、彼の表情から笑みが消えた。
「これ……モールス信号だ」
スマートフォンで対応表を確認しながら、坂本は一文字ずつ、震える声で読み上げていった。
「タ……ス……ケ……テ……」
沈黙が落ちた。彼はもう一度、ノート全体を読み直してから、こちらを見た。
「クラ、ノ、ナカ、キイテ、ダレカ……全部読むと『助けて。蔵の中。聞いて。誰か』だ」
実家の裏庭には、祖父の代から誰も足を踏み入れていない古い蔵がある。子供の頃、母に何度も言われた。「あそこには絶対に近づいちゃだめ」と。理由は聞かされたことがなかった。聞いてはいけない気がして、聞かなかった。
由紀と最後に会ったのは、その蔵の前だった。三年前の夏、彼女は珍しく実家に遊びに来ていて、二人で裏庭を歩いた。蔵の扉の前で由紀が足を止め、「ここ、何かいるよね」と笑いながら言ったのを覚えている。冗談だと思って、笑い返した。それが最後の記憶だった。
まさか、とは思う。思いたくなかった。
それでも、確かめずにはいられなかった。
週末、実家に戻った。両親が出かけている隙に、納屋の道具箱から蔵の鍵を持ち出した。錆びついた南京錠は、長年開けられていない証のように固く、何度か力を込めてようやく外れた。
扉を引くと、埃と黴の匂いが顔にまとわりついた。差し込む夕方の光の中に、埃の粒がゆっくりと舞っているのが見えた。古い簞笥、農具、白く覆いのかかった家具。奥の壁際に、木製の古い戸棚がひとつ、他の家具から離れてぽつんと置かれていた。
その戸棚に近づくにつれ、耳の奥の音が、少しずつ小さくなっていくのが分かった。
戸棚の前に立った瞬間――ぴたりと、止んだ。
二ヶ月近く、片時も途切れることのなかったあの音が、今、完全に消えていた。静けさが、かえって耳の奥に重く残った。
代わりに、別の音が聞こえてきた。戸棚の向こう、壁の奥から響く、かすかな音。
カリ、カリ、カリ。
爪で何かを引っかくような、規則正しい音だった。
震える手で戸棚をどかすと、その裏の壁の一部だけ、明らかに色が違うことに気づいた。他より新しく、塗り直された継ぎ目が浮き出て見える。壁土の乾き方が、他の箇所と明らかに違っていた。
スマートフォンのライトを近づけたとき、壁の下のほうに、拳がようやく入るくらいの小さな隙間があることに気づいた。誰かが塞ぎ損ねたように。あるいは――内側から誰かが、そこだけは塞がせなかったように。
その隙間に、光を差し込もうとした。
ライトが届くよりも先に、隙間の奥で何かが動いた。
瞬間、耳の奥で音が再び鳴り始めた。今度は、これまでとは違う速さだった。
──ツー・ツー・ツー、ツー・ツー・ツー、ツー・ツー・ツー。
SOS。
その符号に重なるように、隙間の奥から、かすれた声が漏れてきた。子供の頃、壁越しに指を鳴らしていた、あの声に似ていた。
「……やっと」
全身が凍りついた。動けなかった。
「やっと、聞こえたんだね」
それは、三年前に消えたはずの、由紀の声だった。
その夜、何があったのかを、彼は誰にも話していない。
ただ、蔵から実家に駆け戻ったあの日を境に、彼の耳鳴りはぴたりと止んだという。
そして今も、毎晩ではない。忘れた頃、ふと訪れる。
右耳の奥で、ごく小さく、指を鳴らすような音が二つだけ響く。
コン、コン。
子供の頃、かくれんぼで居場所を教えてくれた、あの合図と同じ回数だけ。




