第七話 『空洞ノ星』
教室の空気は、少しだけ暖かかった。
窓から差し込む光が、机の上に落ちている。
誰かが笑っている。
誰かが名前を呼ぶ。
その声が、いくつも重なっている。
それらは全部、近くにあるはずなのに、
どこか遠く感じた。
「紬ー、一緒に帰ろー」
後ろから声がする。
振り返ると、クラスメイトが手を振っていた。
「……いいよ」
少しだけ間を置いて、そう返す。
鞄を持って立ち上がる。
椅子の脚が床を擦る音がして、少しだけ周りが振り向いた。
すぐに、興味を失ったみたいに視線が外れる。
廊下に出る。
「今日さ、寄ってかない?」
「どこ」
「コンビニ。なんか甘いの食べたい」
「……いいよ」
特に考えずに答える。
歩きながら、他愛のない話が続く。
誰がどうしたとか、どこが面白いとか。
話の中身は、あまり頭に入ってこなかった。
それでも、相槌だけは返す。
それで会話は成立していた。
コンビニに入る。
明るい光と、冷たい空気。
棚に並んだ商品を眺める。
特に欲しいものはなかった。
「紬ってさ」
隣から声がする。
「何」
「お金持ってる?」
一瞬だけ、思考が止まる。
「あるけど」
「ちょっと貸してくれない?」
軽い調子だった。
頼み事というより、
ついでみたいな言い方だった。
少しだけ、考える。
断る理由は、思いつかなかった。
「……いいよ」
財布を開く。
中から千円札を一枚取り出す。
「ありがとー」
そう言って、すぐに受け取る。
「財布忘れちゃってさー、あとで返すね。」
そのあと、
何もなかったみたいに、
また会話が続いた。
笑い声があって、
レジに並んで、
外に出る。
それで終わりだった。
そう思っていた。
数日後。
「紬、ちょっといい?」
同じ声がする。
「何」
「この前のさ、まだ返せてないんだけどさ」
少しだけ間が空く。
思い出す。
返ってきていない。
「……うん」
「ごめん、もうちょっと貸してほしくて」
軽い調子だった。
前と同じだった。
少しだけ、考える。
断る理由は、やっぱり思いつかなかった。
「……いいよ」
財布を開く。
同じように、取り出す。
「ほんと助かる」
笑いながら受け取る。
それで終わる。
また、何事もなかったみたいに、
時間が過ぎる。
それからも、
似たようなことが続いた。
頼まれて、
貸して、
返ってこない。
その繰り返し。
違和感はあった。
でも、
強いものではなかった。
少しだけ、
引っかかるくらい。
それだけだった。
ある日、
教室に忘れ物をして、戻る。
放課後で、
中には誰もいないと思っていた。
でも、
声が聞こえた。
扉の前で、足が止まる。
「てかさ、あいつマジでちょろくない?」
一瞬、何の話か分からなかった。
「あいつ?あー紬のこと?」
知っている声だった。
少しだけ、考える。
「そうそう、雨宮紬ねー」
「確かに、紬って言えば貸すよね」
笑い声が混ざる。
「わかる、マジで助かるんだけど」
それだけだった。
それ以上は聞かなかった。
扉を開けることもなく、
そのまま立っていた。
頭の中で、
さっきの言葉を繰り返す。
ちょろい。
言えば貸す。
助かる。
全部、
事実だった。
間違っていない。
だから、
「……そっか」
小さく、そう思った。
特に、
何も感じなかった。
怒る理由もなかった。
悲しむ理由も、
よく分からなかった。
ただ、
そういうものなんだと、
思った。
人は、
そうやって関わるものなんだと、
理解した。
それだけだった。
そのまま、
教室には入らずに、
踵を返す。
廊下を歩く。
足音が、少しだけ響く。
さっきまでと、
何も変わらないはずだった。
でも、
少しだけ、
静かだった。
次の日。
「紬ー、おはよ」
同じ声がする。
「……おはよ」
同じように返す。
顔を見る。
昨日と同じだった。
何も変わっていない。
だから、
それでいいと思った。
何も言わない。
何も変えない。
それが普通なんだと、
思った。
それから、
少しずつ、
誰かと話す回数が減った。
理由はなかった。
ただ、
必要がないと思った。
関わらなくても、
特に問題はなかった。
その方が、
楽だった。
放課後。
教室に残る理由はなかった。
どこかに行く理由もなかった。
少しだけ歩く。
廊下を進んで、
階段を上がる。
上に行く理由はなかった。
それでも、
足は止まらなかった。
屋上の扉の前で、
少しだけ止まる。
手をかける。
そのまま押す。
風が流れ込む。
外に出る。
誰もいない。
フェンスの近くまで歩く。
外を見る。
街が広がっている。
遠くて、
どうでもいいものだった。
しばらく、立っている。
何も起きない。
誰も来ない。
何も求められない。
それでよかった。
それが、
一番、楽だった。
空を見る。
星が出ている。
特に、何も思わなかった。




