第8話
夜会が終わったのは夜半を過ぎた頃で、広間から人が引いていくと城内はしんと静まった。
カイルはリーナを廊下まで送り、そこで「少し付き合え」と言った。命令口調だったが、リーナはもう慣れていた。
連れて行かれたのは、東翼の端にある庭園だった。城の外壁に沿って花壇が連なり、中央に石造りの東屋がある。夜風が花の香りを運んでいた。月が明るかった。
東屋の中に入ると、カイルは立ったまま黙っていた。リーナも黙って待った。こういうとき、急かさない方がいいと学んでいた。
しばらくして、カイルが口を開いた。
「今夜のことを、謝るべきかもしれない」
「何をですか」
「お前の腰を、断りなく」
リーナは少し考えた。
「私は嫌ではありませんでした」
カイルは何も言わなかった。石畳を見ていた。月の光が横顔を照らしていて、リーナはその顔を横から見ながら、胸の中がじわりと温かくなるのを感じた。
「リーナ」
「はい」
カイルがリーナの方を向いた。真正面だった。灰色の瞳が月の光を受けて、いつもより少し淡く見えた。
「俺の傍にいろ」
「……今も傍にいますが」
「そういう意味ではない」
わかっている、とリーナは思った。わかっていて、少し逃げた。カイルはそれも見透かしているようで、視線を逸らさなかった。
「王妃として、傍にいろ」
言葉が、夜の庭に落ちた。
リーナは息を吸った。
「私は……平民の血が混じっています。国内の反発が起きるかもしれない。陛下の治世に、傷がつくことも」
「それがどうした」
カイルは遮った。静かだったが、迷いがなかった。
「俺がお前を要ると言っている。お前の血ではなく、お前が要る」
リーナは、その言葉を胸の奥で受け止めた。
お前の血ではなく、お前が要る。
あの夜会でアルベルトに言われた言葉の、正反対だった。平民の血が混じっているから要らないと言われた夜から、カイルはずっと逆のことを言い続けていた。腕を見ろと言い、なぜそう考えるのかと聞き、できると言い、名前で呼んだ。
リーナの目に、気づいたら涙が浮かんでいた。
泣くつもりはなかった。ただ、体が先に動いた。
カイルが一歩踏み出し、リーナの目から伝い落ちた涙を、指先でそっと拭った。その手が、頬に触れたまま止まった。
「答えを聞いていない」
「……意地悪ですね」
「そうか」
カイルはわずかに目を細めた。それがこの人なりの笑顔なのだと、リーナは今頃になってわかった。
リーナは深く息を吸い、それから静かに、確かに頷いた。
「傍にいます。ずっと」
カイルの手が、リーナの頬からゆっくりと離れた。しかしその目は、離れなかった。どこにも行かせないと言っているような目だった。
ふたりは月明かりの下、しばらくそのままでいた。
翌朝、ゼフがリーナの部屋を訪ねてきた。扉を開けると、珍しくゼフが困惑した顔をしていた。
「陛下から伝言だ」
「何でしょう」
「今日は薬師房に来ない、と」
リーナは首を傾げた。
「それだけですか」
「それだけだ。……ついでに俺からも言うと、陛下は今朝から顔が赤い。熱ではないと思う」
リーナはしばらく考えて、それから口元を手で覆った。
「……そうですか」
「笑うな」
「笑っていません」
ゼフは深くため息をついて立ち去った。リーナは扉を閉め、部屋の中でひとりそっと笑った。
カイルらしい、と思った。
求婚した翌日に恥ずかしくなって来られなくなる王など、きっとこの国広しといえど一人しかいない。それがひどく愛しかった。




