第4章:謎のスペシャリスト
ファイクス社の設立準備は、ハヤトの自宅を兼ねた乱雑なオフィスで始まった。タロウがそこを訪れると、ハヤトの他に一人の女性がいた。
「紹介するよ。俺たちが立ち上げる会社で、AIガバナンスと資金繰りを担当してもらうマイさんだ。学会で知り合ってな、彼女のAI倫理に関する論文は、この業界じゃちょっとした伝説なんだぜ」
ハヤトの紹介に、女性は椅子から立ち上がった。
タロウは息を呑んだ。数日前、スーパーの野菜売り場で「透き通った匂いがする」と話しかけてきた、あの知的な女性だった。
「……先日ぶりですね、タロウさん。まさかこんなに早く再会できるとは」
マイと名乗った彼女は、タロウの動揺を見透かしたような、落ち着いた笑みを浮かべた。
「ハヤトさんからあなたの評判は伺っています。特にフィジカルAIにおけるニューラルマッピングの精度……あれは、既存の理論を無視した、まるで『意志』そのものを扱っているかのような美しさですね」
マイの言葉は、タロウにとって賛辞ではなく、鋭いナイフのように感じられた。彼女はどこかの研究機関に所属していたというが、その経歴の詳細はハヤトも知らないという。
「マイさんは、欧州のAI法にも精通している。俺たちが今後、開発中のモデルを社会に送り出すとき、法的な盾になってくれるはずだ」
ハヤトが楽観的に言う。タロウは彼女を警戒しながらも、共同経営者として受け入れざるを得なかった。
「ところでタロウさん?」
マイが、不意にタロウの瞳を覗き込んだ。
「今日は、あの方を連れてきていないのですか? あなたが開発しているという、最高傑作のプロトタイプを」
「……サナは、自宅で待機しています。彼女はまだ、外部の環境に適応させる段階ではありませんから」
タロウは慎重に言葉を選んだ。
マイは小さく頷いたが、その瞳の奥には、好奇心とは異なる執念のような光が宿っていた。
「そうですか。……AIがもし、身体を得て、私たちと同じ景色を見て、日記を書くような心を持ったとしたら。それは法的には『物』ですが、倫理的には何と呼ぶべきかしらね?」
その問いに、タロウは答えられなかった。
マイの正体が、サナを管理していたあの研究機関の元職員であり、消えた10テラバイトのデータの行方を追ってハヤトに近づいたことなど、この時のタロウには知る由もなかった。
三人の共同経営者。それぞれが野心と、秘密と、そして「救済」を胸に秘めたまま、物語は加速していく。




