第一話 『無名ノ星』
窓際の席は、思っていたよりも落ち着かない。
最初は、ただ外が見えるだけで十分だと思っていた。
遠くの建物の輪郭とか、電線にとまる鳥とか、そういうどうでもいいものを眺めていれば、時間は勝手に過ぎると思っていた。
でも、実際は違った。
外の景色は変わらない。
授業中に見えるものなんて、限られている。
同じ雲が流れて、同じ電柱が立っている。
そこに意味はない。
だから、途中からは見なくなった。
代わりに、教室の中の音がやけに気になるようになった。
ペンを回す音とか、ノートをめくる音とか、誰かの小さな笑い声とか。
それらは全部、同じ空間にあるはずなのに、妙に遠く感じるときがある。
逆に、やけに近く感じるときもあった。
理由は分からない。
ただ、どちらにしても落ち着かなかった。
放課後になると、その感覚は少しだけ強くなる。
授業が終わって、誰かが立ち上がる。
椅子が引かれる音がして、会話が増える。
部活の話とか、帰り道の話とか、どうでもいい話が、少しだけうるさくなる。
別に嫌いなわけじゃない。
ただ、そこに混ざる理由がないだけだった。
最近は遊びに誘われても行く気が起きなくなってしまった。
昔はふたつ返事で了承していたのが嘘みたいだ。
その日も、同じだった。
教室の中で、誰かが笑っている。
その声が、少しだけ耳に残る。
席を立つ理由はなかった。
それでも、立ち上がった。
廊下に出ると、少しだけ静かになる。
足音が響く。
自分のものか、他人のものか、区別はつかなかった。
階段の方へ向かう。
特に行き先は決めていない。
ただ、下に行く気にはならなかった。
そんな時思ったのが、今日はなぜか視線が上を向いている時が多かったことぐらい。
そんなことを思い出し、足は自然と階段を上がっていた。
一段ずつ上がるたびに、音が減っていく。
教室のざわめきは遠くなって、
代わりに、自分の呼吸だけが残る。
屋上に続く扉の前で、足を止める。
立ち入り禁止の札がかかっている。
前からあった気がする。
誰も気にしていないものは、最初から存在しないのと同じだった。
手をかける。
一瞬だけ、考える。
別に、入る理由はない。
それでも、
扉を押した。
空気が変わる。
少しだけ冷たい風が、顔に当たる。
教室の中とは違う匂いがした。
外に出る。
視界が開ける。
フェンスの向こうに、街が広がっていた。
見慣れた景色のはずなのに、少しだけ遠く感じる。
空を見上げる。
星が出ていた。
はっきり見えるわけじゃない。
いくつかが、ぼんやりと光っているだけだった。
それでも、
見えないよりはいいと思った。
しばらく、そのまま立っていた。
特に何をするでもなく、
ただ空を見ている。
時間がどれくらい経ったのかは分からない。
視界の端に、何かが入った。
最初は気にしなかった。
風で揺れる何かかと思った。
でも、それは動かなかった。
もう一度見る。
人だった。
フェンスの近くに、誰かが立っている。
女子だった。
外を見ている。
こちらには気付いていないのか、まったく動かない。
距離はそこそこある。
顔まではよく見えない。
ただ、
その位置が、少しだけ気になった。
フェンスに近すぎる。
危ない、と思った。
落ちるとは思わなかった。
ただ、そういう場所にいるのが、少しだけ引っかかった。
だがそれ以外に光希を惹きつけるものはなかった。
声をかける理由はない。
関係もない。
そのまま無視しても、何も変わらない。
それでも、
「……危ないだろ」
気付いたときには、口に出ていた。
女子の肩が、わずかに動く。
ゆっくりと、こちらを振り向く。
目が合う。
何を考えているのか、分からなかった。
怒っているようにも見えるし、
何も考えていないようにも見える。
あまりにも無愛想な表情をこちらに向けてきたからなのか、思わず瞼が少し下がった。
「別に」
短い返事だった。
それだけ言って、また視線を外す。
それ以上、何も言わなかった。
風が吹く。
フェンスが、わずかに軋む。
少しだけ近づく。
距離はまだある。
「落ちたら、面倒だろ」
それ以上の理由はなかった。
「……落ちないし」
間を置かずに返ってくる。
会話は、それで終わった。
それ以上、続ける意味もなかった。
気まずいのは好きではないのだが、この女子とまともに話せる気はしなかった。
空を見る。
星は、さっきと同じ場所にあった。
隣に人がいるだけで、
少しだけ落ち着かない。
しばらく、そのまま立っている。
途中何度か座ろうと思ったが、隣にいる人の存在でどこか気が引けてしまう。
何も起きない。
何も変わらない。
ただ、
わずかに視線を感じた気がした。
気のせいかもしれない。
そちらを見る。
目は合わなかった。
ほんの一瞬、
顔が逸らされた気がした。
それだけだった。
気にするほどのことでもない。
また空を見る。
星は、変わらない。
時間が過ぎる。
やがて、
足音が一つ、鳴った。
女子が動く。
フェンスから離れて、
こちらに近づくわけでもなく、
一定の距離を保ったまま歩いてくる。
すれ違う。
何も言わない。
近くを通るとき、
ほんの少しだけ、
視線を感じた気がした。
そのまま通り過ぎる。
扉の前で、一瞬だけ止まる。
振り返らない。
何も言わないまま、
扉を開けて出ていく。
静かになる。
最初から、何もなかったみたいだった。
もう一度、空を見る。
星は、変わらずそこにあった。
さっきより、
少しだけ見やすい気がした。
理由は分からない。
ただ、
どうでもよかった。
しばらく、そのまま立っていた。
名前も知らない。
知る必要もない。
ただ、
同じ場所にいただけだ。
それだけのことだった。
ただ、
空に浮かぶいくつかの光が、
やけに目についた。
それが何なのかは、
考えなかった。




