第7話
建国祭の準備が始まると、城内の空気が変わった。
廊下に花飾りが並び、厨房から甘い香りが漂い、侍女たちの足音が軽くなった。百年以上続くヴァルテア王国最大の祭典で、夜会には国内外の貴族が集まるとサーナが教えてくれた。
リーナにとっては、関係のない話だった。
薬師房の仕事は祭典中も変わらない。むしろ来城者が増えるぶん、体調を崩す者も出るかもしれない。備蓄を確認し、頓服薬を多めに作っておこうと考えていた。
だから、ゼフが薬師房に現れて「夜会に出ていただく」と言ったとき、リーナは手の動きを止めた。
「私がですか」
「陛下のご指名です」
「薬師が夜会に出る必要が」
「陛下のパートナーとして、です」
リーナはしばらく黙った。
「……それは、どういう意図で」
「俺に聞かれても」
ゼフは珍しく視線を逸らした。知っているが言えない、という顔だった。
三日後の夜、サーナが用意したドレスを纏い、リーナは鏡の前に立った。深い青緑の、肩を覆う布が波のように重なる形のドレスだった。故郷でも夜会には出たが、いつも婚約者の隣で微笑むための衣装だと思っていた。今夜は違う気がした。何が違うのかは、うまく言えなかった。
広間の入り口でカイルと合流した。黒の礼装に金の刺繍が入った正装で、普段より少し遠い人に見えた。
カイルはリーナを見て、一瞬だけ動きを止めた。
「似合っている」
それだけ言った。リーナは「ありがとうございます」と返し、差し出された腕に手を添えた。カイルの腕が、わずかに硬くなった気がした。
広間に入ると、視線が集まった。カイルが夜会にパートナーを連れてきたこと自体が、異例らしかった。貴族たちの囁きが遠くで聞こえたが、リーナは気にしなかった。カイルも気にしていなかった。
ふたりで窓際に立ち、給仕から受け取った杯を持ちながら、他愛のない話をした。庭の花の名前、薬草園の新しい苗の様子、建国祭の料理にリーナが苦手なものがあること。カイルが「何が苦手だ」と聞き、リーナが「レバーのパイ包みです」と答えると、カイルは小さく、ほんとうに小さく笑った。
リーナは、その笑顔をもう少し見ていたいと思った。
広間が和やかな空気に包まれていた頃、扉の方で小さな動揺が走った。
外交使節の入場だった。数か国の代表が順に紹介される中、見知った顔がリーナの視界に飛び込んだ。
アルベルトだった。
隣国の第一王子として紹介され、貴族たちに会釈しながら歩いてくる。リーナは杯を持つ手に、少しだけ力を込めた。
アルベルトがリーナに気づいたのは、広間の半ばを過ぎた頃だった。
目が合った。アルベルトの顔から、表情が消えた。
リーナは視線を逸らさなかった。逸らす理由がなかった。ここは彼の国ではなく、リーナはもう彼の婚約者でもない。
アルベルトが足を速めて近づいてくるのが見えた。その目に、動揺と焦りと、隠しきれない何かが混じっていた。
あと数歩というところで、リーナの腰に手が添えられた。
カイルだった。引き寄せられ、気づけばカイルのすぐ隣に立っていた。カイルはアルベルトを見て、静かに、しかし広間に響く声で言った。
「ヴィラン王国の第一王子殿下。私の薬師に、何か用か」
私の、という言葉が、広間の空気を変えた。
アルベルトは笑顔を取り繕い、「いや、旧知の者を見かけたもので」と返したが、声が上滑りしていた。カイルは微笑まず、ただ静かに視線を注いだ。それだけで、アルベルトは一歩引いた。
リーナは腰に添えられた手の温かさを感じながら、前だけを向いていた。




