第九話 『無名ノ星』
白い天井だった。
最初に見えたのは、それだけだった。
聞こえたのは、複数の人からの急いだ声。
よく見ると、天井が早いスピードで流れていることが分かった。
少し遅れて、匂いに気付く。
消毒液の、乾いた匂い。
ここがどこか、考えるまでもなかった。
身体が重い。
動かそうとしても、思うように動かない。
息を吸う。
少しだけ、浅い。
生きている、と理解するまでに、少し時間がかかった。
機械の音。
誰かの気配。
どれも、現実感が薄かった。
しばらく、そのままでいた。
何も考えない時間が続く。
何かを考えようとして、
やめた。
必要がないと思った。
少しだけ首を動かす。
視界の端に、扉が見えた。
その横に、小さなプレートがある。
いくつかの名前が並んでいた。
視線が、ゆっくりと流れる。
「佐藤」
「高橋」
「中村」
知らない名前ばかりだった。
その中に、
一つだけ、
少しだけ目に残るものがあった。
「……蓮見」
理由は分からない。
ただ、少しだけ引っかかった。
それだけだった。
すぐに、どうでもよくなった。
視線を外す。
天井に戻る。
白かった。
それ以上は、何もなかった。
時間が過ぎる。
どれくらいかは分からない。
同じ景色を、何度も見た気がする。
同じ音を、何度も聞いた気がする。
季節が変わる。
窓の外の色が、少しだけ違っていた。
それだけで、時間の経過を理解する。
身体は、少しずつ動くようになった。
歩けるようになるまでに、
それなりの時間がかかった。
退院の日、
外の空気は少し冷たかった。
深く吸い込む。
どこか、懐かしい気がした。
でも、その理由は分からなかった。
家に戻る。
部屋は、前と変わっていなかった。
机。
本棚。
カーテン。
全部、そのままだった。
でも、
どこか、違って見えた。
理由は分からなかった。
生活が始まる。
学校に戻ることはなかった。
代わりに、
別の場所に通うようになった。
新しい人間関係。
新しい会話。
どれも、
問題はなかった。
特に困ることはなかった。
ただ、
ときどき、
なにかを忘れている気がした。
思い出そうとして、
やめた。
必要がないと思った。
それでよかった。
時間が過ぎる。
また季節が変わる。
何度か繰り返して、
気付けば、
数年が経っていた。
夜だった。
雨が降っている。
強くもなく、弱くもない、
中途半端な雨。
街灯の光が、
濡れた地面に反射している。
歩いている。
理由は特になかった。
ただ、
少しだけ、
外に出たくなっただけだった。
見慣れた道だった。
昔、何度も歩いた気がする。
でも、
その記憶は、曖昧だった。
思い出そうとして、
やめる。
必要がないと思った。
そのまま歩く。
前から、誰かが来る。
傘の影で、顔はよく見えない。
数人いる。
笑い声が聞こえる。
楽しそうだった。
距離が狭まり、聞こえる声が大きくなる。
「最近さ、紬と話してると昔の紬のこと思い出してさ、ほんとに同じ紬なのかなーってなっちゃうんだよねー」
その声に、周りの笑い声が大きなる。
「昔なんか放課後毎日行ってなかった?」
「昔の私は…ちょっと異常だったから」
「異常ってなによー」
笑いが絶えないグループの横を通り過ぎる。
その中の一人だけ、気になった。
少しだけ、
考えた。
少しだけ、
見覚えがある気がした。
でも、
はっきりとは分からない。
向こうは、
こちらを見なかった。
そのまま、
通り過ぎていく。
笑い声が、遠ざかる。
足を止める。
振り返ろうとして、
やめる。
理由は分からない。
ただ、
その必要はないと思った。
そのまま、
前を向く。
雨は、まだ降っている。
空を見る。
星は見えなかった。
当たり前だと思った。
それでも、
どこかで、
あの空を、
見たことがある気がした。
何かを、
思い出しかけていた。
でも、
それが何かは、
分からなかった。
思い出そうとして、
やめる。
必要がないと思った。
そのまま歩く。
雨の中を、
ゆっくりと進む。
さっきすれ違った人たちの声は、
もう聞こえなかった。
それでよかった。
それが普通だと思った。
名前も、
記憶も、
全部、
曖昧なままでよかった。
それでも、
何も困らなかった。
だから、
それでいいと思った。
足を止めることはなかった。
振り返ることもなかった。
ただ、
雨の夜を歩いていく。
何かを忘れたまま。
何も思い出さないまま。
それでも、
少しだけ、
光が見えた気がした。
理由は分からなかった。
分からなくても、
問題はなかった。
そのまま、
歩き続ける。
雨は、止まなかった。
夜も、終わらなかった。
星は、見えなかった。
それでも、
どこかにある気がした。
見えないままでも、
それでいいと思った。
思い出せないままで、
よかった気がした。




