第1話
王都の夜会は、いつにも増して華やかだった。シャンデリアの光が貴族たちの宝飾品を乱反射し、笑い声と弦楽の音が広間を満たしている。
リーナ・ハーヴェルは、その輪の外側に静かに立っていた。薄いグリーンのドレスは仕立てこそ悪くないが、周囲の令嬢たちの絢爛さには及ぶべくもない。それでも彼女は気にしなかった。今夜が最後になるかもしれないと、どこかで覚悟していたから。
婚約者であるアルベルト王太子とは、この三ヶ月ほとんど言葉を交わしていなかった。夜会に誘われるたびに訪れはするものの、アルベルトは男爵令嬢のエミリアとばかり話し、リーナに目を向けることはなかった。噂は城内にすでに広まっていた。王太子の心が移ったのだと。
だから、アルベルトが広間の中央に進み出たときも、リーナは穏やかな表情のままでいた。
「皆に聞いてもらいたいことがある」
アルベルトの声が広間に響き、笑い声が止まった。美しい顔に張り付いた微笑みは、しかしリーナには空虚に見えた。
「ハーヴェル伯爵令嬢との婚約を、本日をもって解消する」
どよめきが走った。リーナは瞬きをひとつした。
「理由を聞かせていただけますか、殿下」
自分の声が思ったより落ち着いていることに、リーナ自身が驚いた。アルベルトはわずかに眉をひそめ、それでも優雅に微笑んで答えた。
「王妃には純粋な貴族の血が必要だ。ハーヴェル家は三代前に平民と婚姻している。それを今さら問題にしたくはなかったが、国の将来を思えば致し方ない」
貴族たちは押し黙っていた。リーナは深く息を吸った。
平民の血。それがこの国ではどれほど重い言葉か、リーナは幼い頃から知っていた。それでも父は彼女を薬師として育て、リーナは王家の依頼を受け、毒に倒れた侍女を救い、流行り病の特効薬を作り、この三年間王都の医療を支えてきた。その全てが、今夜この言葉ひとつで塗り替えられた。
「承知いたしました」
リーナはカーテシーをし、踵を返した。泣くことは、しなかった。
夜風が頬を冷やした。城の裏門から出たリーナは、薄い上着も持たずに王都の石畳を歩いた。頭の中が静かだった。静かすぎて、何も考えられなかった。
路地に差し掛かったとき、足音が聞こえた。
振り返る間もなかった。男が二人、闇の中から現れた。顔に見覚えはなかったが、手に持った短剣には見覚えがあった。男爵家の紋章が柄に刻まれていた。
エミリアの父が手を回したのだと、リーナは理解した。婚約破棄だけでは足りないのだ。自分が生きていること自体が、邪魔なのだ。
叫ぼうとした瞬間、黒い影が横から割り込んだ。
短い格闘音がして、男たちが地に伏した。リーナはよろめき、石壁に手をついた。目の前に立っていたのは、黒い外套を纏った長身の男だった。顔の半分を布で覆っており、見えているのは鋭い目だけだった。
「無事か」
低い声だった。リーナは頷こうとして、そのまま膝から崩れ落ちた。張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた音がした。
「立てるか」
「……少し、待ってください」
石畳に手をついたまま、リーナは俯いた。涙は出なかった。ただ息が、うまくできなかった。
男は何も言わずに隣にしゃがみ込み、リーナが落ち着くのをただ待った。その沈黙が、不思議と怖くなかった。
どれほどそうしていたか、リーナが顔を上げると、男はまだそこにいた。
「行けるか」
「……どこへ」
「安全なところだ」
それだけ言って、男は立ち上がった。リーナには断る理由がなかった。戻る場所も、もうなかった。
男の後をついて歩きながら、リーナは一度だけ振り返り、煌々と灯りの輝く王城を見た。
それきり、前だけを向いた。
やがて意識が遠くなり、リーナは知らない馬車の中で眠りに落ちた。




