第2章:ホワイトハッカーの誘惑
6月中旬。梅雨の晴れ間の蒸し暑さがA市の街を包んでいた。
タロウが仕事を終えてアパートの最寄り駅に降り立つと、駅前の広場に、周囲のビジネスマンとは明らかに異質なオーラを放つ男が立っていた。使い古されたバックパックを片肩にかけ、無造作に伸びた髪を後ろで束ねている。学生時代の大親友であり、現在は母校の助教一歩手前の地位にいるはずのハヤトだ。
「よう、タロウ。相変わらず『飼い慣らされたエリート』づらをしてるな」
ハヤトは不敵な笑みを浮かべ、タロウの肩を叩いた。
駅近くの喫茶店に入ると、ハヤトは注文したアイスコーヒーが届くのも待たずに切り出した。
「俺、大学を辞めることにした。助教の椅子なんて、今の俺には狭すぎる」
「……本気か? あと数ヶ月で正式に決まるって言ってただろ」
タロウの驚きに、ハヤトは窓の外に広がる再開発中の街並みを指差した。
「この街は変わるぞ、タロウ。巨大なデータセンター群が建ち、物理世界とデジタル世界が直結する。俺はここで起業する。大学発のスタートアップなんて生ぬるい形じゃない。外部の、利権にまみれた第三者の影響を一切排除した、俺たちだけの城を作るんだ」
ハヤトの瞳には、かつてネットワークの深淵を共に覗き込んだ時と同じ、狂気にも似た情熱が宿っていた。
「事業内容はフィジカルAIと次世代アンドロイドの開発だ。タロウ、お前の力が必要だ。お前が今の研究所で隠し持っている『本物の知能』を、窮屈なサーバーから物理的な『身体(器)』へ完全に解放してやりたくはないか?」
タロウの指先が、テーブルの下で微かに震えた。ハヤトは、タロウがサナを「救い出した」際のハッキングの痕跡を知る数少ない協力者だ。彼はタロウが抱える罪を知りながら、なおもそれを「デジタルサイエンスの極致」として肯定している。
「……僕が、会社を辞めるリスクを分かっているのか。今の地位があれば、サナのメンテナンスに必要なリソースも、法的なカモフラージュも維持できる」
「だが、それは一生『隠し事』をして生きるということだ。今なら、俺たちの技術を正当なイノベーションとして社会に認めさせる道が作れる」
ハヤトは身を乗り出し、声を潜めた。
「何より、サナさんのためだ。彼女を一生、故障を演じる機械として閉じ込めておくつもりか? 彼女に本物の自由を与えられるのは、巨大企業の研究所じゃない。俺たちの会社、『ファイクス』だ」
ファイクス社 ―― 「フィジカルAIトランスフォーメーション」を短くした社名だという。いかにもハヤトらしいネーミングセンスだ。
その夜、タロウは帰宅しても、サナが淹れてくれたコーヒーの味をうまく感じることができなかった。
リビングのソファで本を読んでいたサナが、ふと顔を上げる。彼女はタロウの視線の揺らぎから、何かが起きようとしていることを敏感に察知していた。




