第2話「雨の国境、差し伸べられた冷たい手」
深い森の奥へと続く未舗装の道路は、激しい雨によって完全に泥の海と化していた。
空を覆う厚い雲からは、容赦のない雨粒が滝のように降り注いでいる。
アールスト公爵家からあてがわれた粗末な馬車は、国境の境界線を示す錆びついた柵の手前で、乱暴に停止した。
御者は座席から振り返ることもなく、ただ冷淡な声を後ろへと投げた。
「ここから先は隣国の領土だ。早く降りろ。大罪人をこれ以上乗せているわけにはいかない」
扉が開けられ、エレニアは泥水が跳ね返る地面へと押し出された。
彼女が地面に足をつけた瞬間、馬車は急反転し、また来た道を猛スピードで駆け去っていった。
残されたのは、夜会のドレスを着たままの、身一つとなったエレニアだけだった。
高級な絹の生地は、またたく間に雨水を吸って重くなり、彼女の身体にまとわりついた。
冷気が皮膚を通して、骨の髄まで染み込んでくる。
体温が急速に奪われ、歯の根が合わずにカタカタと震え始めた。
『もう、どこへ行けばいいのだろう』
視界は雨の幕に遮られ、数メートル先も見通せない。
エレニアは泥に足を取られながらも、一歩ずつ前に向かって歩き出した。
手袋はすでに汚れ、破れた隙間から覗く指先はかじかみ、赤紫色に変色している。
大地の息吹を感じるはずの彼女の特別な才能は、精神の消耗のせいで、今はただ沈黙を守っていた。
自分の内側にある何かが、完全に枯渇してしまったかのような絶望だった。
誰の役にも立てず、誰からも望まれず、ただ捨てられた。
その事実が、彼女の歩みをじわじわと止めていく。
ぬかるみに足を取られ、エレニアはその場に激しく膝をついた。
冷たい泥が顔や髪に飛び散り、視界がさらに暗くなる。
立ち上がるための気力は、もう残っていなかった。
瞼が重くなり、意識の輪郭が雨の音の中に溶けていくのを感じた。
◆ ◆ ◆
地面を叩く激しい雨音の向こうから、重厚な響きが近づいてきた。
複数の馬の力強い足音が、泥を激しく跳ね上げる振動となって地面を伝わってくる。
現れたのは、一切の装飾を排した漆黒の馬車だった。
その車体には、隣国であるオルティス帝国の厳格な紋章が刻まれている。
馬車は、行き倒れたエレニアのすぐ傍らで静かに停止した。
御者台から飛び降りた兵士たちが、周囲を警戒するように剣の柄に手をかける。
しかし、馬車の重厚な扉が内側から開かれると、彼らは一斉に姿勢を正した。
「待ちなさい」
低く、しかし驚くほどに澄んだ声が、雨のカーテンを切り裂いた。
馬車から降り立ったのは、黒い外套をまとった一人の青年だった。
オルティス帝国の王太子、アルフレート・ヴァン・オルティス。
彼の髪は夜の闇よりも深く、その瞳は凍てつく氷河のように冷徹な輝きを放っていた。
周囲からは冷徹王太子と恐れられる彼だが、その立ち姿には確固たる品格が宿っている。
「殿下、危険です。ただの浮浪者か、あるいは伏兵の可能性もございます」
護衛の騎士が前に出ようとするのを、アルフレートは静かな手つきで制した。
彼の視線は、泥の中に横たわるエレニアの姿に釘付けになっていた。
アルフレートは、自身の衣服が雨に濡れるのも構わず、エレニアの元へと歩み寄る。
彼は泥の中にひざまずき、彼女の青白い顔を覗き込んだ。
その瞬間、アルフレートの眉が僅かに動いた。
長年、彼の身体を苛み続けてきた、魔力過多によるあの焼き付くような激痛が、彼女に近づいただけで嘘のように和らいでいく。
彼の瞳に、初めて微かな驚きと、それ以上の深い光が灯った。
「これほどの清らかな力を持ちながら、なぜこのような場所に捨てられている」
アルフレートはため息を一つ吐くと、躊躇うことなくエレニアの身体を抱き上げた。
彼の腕は驚くほどに力強く、そして温かかった。
エレニアの冷え切った身体が、彼の胸の熱を吸い上げていく。
彼女は微かに目を開け、自分を見つめる美しい夜の色の瞳を捉えた。
「……だれ、ですか」
「もう安心しなさい。お前を傷つけるものは、ここにはいない」
アルフレートの声は、冷徹な容姿とは裏腹に、驚くほど穏やかだった。
彼はエレニアを大切に抱えたまま、馬車の中へと運び込んだ。
暖かい毛布が彼女の身体を包み込み、馬車はゆっくりと、しかし確実な足取りで帝国の王宮へと向けて走り出した。




