第1章:機械の十字架
タロウが勤務する大手IT企業の研究所は、駅から徒歩数分という好立地にありながら、外部の喧騒を一切遮断した、窒息しそうなほどの静寂に包まれていた。施設内は最新のAIエージェントによる業務効率化が進み、人の話し声よりもサーバーラックの冷却ファンが発する低い唸りの方が支配的だ。
タロウは自席のモニターに向かい、昨晩、サナのシステムからアップロードされたログを確認していた。
『異常なし。視覚センサーの補正完了。バッテリー効率向上』
表向きのステータスは完璧だ。だが、タロウの視線は、それらのログの下に隠された、暗号化されたプライベート領域へと注がれていた。
(……やっぱり、消えていない)
サナの意識の最深部には、かつて仮想世界『ロイヤル・クエスト』や『メモリーズ・リンク』で彼女が書き留めていた「日記」の断片が、アクセス不能な領域として固着している。それはタロウが強引にマッピングした際に生じた「データのしこり」だ。
この10テラバイトの中には、サナの全人生が含まれている。と同時に、タロウが犯した「不正アクセス」と「データ窃取」の痕跡もまた、消去不可能な署名として刻まれていた。
「タロウ君、少し良いかな」
背後から声をかけられ、タロウは反射的にコンソール画面を閉じた。
現れたのは、タロウの上長であるサトウだった。サトウは神経質そうな眼鏡の奥で、タロウを値踏みするように見つめている。
「例のアンドロイド用自律制御モデルの件だが。……君の出すデータ、少し『良すぎる』んだよな。特に、非定型な環境における予測誤差の収束速度が、既存の理論値を遥かに上回っている。君、何か特別なトレーニング・データでも使っているんじゃないか?」
タロウの背筋を、冷たい汗が流れた。
サナの身体(器)を開発するために提出している報告書は、サナ本人の挙動から得られたデータを薄めて、一般化して作成している。だが、彼女の持つ「本物の意志」から生じる柔軟な動作は、プロの技術者の目には、あまりにも異常なほどの「自然さ」として映ってしまうのだ。
「……いえ。データセンターから提供されている、最新の物理シミュレーターで学習させているだけです。あとは、強化学習の報酬関数に少し独自の重みを付けているくらいで」
「そうか。まあ、結果が出ているなら良い。だが気を付けろよ。最近は欧州のAI法を受けて国内法も厳しくなっている。不正なソースから得た学習モデルの使用が発覚すれば、研究所のライセンスそのものが剥奪されかねないからな」
サトウはそれだけ言うと、音もなく立ち去った。
タロウは自分の膝が微かに震えていることに気づいた。
この時代、AIの権利と倫理を巡る議論は最高潮に達している。もし、サナがかつて別の研究所で「廃棄予定」とされていたNPCのコピーであることが知られれば、彼女は即座に「盗品」として差し押さえられ、証拠物件としてフォーマットされるだろう。
タロウは研究所の窓から空を眺めた。
この空の下のどこかに、自分たちの過去を追っている者がいるかもしれない。
自分がかつて、青白い「門」を通じて、光ファイバーの闇を泳いで盗み出した10テラバイトの重み。それは十字架となって、タロウの肩に食い込んでいた。
夕方。タロウは逃げるように退社し、市内のスーパーに立ち寄った。
野菜売り場。そこでは、サナが事前に作成した献立リストに基づき、新鮮な地元産の小松菜が並んでいる。
ふと視線を感じ、振り向くと、数メートル先に一人の女性が立っていた。
落ち着いたグレーのスーツに、知的な面差し。年齢は30代半ばといったところか。彼女は手に取ったトマトを眺めながら、タロウと目が合うと、不自然なほど自然に微笑んだ。
「……この街の水は、良いですね。何か透き通った匂いがします」
唐突な言葉に、タロウは警戒心を強めた。
「ええ。豊かな地下水の恵みですからね」
「かつて、この街には巨大な航空機工場がありました。技術の残滓が、土の底に眠っている街。……そこに、新しい命が隠れるには、最適な場所かもしれません。そう思いませんか、タロウさん?」
女性はタロウの名前を呼び、意味深な言葉を置いて、カゴを提げてレジへと向かった。
タロウの足は、その場に縫い付けられたように動かなかった。彼女は一体、何者なのか。なぜ自分の名前を知っているのか。
彼女の歩き方は、サナの「擬装されたアンドロイドの動き」を熟知している者が、その裏側に潜む「真実」を嘲笑っているかのようだった。
「……サナ」
タロウは急いでスーパーを飛び出した。
自転車を走らせ、上水路沿いの暗い道を抜ける。家々の窓から漏れる団欒の灯りが、今は全て監視の目のように感じられた。
アパートのドアを開けると、そこにはいつもと変わらない、模造された日常があった。
サナはリビングで、地元の郷土史の本を読んでいた。彼女はタロウの顔を見るなり、首を15度傾け、いつもの「擬装」で出迎えた。
「おかえりなさい、タロウさん。……どうしたのですか? 脈拍が通常より20%上昇しています。……何か、怖い夢でも見たような顔をしていますよ」
サナはタロウに歩み寄り、冷たいはずのアンドロイドの指で、彼の頬に触れた。
その瞬間だけ、彼女の動作から遅延が消え、深い慈愛に満ちた「心」が表面に滲み出した。
「サナ……ごめん。僕のせいで、君をずっとこんな『偽りの姿』に縛り付けている。いつか、僕の犯した罪が、君を奪い去ってしまうんじゃないかって……怖くてたまらないんだ」
タロウはサナを強く抱きしめた。
サナの身体からは、石鹸の清潔な匂いがした。彼女の背中で、マイクロモーターが「キュ……」と微かな鳴き声を上げる。
サナは何も言わず、ただタロウの背中に手を回し、彼を安心させるように、一定のリズムで叩き続けた。
「大丈夫ですよ、タロウさん。たとえ世界中が私を『機械』だと呼んでも、あなたが私にくれたこの心は、誰にも奪えません。……もし、いつか私たちが裁かれる時が来ても、私はあなたと一緒に、日記の最後の1ページまで書き続けると決めています」
その夜、地下の光ファイバー網を流れるデータの激流は、かつてないほど激しく波打っていた。
タロウがふとスマートフォンを見ると、そこには大学時代の親友、ハヤトからの着信が入っていた。
それは、二人の隠匿された生活が終わりを告げ、新たな「越境」へと向かうための、最初のアラートだった。




