第2話
目覚めたとき、最初に感じたのは布団の柔らかさだった。
リーナはゆっくりと目を開けた。天井が高い。石造りの壁に、薄布のカーテン。窓の外から差し込む光は柔らかく、朝のものだった。見覚えのない部屋だった。
体を起こすと、扉が静かに開いた。
「目が覚めたか」
昨夜の男だった。外套は脱いでおり、顔を覆う布もない。年はリーナと同じくらいか、少し上か。整った顔立ちだが、目が笑っていない。軍人か、あるいは諜報の類の者だと、リーナは直感した。
「ここは」
「ヴァルテア王国、王都クロイツの離宮だ」
リーナは数秒、その言葉を頭の中で繰り返した。
ヴァルテア。隣国だ。国境をいくつ越えたのか。自分は今、不法に他国に入り込んでいることになる。
「私を……さらったのですか」
「助けた。その後、気を失ったお前を連れてきた。文句があるか」
文句、と言われても。リーナは息を吐いた。
「あなたは何者ですか」
「ゼフ。国王陛下直属の密偵団を束ねている」
あっさりと答えが返ってきた。隠す気がないらしい。リーナは少し面食らったが、気を取り直して続けた。
「なぜ私を助けたのですか。昨夜のあの場所に、偶然いたわけではないでしょう」
ゼフは椅子を引いて腰かけ、リーナをまっすぐに見た。
「お前のことは以前から調べていた。リーナ・ハーヴェル。王都一の薬師と呼ばれ、毒の分析と調合において同国に並ぶ者なし。昨夜婚約を破棄されたことも、刺客が放たれたことも、把握していた」
「……盗聴でもしていたのですか」
「諜報だ。意味は同じだが」
悪びれる様子が一切なかった。リーナは少し、呆れた。
「それで。助けた理由は」
「取引をしたい。我が国の王城専属薬師が先月急逝した。後任が見つかるまでの間、お前に働いてもらいたい」
「断ったら」
「王都まで送り届ける。刺客がまだ待っているかもしれないが」
脅しだ、とリーナは思った。しかし同時に、あの城に戻ることへの拒否感が胸の奥から湧き上がった。戻ってどうする。婚約は破棄された。父の家に帰っても、肩身は狭いだろう。男爵家はまだ諦めていないかもしれない。
「条件は」
ゼフはわずかに目を細めた。
「相応の報酬、安全な住居、必要な薬草と道具は全て支給する。身分は当面、客人扱いだ。あちらの国籍はこちらで処理する」
「期間は」
「後任が見つかるまで。長くて一年、短ければ半年というところか」
リーナは窓の外を見た。見知らぬ街の屋根が、朝の光の中に並んでいる。故郷ではない。しかしだからこそ、ここでは昨日までのリーナではいられる。
「わかりました。ただし、条件をひとつ加えさせてください」
「言ってみろ」
「薬師房の使い方は私に一任してください。患者の治療方針に、口を挟まないこと」
ゼフはしばらくリーナを見つめ、それからわずかに口の端を上げた。
「気に入った。いいだろう」
案内された薬師房は、リーナのこれまでの仕事場とは比べ物にならなかった。石造りの広い部屋に、天井まで届く棚。乾燥薬草の引き出しが整然と並び、蒸留器と調合台が中央に据えられている。道具は一流品が揃っていた。
リーナは部屋の中をゆっくりと歩きながら、棚を一つ一つ確認した。在庫の管理は丁寧だが、分類の仕方がやや古い。先代の薬師の流儀だろう。
窓から見える中庭には、薬草園があった。手入れが行き届いている。
リーナは薬草園を眺めながら、ゆっくりと息を吐いた。肺の底から、何かが抜けていくようだった。
ここなら、本当の仕事ができる。
故郷でも王城でもなく、名前すら知らなかった隣国の、知らない城の一室で、リーナは初めてそう思った。
夜、ひとりで調合台の前に座り、道具を並べながら、リーナはようやく涙をひと粒だけ流した。それきり、泣くのをやめた。




