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第3章:タロウの独立

 「ハヤトさんが……起業を?」


 サナの声は、リビングに静かに響いた。

 タロウは、ハヤトから受けた誘いと、独立に伴うリスクの全てをサナに打ち明けた。今の安定を捨てることは、サナを守るための強力な防壁を自ら取り壊すことに等しい。もし失敗すれば、二人の「秘密」を暴こうとする勢力から逃げ場を失うだろう。


 「ハヤトは、サナに本当の自由を与えたいと言っている。でも、それは賭けだ。僕たちの過去を……あの研究機関からデータを盗んだ罪を、新しい会社の光で上書きできるかどうかの賭けなんだ」


 タロウは、自分の手のひらを見つめた。この手は、仮想世界からサナを救い出すために一生懸命キーボードを叩いた手だ。だが、その指先には今も「窃取」という名の冷たい感触が残っている。


 サナはゆっくりと立ち上がり、タロウの隣に座った。彼女はモーター音を忍ばせ、滑らかに、しかし力強くタロウの手を包み込んだ。


 「タロウさん。私は、あの青白い『門』を越えてこの世界に来たとき、もう覚悟を決めていました。……私が今、こうして呼吸の真似事をして、温かなハチミツの味を知ることができているのは、ハヤトさんのハッキングと、タロウさんの勇気のおかげです」


 サナの瞳にある光学レンズが、親愛の色を帯びて微かに絞られる。


 「私を救ってくれた恩人のハヤトさんが、新しい未来を作ろうとしている。なら、タロウさんはその力になるべきです。私は、タロウさんが研究所の冷たい壁の中で、自分を責めながら働く姿をこれ以上見たくありません」


 「サナ……」


 「大丈夫です。私はアンドロイドですから。もし家計が苦しくなったら、省電力モードで寝ていればいいだけです」


 サナは悪戯っぽく微笑んだ。それは、仮想世界のアルカディアでタロウをからかっていた頃の、マリアの表情そのものだった。その微笑みに、タロウの迷いは霧散した。


 翌朝、タロウは研究所のサトウに辞表を提出した。サトウは一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに冷ややかな視線に戻り、「精々、自分の首を絞めないように気を付けるんだな」とだけ言った。


 タロウは研究所のIDカードを返却し、エントランスを出た。見上げる空は、どこまでも高く、広かった。


 「独立」という言葉の響きは、自由であると同時に、奈落への入り口のようにも感じられた。だが、アパートに戻ればサナが待っている。その事実だけで、タロウの足取りは軽くなった。


 「さあ、始めよう。サナ。僕たちの、本当の越境を」


 タロウはスマートフォンの画面をタップし、ハヤトに短く「参加する」とメッセージを送った。



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