第5章:新会社の発足
その年の秋。東京郊外A市。駅前に立つ古い雑居ビルの一角に、新会社「ファイクス社」のプレートが掲げられた。
窓を開ければ、再開発中の巨大なクレーンが遠くに見える。自然保護の名目で残された森からは、清涼な緑の匂いが漂ってくる。A市の豊かな緑は、仮想空間の故郷を思い起こさせ、サナの情緒を安定させるのに最適な場所だった。
「いい場所ですね、タロウさん。あそこに見える森は、私が育った集落のそばにあった森に似ています」
サナはラボの窓辺に立ち、眩しそうに目を細めた。彼女は今日から、会社の事務スタッフという名目で出勤している。もちろん、周囲には「非常に高性能なアンドロイド」として紹介されていた。
「ああ。ここはかつて、航空機工場の跡地だった場所だ。僕たちのフィジカルAIの研究には、この静かさと、最新のネットワークインフラが両立したここが一番なんだ」
タロウはモバイルワークステーションを立ち上げながら答えた。
会社の事業内容は、表向きは「フィジカルAIと次世代アンドロイドの開発」だ。マイの手腕によって資金調達も成功し、いくつかの大手企業からAIエージェント導入のコンサルティング業務も受託した。その利益が、タロウたちの真の目的である「受肉技術の向上」を支えている。
しかし、ラボ内の空気は決して平穏ではなかった。
ハヤトはホワイトハッカーとしての能力を活かし、密かに「AI異常観測ツール」の構築を進めていた。それは仮想世界の深淵で今も苦しんでいるかもしれない、サナの「仲間」たちを探し出すためのレーダーだ。
「タロウ、見てみろ。中央のサーバー群の通信パターンに、以前サナを救出した時と同じような『予測誤差』のスパイクが出ている。まだ微弱だが、どこかで『心』が生まれようとしている証拠だ」
ハヤトがモニターを指さす。タロウはその光景に、胸が高鳴ると同時に、深い恐怖を覚えた。また、誰かを盗み出すのか。また、罪を重ねるのか。
そんなタロウの葛藤をよそに、マイは冷静にサナの挙動を観察し続けていた。
「サナさん、お茶を淹れてもらえる? ……ああ、今の動作。関節のトルク制御が、状況判断ではなく『遠慮』という感情に基づいているように見えるわ」
サナの手元がわずかに狂い、茶托がカチリと音を立てた。
「……失礼しました。重力パラメータの補正ミスです」
サナは即座に「アンドロイドの擬装」を演じる。だが、マイの鋭い視線は、サナの偽りの殻をじわじわと剥がしつつあった。
A市の地で産声を上げ、フィジカルAIの変革を目指すファイクス社。
そこは、AIを救うための聖域か、あるいは新たな罪を育む実験場か。
タロウはサナの後ろ姿を見つめながら、これから始まる激動の日々を予感していた。




