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私にはもう、関係ないので  作者: 小林翼


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第10話

王妃になっても、リーナは薬師房に通い続けた。


午前中は謁見や書類への同席、午後は薬師房。そういう暮らしが自然に出来上がった。カイルは最初、王妃がみずから調合台に立つことを快く思わない臣下がいると教えてくれた。リーナは「では結果を見ていただきましょう」と答え、城下の診療所への薬の無償提供を始めた。


三ヶ月もしないうちに、文句を言う者はいなくなった。


城下の評判は、城内よりも早く広まった。王妃が調合した薬が効く、王妃が城下の子どもの薬代を免じた、王妃が流行り病の特効薬を作った。噂は尾ひれをつけながら広がり、やがてリーナが城下に出ると、人々が道の端に並んで頭を下げるようになった。


リーナはそのたびに少し困った顔をした。カイルはそれを見て、珍しく声に出して笑った。



秋の視察で、カイルとふたり並んで城下を歩いたときのことだった。


市場の通りを抜け、薬草店の並ぶ路地に差し掛かると、一人の老婆がリーナに近づいてきた。警護の騎士が動きかけたが、リーナは手で制した。


「王妃様、うちの孫の薬を作っていただいたものです。あの子、もうすっかり元気で」


老婆は皺だらけの手でリーナの手を包み、深く頭を下げた。リーナはその手を両手で握り返した。


「よかった。寒くなってきましたから、無理をさせないようにしてあげてください」


老婆は涙をこぼしながら去っていった。


カイルは少し離れたところに立って、それを見ていた。リーナが戻ると、前を向いたまま歩き始めながら、低い声で言った。


「お前が来る前、この城に笑い声はなかった」


リーナは少し驚いて、カイルの横顔を見た。


「俺も、城下もだ。活気はあった。しかし笑い声ではなかった」


「それは、私のせいではなく」


「お前のせいだ。お前が来てから変わった」


断定する口調だった。リーナは反論しかけて、やめた。カイルがそう言うなら、そういうことにしておこうと思った。


「では私が毎日笑わせます」


「できるのか」


「やってみなければわかりません」


カイルはリーナを見た。その目に、見覚えのある光があった。初めて薬師房を訪れた夜、処方の理屈を問いかけてきたときの、純粋な興味の光だ。


「……言ったな」


「言いました」


カイルはこらえるように口を引き結んだが、堪えきれず、小さく噴き出した。リーナもつられて笑った。


城下の通りに、ふたりの笑い声が混ざって響いた。



その夜、執務を終えたカイルが薬師房に顔を見せた。王妃になってもリーナが夜遅くまで薬の研究をしていることを、カイルは知っていた。やめろとは一度も言わなかった。


「また明かりがついていた」


「もう少しで配合が決まりそうなんです。冬に増える関節の痛みに効くものを」


カイルは椅子を引いて腰かけた。以前と変わらない所作で、変わらない場所に座る。ただ、扉を叩かなくなった。それだけが変わっていた。


しばらく、リーナが作業する音だけが部屋に満ちた。


「ゼフから聞いたか」


カイルが言った。


「何をですか」


「ヴィランの話だ」


リーナは手を止めた。振り返ると、カイルは書類を見ながら続けた。


「アルベルト王太子が廃嫡された。男爵家との癒着と、暗殺への関与が表に出た。王位継承からも外れるらしい」


リーナは少しの間、その言葉を頭の中に置いた。


憐れだとは思わなかった。かといって、せいせいしたとも思わなかった。ただ、遠い話だと感じた。本当に、遠かった。


「そうですか」


「それだけか」


「それだけです」


カイルはリーナを見た。リーナはもう調合台に向き直っていた。


「もう、終わった話ですから」


カイルはしばらく黙っていた。それから、静かに「そうだな」と言った。



薬が完成したのは、夜半近くだった。


試しに少量を調合し、成分を確認して、リーナは小さく息をついた。これでいい。あとは実際に試してみるだけだ。


「できたか」


「できました」


「今夜は遅い。片付けは明日にしろ」


「もう少しだけ」


「リーナ」


「……はい」


カイルが立ち上がり、調合台の上の道具を黙々と端に寄せ始めた。リーナは苦笑しながら、隣で片付けを手伝った。


肩が触れるほどの距離で、ふたりで狭い台の上を整理した。他愛のない作業だったが、リーナはそういう時間が好きだった。特別なことは何もない、ただ隣にいる、その時間が。


道具が片付いて、部屋の明かりを落とす前に、リーナは薬草園の窓を少し開けた。夜の冷たい空気が入ってきた。秋の終わりの、土と草の匂いがした。


カイルが隣に立ち、同じように外を見た。


「寒いぞ」


「少しだけ。この匂いが好きなんです」


「薬草の」


「ここの、この庭の匂いです」


カイルは何も言わなかった。ただ、窓を閉めずにいた。


ふたりで並んで、暗い薬草園を眺めた。風が葉を揺らす音がした。遠くで夜鳥が鳴いた。


リーナはそのとき、ふと思った。あの夜、路地で膝をついて泣けなかったのは、まだ終わっていなかったからだ。終わりではなく、始まりだったから、体が知っていたのかもしれない。


「カイル」


「何だ」


「ここに来てよかったです」


カイルはしばらく黙っていた。


それから、リーナの手を、静かに握った。


「俺もだ」


窓の外で、風がもう一度、薬草園を揺らした。

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